芸術祭について 2014

北アルプス国際芸術祭について

Sato Sosei
芸術祭の記録

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2014年に「信濃大町 食とアートの廻廊 2014」の開催後、次回はちゃんと自分が納得できる芸術祭にしようと決心し、地域について、未来について書いた文章です。

それから、できるかぎり向き合ってきて、この事業が企画書の上だけでなく始動し始めました。地元では開催反対の動きもありますが、未来をつくる時期なのだと思います。

あさひAIRを始めたり、山の口ぶえをやったり、色々と変化の1年でしたが、それでもこの時に書いた基本的な認識は保っているので、あえて今の言葉で書き換えず、1年前に書いたままを晒します。よろしければ読んでください。

他の仕事が落ち着いたら、2017年に向けて、北アルプス芸術祭の可能性や課題をちゃんと文章にしたいと思っています。

地域興しの可能性について

地域興しって言葉は胡散臭いなぁと思いつつ、地域系NPO法人ぐるったネットワーク大町の一員として4月から働き始めてもう8 か月。自分なりに整理しなきゃと思うので、以下 3つの項目で文章化します。

① 地域って何?
② 「かせぎ」と「つとめ」
③ 芸術祭について

まず、 ①地域って何? では、そもそも興す対象の「地域」ってどういう事なのか。そこで問題になっている事、具体的には仕事が無い現状と可能性を ②「かせぎ」と「つとめ」 で考える。そして最後に ③芸術祭について は、 2017年にやるって話になっている芸術祭の危険性と面白さを整理します。

① 地域って何?

広大な地表を分割して地域という言葉が生まれる。地球上のアジアというエリア、日本という国、長野という県、大町という市、源汲という集落。隣接する空間から区別される、より大きな地域の一部分。これが一般的な「地域」という言葉の意味だ。山や川や海や砂漠の地形によって隔たれた各地域には、固有な気候、生態系、風土、歴史、産業、景観がある。そしてビーチで心地よい音楽と山頂で心地よい音楽が違うように、それぞれの環境が人の気質や心地よさの指向性を形成し、各々の「今ここ」を創りあげる。そうやって共有される複雑な要素の階層によって、大小の地域が浮かび上がる。

現在 70億人が住んでいる地球という地域が共有しているのは、ものすごく一定な湿度と温度だろう。生命は母なる海から生まれた。胎児の 90%は水分で構成されていて、老人になれば 50%程度になる。一定の水分を保つ事で人体は湿度を維持していて、それができる環境を地球が創りだしている事と考えると、この星とこの体の不思議で奇跡的な関係に思いがめぐる。人が正常に生きられる体温は 35度~37 度、宇宙空間や太陽の温度を考えると、針の穴を通すような気候変動の少なさでこの環境は成立している。

次に日本という地域が共有しているのは、活断層がひしめく島国である事。その成り立ちは稲作文化に支えられた農耕民族で、近代には「国家」という社会形態をとっている。地域において歴史を共有する「言語」の役割は大きく、漢字とかなの織り交ざった「日本語」で蓄積された意志体系は、他地域と日本を差異化し、独自に更新していく。地域という言葉は空間的であるの同時に、言語によって社会、経済、歴史、記憶、意志が繋がって形成される。

そして、日本アルプスを抱える長野県という地域。明治初期の廃藩置県までは大部分が信濃国と呼ばれていて、島国でありながら海がない。最近面白いなぁと思ったのは、信濃教育の事。長野県で生まれ育った年上の友人に「信濃教育の特徴は独自性なんだよ」と聞いた。この辺の人は、信濃の国(長野県歌)は歌えても、君が代(日本国家)は歌えない(知らない)らしい。中央とは関係なく教育を考えたのが信濃教育なんだ、と。だからみんなやりたい放題だったそうで、先生と学校を離れて遊ぶことも少なくなかったそうだ。個人的にはそれは素晴らしい可能性だと思った。

そして現在の職場がある大町市、この辺りで話がより具体的になる。北アルプスの山麓にある扇状地の北端で、冬は雪深くマイナス 17度まで下がる。古代では北と南からヒスイと黒曜石を持つ人達が出会い、室町時代から塩の道の宿場町として栄えた。近代はダム建設によって熱と思惑が渦巻き、盛り場では万札が宙に舞ったらしい。そして現代、人口は 2.8万人で減少傾向、俺が住んでいる池田町他 4町村を含めた大北地域としては 6万人。中央集権型のトップダウンによって自立判断機構は弱体化し、それによって仕事が減り続けて過疎高齢化する中、様々な自然環境や生きる知恵が廃れていく現状がある。

