この手でここにマーブルを

松木 直人 NAOTO Matsuki
TEKAZ BAKAZ CLUB
Published in
5 min readFeb 20, 2020

大地や動物のように造形をしたいという欲求がある。
宝石のようでもなく、表現としてでなく、産声をあげるような造形をしてみたい。透き通るような美しさでなくていい、賢くなくていい、ただ世界に1つの焦点として生み出されたものが見てみたい。

それでは、この世に生み出された美しい物をあつめひっそりとやればいいではないか。いや、それでは満足できない。わがままかもしれない。
なんでもない万人が手に入れられるものから、写真には映らないような宝物を作り上げられないか。

自然のように、野性のように、ヴァナキュラーな、ということを今更言うつもりはない。自分の生活がとうにそのようなものとかけ離れていて、その世界に身を浸すことなどできないことは知っている。でも行き来はできる。

年始に石上純也の「水庭」を訪れた。美しい自然を見るかのような人々の目に違和感を感じていたが、言葉はうまくでてこなかった。その後、文部科学大臣新人賞の選定理由に的を得た批評をみつけた。

森の中の一風景に見える「水庭」は,極めて人工的な作品である。もともとここは何もない平地だった。全てに先立って,石上純也氏のイメージに立ち現れたもの,それを建築的な手法を駆使して,誰も見たことのない風景へと導いた。こん な風景は自然の中には存在しない。だから,少しでも人が手を緩めると崩壊してしまうフィクションであり,その蜻蛉(かげろう)のような儚(はかな)さが人を引き付ける。危うい姿勢でつま先立ちをして語り掛ける静寂。自然とは何か。人とは何か。それは,精神の深奥に語り掛ける美しい逆説である。

私はもの作る人の入り口にいる。実作と呼べるのは、6年間通い続けている高山建築学校でのコンクリートでの仕事くらいである。

これは巨大な雨樋である。作るにあたり考えたことは様々あるが、ここではできた物について語ってみたい。
道路とともに建設された巨大な擁壁にスケールを下げた人間の拠り所を作りたいとおもった。近場の斜面に生えた茅を刈り込み茅船のような型枠を作り、擁壁を越す足場を組み、擁壁にくっつけるように吊り下げた。蟻鱒鳶ルに、岡啓輔に、林剛平に、数河という土地に、教わったことが一つの焦点を結んだ。

打設風景
茅吊り型枠

茅で編み込まれた型枠は詰め込まれるコンクリートの荷重を受けて緩やかに膨らむ。ふくらみ、弾けそうな型枠をしばりあげる。その圧力に緊張感が走る。一度始まれば止まることを許されないそれは、ライブだった。ひとつでも正解でもない終着点に向けて、目の前で刻々と変化する状況に身を投げる。打設の終わったそれは良いも悪いも寄り付かぬ、見たことのない何かであった。

茅のスキマに入り込んでいくモルタルの量をもっと慎重によめば、ジャンカ(打設不良)は防げたかもしれない。しかしこのジャンカは悪だろうか?慎重に考えよう。打ちっ放し表現においては、その平滑な面こそ価値の根本であるためジャンカは許されない。だがその価値観を離れた時、構造の安全性が確保されていれば、これはただの一つの現象で、見るべきものになる。

東孝光の「塔の家」のジャンカからシダ系の植物が生えてきているのを見たことがある。廃墟に感じるような、人間のためと、それ以外のためとの曖昧な輪郭が魅力的だった。

余談をさいごにひとつ。ヴェネツィアですばらしいマーブル模様の紙に出会ったことがある。賑わっている観光地の有名なお店には、さらのマーブル紙が積み重ねてあった。孔雀の羽のような整ったパターンからランダムな点描による不規則なものまで、様々取り揃えられていたなかに心打つ一枚があった。そのマーブル紙はその名の通り、さながら大理石であった。度重なる変成と褶曲によって形成されたかのような、製作者の意図を超えたような模様。マーブリングにおける、描画材の自由な振る舞いを理解し、投入される顔料と操作が調和した技術の一つの到達点だとおもった。

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