木崎湖 × アルフレド&イザベル・アキリザン 「ウォーターフィールド(存在と不在)」

Photo:Tsuyoshi Hongo

アキリザン夫妻の作品「ウォーターフィールド(存在と不在)」は、制作時にネット上から、ごみを湖に浮かべるなんてどういう事なのか、という議論が生まれた作品だ。僕はそのころ、アキリザンの制作サポートと同時に、2018年稼働予定の北アルプスエコパーク(ごみ焼却施設)の横で、川俣正の「源汲・林間テラス」を制作中で、僕らの生活から出るごみについて考えている時だった。

大量消費社会において「ごみ」とはどんな概念なのか。例えば掃除道具から考えても、掃除機と除菌シートが全盛の今と、雑巾とほうきとハタキで掃除していた昔では、清浄の概念は大きく変化している。埃を祓うことが、清めることに繋がっていた昔と、小さな菌をすべて駆除することで清潔さを保つ現代の差は、どこかで、みんな清潔な家に住んで、原子力発電所がメガトン級の放射性廃棄物を創りだしている現代と繋がっているのかもしれない。

アキリザン夫妻と一緒に大町市の世帯を回り、不用品回収をしている時、使わなくなった職人仕事の農機具や、おばあちゃんの嫁入り道具は「不要」だけれど、庭にあるプラスチックの割れた容器は、花に水をあげるのに使うから「必要」という状況を見て、困惑しつつ面白いと思った。個々人が何を基準に必要/不要という判断をするのか?という事が、ごみの概念と大きく関わっている。フィリピン人のアキリザン夫妻が、日本で不要になった道具を集めて売る、ジャパン・ファクトリーというリサイクルビジネスがフィリピンで大ヒットしているのよ、という話を聞いた。日本人がごみと見做すものが、フィリピンでは購買対象なのだと思うと、少し申し訳ない気持ちになった。

そんな事を思い出しながら、夜明け前に木崎湖畔から「ウォーターフィールド(存在と不在)」を眺めていると、ゆっくりと朝霧が晴れて、12隻ある舟の上のオブジェが、湖面に鏡面反射していた。さて、僕らはどんな未来へ向かっていくのだろうか。

アキリザン(AFG) 文責:近藤俊郎