それでも東京郊外のベッドタウン出身者としては、やはり自然環境はワイルドで、生活圏自体が生物多様性に恵まれ、多くの人が作物を育てて自給する生活技術を保持している。地域連帯は薄くなっているとはいえ、都会に比べればそれぞれが収入とは別にコミュニティの事を考えた活動をしているし、自然が厳しいからこそ環境に適応して「生活する達人」にも出会えた。ホワイトヘッドが 「一個の有機体は、それが存在するためには全宇宙を必要とする。」 という様に、ある自然環境に適応して生きる事はいつの時代も生命の醍醐味だ。そういう基本的な事に対峙しながら、地域の姿は更新され続けている。

大町市を構成する集落、集落を構成する家族、家族を構成する身体、という風にその構成要素を遡って考えると、地域とはやはり人なんだと思う。生まれてから 70年間住んでいる人もいれば、都会から移住してきた人、仕事で単身赴任している人、昼間だけ仕事で通っている人など、多彩な背景の人たちによってこの地域の個性が浮かび上がる。しかし、高度経済成長における工業化、効率化、分業化によって、土地自体を基盤とした生業は激減した。その経済成長も限界値へと差し迫っている中、もう一度地域を構成する個々が、土地のダイナミックさを活かした生活をとりもどす時期に来ているのではないだろうか?

佐藤壮生 2014年12月

② 「かせぎ」と「つとめ」

人間生活の大切なつながりを「くらし」と「かせぎ」と「つとめ」に分割して考えると、現状の課題が浮かび上がる。現代は資本主義経済によって「くらし」と「つとめ」の価値を「かせぎ」で代替している。田舎の古い体質は、協調圧力で個人の自由が損なわれるという問題もあるので「かせぎ」が様々なつながりを代替する事は、ある時代において必要性があったのだと思う。しかし、その方法もまた、段々息苦しくなってきた。アフリカ人経済学者のダンビサ・モヨは、現代に議会制民主主義は国民全体が一定以上の所得水準でなければ機能しえないという。そう考えると、資本主義とセットになった民主主義には、「かせぎ」(経済)によって「つとめ」(社会性)や「くらし」(生活)を代替えする機能がすでに内包されている。そしてその経済が、どうもまた別の問題を引き起こしているように感じる。それによって起きるアンバランスを是正するためには、現代における「つとめ」とは何かを考えなければいけない。

童話作家のミヒャエルエンデが、お金は死なないから怖い、と言っていた。例えば私がリンゴを 100円で買う。その後リンゴは私に食べられて無くなるが、 100円は無くならない。これが食べ物の物々交換であれば消化されてこの世から消えるが、お金は消えない。家電も野菜も魚も人間も、なんでもいつかこの世から無くなるのに、お金はその価値を持続し続ける。そして、お金自体が商品として売買されることが、現代の根本的な原因だとエンデは言う。

日本銀行は平成 26年度に180 兆円以上の国債を発行した。なんだかとんでもない金額な気がするけど、そのお金はどこにあるのか?毎年各国から鬼のように発行され続けるお金は、その他の貨幣、もしくはそれに準ずる株券や国債を売買するために増え続けている。その数字にはもう実態がない事が明らかなのに、人知を超えて膨張する。国内総生産が約 25兆円のギリシャが経済破綻して、その 65倍、約1700 兆円の国内総生産を誇るアメリカを含む金持ちの西洋諸国が軒並み経済危機に陥る現状は、金で金を買うよくわからないシステム自体が信用されなくなる事で起こっているんじゃないか。

そんな中、この前トランジションタウンという草の根運動を知った。トランジションは「移り変わり」という意味で、「過度に石油などの化石燃料に依存した社会経済システム」から「自然との共生を前提とした持続可能な社会経済システム」への移行を目指すムーブメントだ。先日、神奈川県の旧藤野町へ訪れたとき、トランジションタウン藤野の代表をしていた高橋さんと話す機会があり、そこで発行している地域通貨の話が伺った。地域通貨という言葉を聞くと、なんだ古臭い感じもしたが、その運用の仕方に現代的な可能性を感じたので紹介したい。

藤野では「萬(よろづ)」という地域通貨を発行している。といっても紙幣やコインではなく「通帳型」。だれかと萬のやり取りをする場合は、例えば庭仕事を手伝ったら、相手の通帳から 3000萬マイナスしてサインをし、自分の通帳に 3000萬プラスしてサインをもらうという形式だ。先日、高橋さんが 5000円と5000 萬の混合でチラシデザインをある地元のプロデザイナーに頼んだ時、その人に「今、萬がマイナスになっているから全額を萬で欲しい」と言われたらしい。しかし、 1万萬払ってしまうと高橋さんの萬がマイナスになってしまう状態で、それは嫌だなぁ、というやり取りがあったそうだ。この 2人の中で萬の価値が円を超えているのはとても面白い。

