土と心の置き場所

-vol.2 土のありか

松木 直人 NAOTO Matsuki
TEKAZ BAKAZ CLUB
5 min readJan 29, 2020

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バスキ家の居室の奥にひとつの不思議な部屋があった。極めてプライベートな物品が置いてあるほか、がらんとした印象であった。
稲でできた信仰のためと思われる道具が壁に穿たれたスペースに置いてある。
それ以外その居室でなにかをするといった形跡はなかった。

ここでひとつ気になるものを見つけた。居室の隅に妙な突起物があって、他の内壁と同様水色の顔料を混ぜた土で塗り込めてある。
これはなんだ?と尋ねるとバスキ家の母は胸に手を当てて祈るようなポーズをとった。

土のありか

ケラタンガの家々は土でできているが、その土はどこからとってきたものなのだろうか。7日間を集落で過ごしていると、住民が日々行っているメンテナンスの様子からその実態が見えてきた。扱われている土は集落周辺の溜池と斜面地からとられていた。ため池の土は粘土質で不透水性のものとして、混ぜ込まれたり、壁面などの表面を固めるために用いられていた。斜面地からとれる赤土は躯体の主な成分として用いられていた。赤土は決して肥沃なものとは言えず、湿り気をあまり含まない粒子の荒い砂質のものであった。

かまど付近激しい熱環境の変化に見舞われるため高頻度で修復される

ふるいのかけられた土

中庭の床面を修復を見ている中であることに気がついた。ため池の土にブロックになった土を砕いて混ぜ込んでいる。この土はどこからきたのかと尋ねると、案内された先にはシロアリの塚があった。
住民は周辺に存在する家主のいなくなったシロアリの塚を砕いて床のメンテナンスに使っていたのだ。
その塚から砕かれた土を触ってみてみる。シロアリによって集められたその土は、ちょうどシロアリの顎で運べるサイズの粒子にそろっていた。言い換えてみれば、この土はシロアリによってふるいにかけられていたのである。
ケラタンガの人々は皆裸足だ。その足で快適に過ごすためには、より肌触りのいい土を選ぶ必要がある。シロアリの土と牛糞を混ぜ込んだ土で仕上げられた中庭は不快な刺激を感じることのない、固めに焼いたパンケーキのような肌触りであった。

共有林に残されたシロアリの塚

ここで、バスキ家の居室にあった突起を思い返した。
あれはシロアリの塚だったのだ。
祈りのポーズをとった彼女の心のうちははかることができない。しかし、それを壊さず生活の一部として受け入れている態度は確かである。このとき信仰は私の中でとても素朴なものとなった。

サステイナブルの終着駅

この会期中ビスババラティ大学の講師が毎晩のようにレクチャーをおこなった。そのなかで、この家々のことを取り上げる際にサステイナブルという言葉が用いられた。
では、サステイナブルの目標ってどこにあるのか?
我々の暮らしが絶え間なく続くための仕組みづくりは各所で試みられている。しかし、その仕組みづくりに励めば励むほど用いられる技術は高度化し、その落とし所はまた遠くへ逃げていく印象を受ける。
このひとつの、とてもシンプルな事例が示してくれていることはなんだろうか。
それは我々の生きる環境を快適に保つための手立てを他者の手に投げるということではないか。巷でいう、生態系サービスとはこのことではないか。
適度な粒子の土を集めることを、シロアリの生きる上での営みに任せる。win-winの関係を結ぶこと。これによって人間の使うエネルギーが少なくてすむ。より広い世界でエネルギーを循環させて、ある瞬間を捉えて固定する。ある意味で怠惰になること。このあたりに高度に技術化していく一方のサステイナブルの落とし所があるのではないか。

しかし生態系サービスの供給は時間のスケールが決まっている。
我々はそれを待てない。欲求に駆られている。
この矛盾にどう向き合っていけばいいのかは考えなければならない。

さいごに、些細だが生活の一場面でハッとる場面を目の当たりにした。
昼下がりの洗い物の一場面である。 砂質の赤土を稲わらを丸めたものに絡めて食器にこびりついた汚れを磨きおとしていた。クレンザーなど買いにいく必要がないのである。あるものを使う、捨てるところがないという美談に回収されがちな話でなく、そこにあるからつかうそれはとてもシンプルで楽なことだと感じた。

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