ベトナム難民からUber CTOへ — Thuan Phamの波瀾万丈

Uber Technologies, Inc.の最高技術責任者Thuan Pham. 写真提供:TheInformation

Thuan Phamが20年に及ぶ長い戦争に苦しむベトナムを難民ボートで去ったのは、1979年のことであった。60メートルのボートに10歳のThuan、母、弟、そしてその他およそ370人がライフジャケットなしに乗っていた。

ボートはマレーシアに到着したが、難民であるThuanたち家族は上陸を断られた。戦争の勃発しているベトナムへ帰りたくはなく、Thuanの母親は2人の子供を連れて別のボートへ乗り込み、インドネシアのLetung島へと向かった。10ヶ月にも及ぶ旅であった。

幼いThuanはよくキャンディを買いに町の近くまで泳いでいった。彼の母はそのキャンディを植民地で売り、子供に与えるパンを買うためのお金を稼いだ。

ブンタウ、ベトナム — 1975年4月:北サイゴンからの難民。海軍船で南サイゴンのブンタウに座礁した。(Jack Cahill/Toronto Star via Getty Images)

「私たちは1日に1円の利益しかあげていませんでしたが、当時はそれでさえ高価でした。それで新鮮な魚が買えたのですから。」Uberの最高技術責任者であるThuanはデリーで開催されたUberExchange プログラムでそう話した。

彼はどうやってベトナムからうまく脱出することができたのか。Thuanによれば、彼の経験した「海を越えるボートの旅」の成功率は50%である。船旅での途中、Thuanとその家族は2度も海賊に襲われた。

「私たちはパニックになることはありません。実際には落ちついていて、自ら身を任せます。スタートアップにおける道のりも同じです。1日にして全てを失ったとしても、落ちつきを持てばまたそれを作り直すことができます。」

戦時中の弾丸の殻での遊び

Thuanがサイゴンで過ごした幼少期の思い出は死への恐れで消え去り、学習経験として、もちろんUberを作ることも含んで彼は全てをとった。「空襲が来た時はいつも、窓を閉めて机の下で夜を過ごしました。」晴れた日の朝には、幼いThuanと友達は外で何百もの弾丸の殻を集めて遊び、夜には友達同士でそれを交換し合った。

ベトナム戦争の写真. 写真提供:Wikipedia

「人生は儚いということを教わりました。私は若い起業家たちにスタートアップを学習経験として扱うように言っています。もし失敗してもまた作り直すことはできます。私たちは自由な世界にいるのです。」彼は付け加えた。

難民ボートでの生活

Thuanは難民ボートを「いわしの缶詰」とたとえている。彼は現在シリアからヨーロッパに渡る、大量の移民が乗り込むボートを同じようなものと考えている。

彼が乗っていた、ベトナム沿岸発のMT-2377船は人が三段に乗り込んでいた。

「基本的に、下の段で左右どちらかの向きに横たわらなければならない人がいます。船旅の間はずっとそこに横たわっている必要があるんです。それ以外どこにも動けないのです。」とThuanは言う。彼はボートの中でその3段のうちの1つにおよそ3日間も積み重ねられていた。呼吸をするための通気口はどの段もとても狭かった。

トイレへ行きたい時はどうするのか?「そこから動けないので、そこでするしかないんです。そして汚物は全て下の段へ流れていくんです。私の母はその汚物が流れてくる下の段にいました。」と彼は答えた。

ベトナム戦争中、泥だらけの河川でうずくまる女性と子供たち。西サイゴンから32キロほど離れたベトコンで、激しい攻撃から隠れている。(AP Photo/Horst Faas)

アメリカでの生活

インドネシアへ渡った後、Thuanの母親はアメリカへの亡命を申し込んだ。申し込みは承諾され、家族はメリーランドへと渡った。彼の母はそこで日中はガソリンスタンドで経理の仕事をし、夜にはスーパーマーケットで食料包装を行っていた。

Thuanはアメリカの学校に入学し、週末には洗車ステーションで働いた。彼は寄付された服と靴を着ていた。「誰かに気づかれて言われるまで、2年間くらい女の子の靴下を履いていたのをおぼろげながら覚えています。」

Thuanは1986年にマサチューセッツ工科大学のコンピューターサイエンス学士課程に入学した。そしてちょうどインターネットが普及し始めた頃である1991年に卒業した。

「学校に行きたくないと思っている意欲的な起業家にも、私なら教育を受けることを推奨します。大学に行くことによって道は開けますから。」と彼は言う。

香港へ向かうベトナムの難民たちー1979年6月5日. 写真提供:COR/AFP/Getty Images.

マサチューセッツ工科大学卒業後は、ThuanはHP Lab、Silicon Graphics、DoubleClick、VMWareで働いた。Uberには2013年に就職。Uberが60都市に展開し、従業員は200人の時である。今では400都市に展開している。

「人生の貴重な時間を博士号のために費やすのには反対しています。それがその人の生活に貢献するものでない限りはね。代わりにスタートアップを立ち上げればバリューを生み出すことができます。」と彼は話す。

兵士であったThuanの父はサイゴンで教師になり、ベトナムに残っていた。Thuanが父親に会うことができたのは、彼が大学卒業後に合法市民となってから10年だけであった。「私たちはその時までに変わっていました。」と彼は振り返る。

Uberが世界に衝撃を走らせた時

入って間もない頃、Thuanはエンジニアによるコーディングエラーか、もしくは一つの機器にあるバグによってUberアプリがクラッシュするのを何度も目の当たりにした。「今は故障したりしません。なぜならこれまでの道のりですでにそれを経験してきたからです。起業家は最初のうちに早く失敗するべきなのです。」

UberではThuanはそのようにしてアプリの構造を改造している。何かの調子がどこかで悪くなっても、プラットフォーム自体は機能し続ける。

写真提供:AFP/ Getty Images, via Flickr

Thuanはこのタクシーアプリ企業であるUberに、ハイブリット・サステイナビリティーモデルを導入した。Uberは独自のサーバーファームを作ると同時に、Amazon Webサービスのような第三者にも頼っている。

中国のような国では、リクエストはローカルサーバーに届くようになっていてので、アプリの返答がより頻繁である。

Uberの惑星レベルの問題を解決する

Uberは今週、バンガロールにテクノロジーセンターをローンチした。ロケーションマッピングや現金での支払い、停滞値幅でのアプリ作動など、インド特有の問題を解決するためだ。

Uberは他にも UberEatというサービスを新しく導入した。

Uberはメガスケールに考えている。「私たちは惑星規模のオンデマンド消費のプラットフォームを構想しているんです。数分以内にあなたの元へものを届けることができるプラットフォームが作れるなんてワクワクします。」と彼は言う。

スタートアップ起業家へのヒント

Thuanがインドを訪問していた際に、UberExchange programにて幾つかのスタートアップをメンタリングしていた。

その際に彼が残したヒントを紹介。

  1. 人々にインパクトを与えるものであれば、資金はすぐにやってくる。資金だけを追いかけていては、本当に不幸になってしまうだろう。
  2. 世界中でインパクトがあるものを作り人々の生活を変えれば、いつでもあなたの心のモチベーションとなるだろう。
  3. 自分のことを真剣に考えすぎないこと。人生において大きなリスクをも持つことをためらわないこと。そしていつでも楽しむこと。
  4. 還元すること。人々を育成するのは最終的にあなたに満足感を与えるでしょう。チーム内の若いメンバーを、リードし、何百もの人々にインパクトを与えられるような人材に育成すればあなたは最高の気分になることでしょう。

By Harsimran Julka

[原文へ]

翻訳:Mayu Tomozoe

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