情報交換の方法論にインターネットが加わる事で、その新しい可能性が見えてきた。 90年代から爆発的に普及したインターネット、その後 SNSが浸透して、Facebook などが注目を集め、今までとは別次元のコミュニケーションが生まれた。地方の古民家に移住して、その改築の手伝いや畑仕事を FBで不特定多数の友達に呼びかけてボランティアを募る。現段階ではまだ若年層に限られているが、そこに一石を投じるのがこの地域通貨の運用だ。これが面白いのは、ボランティアと仕事の間に位置するような作業を一時的に数字に換算して地域内で運用できる事。そしてFacebookってなんや?というお年寄りも、ガラケーで送受信できるメーリングリストや掲示板を活用して、この動きに加われる事だろう。

そもそも、改築や農作業、生活する事において、その土地で暮らしてきたお年寄りの知恵、経験、資材は移住者の若者とは比較できないほど豊かだ。そういう豊かさを分けてもらう、その代わりに若い身体を活用した作業を手伝う。ただではなく、対価としてそういう数値的指標があることで、人に頼みやすくなる。そして、その辺のおばあちゃんから不特定多数へ「柿を収穫してくれる人募集、おすそわけあり、報酬 1000萬」みたいなメールが届く。そういう関係性が活発化すれば、前述した「つとめ」を補強していく可能性がある。現代のアベノミクスに代表されるような経済至上主義、効率至上主義はそう簡単にはなくならないし、「かせぎ」が重要である事に異論はない。しかし、それだけではない価値観を育み、サバイバルを見越して人間生活をより具体的に学ばなければならない時代が到来している。

最後に、ニーク・マークスという統計学者が提唱している「地球幸福度指数」という概念を紹介したい。これは国の価値基準として重要視されている「国内総生産」の指標では人間本来の豊かさは測れないという認識に基づいて作られた比較的新しい指標で、「国民満足度(アンケート) ×平均寿命/環境への負荷」の計算式で数値化され、 2014年の世界一には中米のコスタリカが選ばれている。満足感を感じながら、なるべく少ない消費エネルギーによって長生きする事が幸福度の唯一の指標だとは思わないが、国内総生産に比べたらかなりいい線いってると思う。

このニークが TEDのプレゼンテーションで、幸福度向上につながる 5つの行動、というのを語っていた。

1 . Connect 社会や身近な人とのつながりを持つこと
2 . Be active 活動的であること
3 . Take notice 周りや自分に感心を持つこと
4 . Keep learning 学び続けること
5 . Give 与えること

「地球幸福度指数」や「地域通貨 萬」が現代に必要になっている理由は、単純に言えば経済効率至上の価値判断が行き詰っているからだと思う。地方には前世代的な村社会のローカルルールが存在していて、人間関係で面倒な事も多い。そういう息苦しさから逃げて、都会の雑踏へ踏み込んでいく若者が多い時代もあったが、その流れはインターネットの登場によって揺り戻されてつつある。大地の芸術祭ディレクターの北川フラム氏が、「都市は地域を熱望している」と語っていた。それは、幸福度向上につながる上記 5つの行動が、利便性の高い都市生活よりも、少し不便な地方生活で充実する可能性があるからではないだろうか。貨幣によって貨幣を買う事で膨張し続ける経済とは別の価値基準を共有し、個々人が未来志向で「つとめ」を模索することから、その可能性は萌芽するのではないかと思う。

③ 芸術祭について

昨年の夏、アートディレクターの北川フラムさんがアドバイザーを担って「信濃大町 食とアートの廻廊」を開催し、その運営に携わった。 彼が15年前に始めた3年に1度新潟で開催されている大地の芸術祭は今年で 5 回目を迎える。「人間は自然に内包される」というテーマの基、世界各国から 300人以上のアーティストを呼び、地域活性化と美術の再定義を目指す、総予算規模50億円以上の事業だ。そのフラムさんが言った、「氷河の記憶から銀河の彼方まで、疾走する一群の修羅でありたい」という言葉があって、すごく興味をもった。実際やってみると自分の甘さから四苦八苦した 1年ではあったが、アートという言葉考え直す機会になったので、それを考察する。

