瀬戸内 Dérive

Sato Sosei
芸術祭の記録
Published in
9 min readSep 10, 2016

小豆島から高松にもどってきて、北アルプス芸術祭に参加予定の山本基さんの作品があると思って、電車を乗り継いで高見島へ向かうため、多度津港へ向かった。いい天気で、気持ちよくなりながら電車でパンフレットを見ると、西ノ島→秋会期のみ、と書いてある。しまった、まだ作品が公開されてないんだ、と気づいたけれど、何か山本さんと共有する事もあるかもしれない、と思ってめげずに高見島へ向かう事にした。

多度津の駅から20分くらい歩いて多度津港に着いて、港に停泊しているフェリーの前に居たおばちゃんに声をかけると、「今日は船はでないかもしれないよ」と言われる。ちょっと待ってて、と言って船長に話にいくと、大潮でまだ運航できるかわからないので、待っててとの事。

僕は結構、待ち時間が好きだ。いつか、だれかに一番好きな時間は何か?と聞かれて、シチューか何かをコトコト鍋にかけながら、その前でビール飲みながら本を読むこと、と答えた。素直な答えだったのだけど、自分自身でなんでだろう?と考えると、いつも何かに急かされている自分が、待っているという事を免罪符にして、止まる事を受容できるからかもしれないな、と思ったりした。

フェリーに乗り遅れてはいけないから、ふと思い返せば計画通りの旅だったなぁ、と思いながら、船が出るか出ないかの待ち時間に、初日に買った内藤さんの本を読み始める。そのうち、今回の旅の感想を書き始めたら、船長が近づいてきて「遠くで白波がたってるから、今日はでれんわー」と伝えてくれた。なんだか、やっと旅らしくなってきたなぁ、なんて思った。

2時、これから戻って島めぐりするにも時間はないし、ちょうどいいからどこかまで歩こう、と思って散歩をする事にしたら、なんだかムクムクと楽しくなってきた。

屋根の形が入り組んで不思議な海岸沿いから散歩開始
カラフルな保育園を通り過ぎ
シンプルな歯医者を横目に
なんだかスポーツカーが原寸大でガチだな、こういうの好きだったなぁ とか思いつつ
今回の旅で一番うどんやらしい配色の看板を発見
あの部屋、入りたい。作品つくったら面白そうだなー
うぉ、船つくってる!
やんぼーまーぼー だ。
丘の船を発見
椅子が・・・ 漁師もオフィスチェアで腰痛抱えてたりする?

僕は大学の卒論で、シチュアシオニスト(状況派)について書いた。フーコーとか、西田幾多郎とか、好きだけど難しくてよくわからないなーと思っていたから、状況派もかなり小難しいのだけど、その実践的な文章が面白かったんだと思う。今でいう自費出版の成功例みたいな雰囲気にも、かなりやられていた。

1950年代から70年代初頭にかけて、フランスを始めとしたヨーロッパ諸国において芸術・文化・社会・政治・日常生活の統一的な批判・実践を試みた前衛集団。または彼らによって刊行された機関誌の名称。52年発足のアンテルナシオナル・レトリストを前身とし、その発展系として57年に活動を始め、72年の解散まで領域横断的な文化的・政治的運動を繰り広げた。活動初期は文化批判、後期は政治批判を中心的に行ない、とりわけ五月革命に与えた影響は大きい。
シチュアシオニスト(状況派)は、大量消費やイメージの支配する既存の社会体制、都市計画等へ反発し、それらに支配されないまったく新しい欲望の形態を創出すべく、解放された生の瞬間を集団的かつ意図的に作り上げる、いわゆる「状況の構築」を目指した。また、そのための具体的な手法として「転用(デトゥルヌマン)」「漂流(デリーヴ)」「心理地理学(サイコジオグラフィ)」などを提唱及び実践を行なった。機関誌『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』には冒頭部「『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』に発表されたすべてのテクストは、出典を明記しなくても、自由に転載、翻訳、翻案することができる」という表記があるが、これは旧来のブルジョワ的な私的所有を批判し、新しい価値を生み出そうと試みる、転用の思想を端的に表わしている。

シチュアシオニスト「状況派」長文

この運動の中でも特に素敵だと思ったのは、漂流 Derive。昔から散歩好きで、東京の路地裏から地元の森まで、よくあてもなく歩いていたから、その習性をどこか自由になる手段として肯定してくれた感じがして、うれしかったのを覚えてる。

漂流( dérive )

こうした都市の心理的分節(アーティキュレーション)を探究するため、彼らは、客観的な地図や統計的・社会学的調査の成果を用いるのではなく、都市へのダイナミックな介入としての「漂流( dérive )」という方法を用いた。「漂流」とは、本来の道筋( rive )から逸れて( dé- )成り行きに任せて自由に漂うという意味で、「脱線」、「偏向」、「偏流」などとも訳される言葉だが、ドゥボールの「漂流の理論」によると、「都市生活の諸条件に結び付いた実験的な行動様式、すなわち、変化に富んだ環境のなかを素早く通過する技術。漂流の概念は、心理地理学的性質の効果を認めること、また、遊戯的-創造的行動を肯定することと分かちがたく結びついており、その点において、それは旅や散策のような古典的概念とまったく逆のものである」と定義されている。この「漂流」の理論に基づき、ドゥボールたちは、パリの街の忘れられた地域や労働者街、駅の構内や夜の市場などを歩き回って都市の心理地理学的調査を行い、その綿密な報告──夜の酒場での不思議な出来事やパリの各区で同時に開始した複数の「漂流」の顛末など──を行っている。「漂流」によって、人は日常の生活から切り離されて、地図やメディアによる常識とは違った行動と心理の新しい可能性を発見することができる。「漂流」は、シュルレアリストの唱える「客観的偶然」の発見のための散策でも、日本のネオ・ダダの後継者が提唱した「路上観察学」なるものでもない。シュルレアリスト的な「偶然」は、現代の社会では無意識のうちに体制の保守的意識に絡め取られてしまい、「路上観察学」は懐古的意識に根ざしたものにすぎず、体制都市計画に対して無力だからだ。「漂流」は、これらと異なりダイナミックで意識的な行動である。それは、「状況」の構築という明確な目的を持つ行動であり、そのための日常秩序との意識的な切断なのである。

こういう風に言われると、今ここの状況に全力で向き合える胆力が僕にあるのか疑問だけれど、たぶんこの辺りの感覚が「直島の違和感」にもつながってる。眼前の状況に対して感覚を開放する作法として(個々人の好みもあるだろうけれど)退屈な感じがしたんだ。そして、それがアートだと大見栄を切っている事への違和感だったのかもしれない。

船の頭はこう取れる
産業廃棄物?
ふ頭
おじさん
潮干狩り
海に向いた地蔵
地蔵の前の風景
造花

5時間位歩き続けて、色々なことを考えた。旅の醍醐味って、美しい物を見る事や美味しいものを食べる事だけじゃなくて、その瞬間の眼前にある状況を、新しいものとして新鮮に意識できる事だと思う。どうやって新鮮な世界の一助になるのか?芸術祭も含めて、自分がどこへ向かって、何をしようとしているのか、言葉と認識をもう少し発酵させたい。

いつの間にか暗くなってきたので、ビールを飲み始めたら気持ちが良くて、あー、いい日だったな、とまた思いました。なにはともあれ瀬戸内最高。

P.S 次の日に行った大阪はディープで、それも最高だったので、なんでもいいっちゃ、基本的になんでもいいんだなー俺って思う。つまらない事にからめとられないように、気をつけずにいこう、と思う旅でした。怒られるのは苦手だけど。

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