まず約 3年前に整理した芸術の定義。生意気で恥ずかしいが、とりあえず

‐芸術とは無意識である。
世界は無意識で構成されている。世界は自分自身であり、それ以上でも以下でもない。全ての醜い事象はだれのせいにもできない自分の問題であり、全ての美しい事象もしかりである。それは無意識という内部の未知が管理する世界の真理であり、それを読み解く事が芸術の意義だ。

‐芸術とは自己救済である。
「生きる」という事の中で、自分でその理由を持続させる事。自分という意味に対して素直な問題設定をし、それを答える努力をする。そうやって自分を生命として維持する理由、自分を停滞させずに次の段階へと救う作業として芸術がある。

‐芸術とは「美しい意志の軌跡」である。
現代美術はある社会が内包する個人的な「美しい意志の軌跡」によって起こったムーブメントであり、その後に「美しい意志の軌跡」として現象化したのは旧体制的な美術界(=自由主義の個人表現)ではなく、新しい媒体(=コミュニケーションとイノベーション)へ変化している。それは体感の世界。

‐芸術とはオルタナティブである。
違う生命を想うことが芸術の効果である。つまり「美しい意志の軌跡」は他者に体感される事によって芸術となる。

こんな事を書いておきながら、正直アートワールドに詳しくもないし、アートを社会的に活用する方法をあんまり考えた事もなかった。でもこれから、その活用法を現場で考えていくことが、芸術祭を運営していくために必要だ。

まず、芸術祭をやるという事は、仕組みを考えるという事だと思う。
アーティストは変わった人達だ。もう単純に「変わっている」という事が面白い。もう少し言うなら、自分に対してピュアな人達だと思う。アーティストが自らの問題設定を独特な表現で現象化する時、あるレベルを超えた時点で普遍的にネットワーク化されて、みんなに面白さが伝わる。そういう独特な価値観を地域に持ち込むことで、摩擦を含めて地域の価値観がカオス化する。たぶん、大地の芸術祭を筆頭に、地域における芸術祭が多発している現代の動きは、そうやって常識の限界を超えるような状態を期待している。

仕方がない、こんなもんだ、と言って諦めていてはどうにもならなくなってきたからこそ、臨界点で新しいカオスを求め始めた、これだから社会は面白い。ただ、それが驚きと共に遂行されている間はいいのだけれど、システムとして円熟してきた時、その効果は常識に内包されてしまう。より新しい方へと向かおうとする動き自体が、どこかで見たことのある風景の焼き直しになっていく。そうなったら、かつてあった芸術祭の効果は期待できない。なんとなくアートな感じの人達が集まった発表会になり、それは普遍的にネットワーク化するレベルには至らない。だからもう一度、どうやって今の常識を越えられるのか、考えないといけない。

非常識な事は、どんな専門性の中にもある。それは、普通の人(なんて本当は存在しないんだけど)が無関心に通り過ぎている様々な事象に、疑問をもつ事から専門的になっていく。ある技術や事象を深く考えたり体感していくと、常識なんて通用しないって事に気づくからだ。職人の常識も、研究者の常識も、普通の人からすれば非常識。その中でアーティストが特殊なのは、彼らがそれを「表現」する人達だからだろう。

先日、鎌倉なんとかナーレという活動をしている高松智行さんに会った。彼は形骸化した教育現場を一度アートの力でカオス化して、もう一度、教員が全人間性で子供たちと向き合う必要性を感じている。子どもたちがなんとなく、子供らしさを装って設定している限界を越えさせるために、子供のために何かしてあげるのではなく、子供のために何もしない方法を模索している。彼はアーティストに学校を占拠させる事で、「こうあるべき」という常識を壊して、自分の限界を更新しようとする大人の背中を見せるため、鎌倉なんとかナーレの活動しているんだと思った。そう考えると、アートの活用法をより具体的に言うと、「限界を設定しない事」なんじゃないかと思う。

最近興奮した文章で、ラディカル・アトムという単語を目にした。石井浩さんという、コンピュータサイエンスを MITで研究している人のインタビューだった。雑誌「広告」カンヌ特集より → http://www.kohkoku.jp/sp/201310/
なにが面白かったって、この人はすべてのラベルを否定する。常識に停滞する専門領域を超えるという事は、文系や理系の専門領域を持った人たちのコラボを目指すのではなく、一人の人間がアートも、デザインも、サイエンスも、エンジニアリングも、ビジネスも、全部できなきゃだめだよ、なんて無理難題を言ってのける。全知全能を謳歌しようぜ、なんて楽しい提案をする。その上で、他流試合を繰り返して、反対意見、異なる意見、違うカルチャー、そういう違う遺伝子を自分に取り入れていく事がそのための方法論だ、っていう。そういうラディカル(自由な、踊る)アトム(原子)でなきゃ面白くないでしょ、という話は読んでいてウキウキした。何かをするための本質的な理由や、問題提起に向き合い続けるためには、それくらい柔軟で浸透力のある自分で、その環境に対応する必要があると思う。

今年、開催予定の大地の芸術祭では、「人間は自然に内包される」というメインテーマの他に、 2つのコンセプトがある。

人間が自然・文明と関わる術こそが「美術」

都市と地方の交換

フラムさんが提唱するこの一つ目のコンセプトは、美術の枠組みを外して、自然や文明という超複雑な現象にアーティストが向き合う場を作ろうとしている様に感じた。現代のアーティストが面白いのは、技術でも経験でもなく、そういう柔軟さが求められる問題提起に対応できるマインドセットなのかもしれない。その上で大地の芸術祭は、その超複雑な土地に積層している記憶を垣間見る装置としてアート作品を設置していき、アートを回ることで様々な時代の越後妻有を感じられるような、時空を超える動線をひいた。なんともよく考えられたシステムだって思ったけど、これはきっと最初から計画したのではなく、様々な他流試合で試行錯誤しながら形成された状況なのだろう。

もう一度、「食とアートの廻廊」に戻ってくる。誤解を恐れずに言うのならば、このプロジェクトには北川フラムさんに来てもらう事で、どこか当事者が思考停止してしまう危険性がある。そして、それで当事者が動けなければ、 15年前に行われた大地の芸術祭の焼き直しすらできない、中途半端な発表会になってしまう。その危険性はわかるのだけど、それを避けるために総合計画を建てたって意味がない。だから、自分で感じている違和感と向き合う事から始めようと思って、 2015年のためにいくつかのプランを提案した。

① 山川山学校 -地域の大人が、その生業を基に算数、国語、理科、社会、体育や図工の授業を教える。鎌倉の高松さんが持っている問題意識にはとても共感していて、子どもたちが子供という役割を装う事で自由な感性にふたをしている状況は、はっきり言って無残だ。そしてこれは日本で特に酷いと思う。人類の英知は素晴らしいから、知識を詰め込むことは大事だけれど、同時に正解のない問題に自分で向き合う機会がなければ両輪は回らずどこへも進まない。そして教育制度でそういう余白を生み出すのは、アートの役割のひとつだと思う。

② 山川山大茶会 -秀吉が開いた大茶会では、身分の差別なく秀吉の茶が飲めるというふれこみだった。これの面白さは、「だれかをもてなす」という1:1の部分。さもすれば1:不特定多数の関係に陥ってしまいがちな表現は、それが理由で多くの人にとって関係のない事になってしまう。そして大茶会が面白いもう一つの理由は、そのもてなしが、茶碗と城を交換できるクレイジーな戦国時代の数奇者達がそれぞれの趣味嗜好を表現する場、という所だ。あまり詳しくは考えてなかったけど、そんなイメージを基に、おもてなしイベントを作れば面白いんじゃないだろうか、という企画。

③ 源流域プロジェクト -大町の源汲という場所に廃棄物処理場ができる。源汲というのは「源」を「汲む」という名前の通り、北アルプスの麓にある鹿島川最上流の集落で、そんな場所にごみ焼却炉を作ると聞いて、だれが決めたか知らないが、なんてセンスが悪いんだって思った。でもこれは誰か一人の人間が決めたのではなく、なんとなくそう決まっっていったんだとわかってきた時、こうやって周辺の弱体化した地域に迷惑施設ができるという事が、福島の原発問題ともつながって、普遍的な問題なんだと感じた。そしてその後、不謹慎かもしれないが、なんだか面白いかもと思った。北アルプスの雪解け水、日本有数の源流が地下を流れる土地の上に何千度の焼却施設が建設される事が、場所としてすごい振り幅だからだ。そこに現れている人間のサイケデリックさを簡単に否定せずに、よりよい方向へ進みたいなと思った。

ここでの問題は、俺はだれにも認められなくても、この企画で走るぜ、なんていう気がない事だ。だから企画を建てても実行できない。これはどうしていいか自分でもわからないが、ここで焦っても情緒不安定になって妻子に迷惑かけるし、なんて言い訳をしてペンディングしているのが今の現状。この状況を更新するために、またゆっくり整理しながら、限界設定を解除していこうと思う。

読んで頂き、ありがとうございました。感想、アドバイス、コメントなど、ぜひ聞きたいです。どうぞよろしくお願いします。

壮生

※文章最後の企画案は、2014年当時に妄想したものです。現在妄想進行中の企画もありますが、北アルプス国際芸術祭でこれからやることを示しているわけではありません。

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