オープンソース文化がいいことのように言われてますけど、そういう文化に当てられてか、気軽に他の人のビジネスや活動を「見学」させてもらったり、「マネ」させてもらうことが「当たり前」みたいなのって、違うと思いますよ。
というか「オープンソース」「オープンソース」「情報共有」「情報共有」言う人に限って、「パクられた」「アイデア取られた」って言うんですよ…..。要は自分が取りたいときは「今時オープンソース。ケチケチせず、互いに情報共有しましょうよ」。自分が取られる側になると「タダでノウハウが得られると思うなよ」「またパクられた」って言うんです。そして、その線引きが、もう、完全な「自分都合」。
先日、冗談で「無料で相談されて困ってるという相談なら、無料で受けたことがある」と言いましたが(別に怒ってないです。笑い話です)、まさにあんな感じで、自分の都合で「オープンソースでしょ?」と「パクるな!」を使い分ける。
確かに互いに情報を共有することで、どちらも「よりよい」ものを作れるようになれば、人類全体、社会全体で、提供できるサービスのレベルが向上しますから、幸福は増大しているように思えます。もちろん、共有できる情報は共有したほうがいいでしょう。すなわち、よく言われますが、Win-Winになるのであれば、情報共有、オープンソースは当然ありなんですよ。
ところが、これから自分が完全にカニバる(競合する)商売、ビジネスターゲットになる事業の話だったり、別に相手に得などない、それどころか大損になる可能性だけがある状態で、「教えてだ」「見せてだ」「ケチケチせんと」って言いにいける神経がまったく理解できない……。
その場でちょっとだけでも得できるだけ得できれば、それで満足ですか? ぼくなら、誠実さや、その人との単なる損得を超えた、友情、交流に対する配慮も当然、非常に大切なものだと考えますすが。他人を手段としてだけ扱う感覚(本人は気づいてない)って、世界を、自分を貧しくする気がしていて苦手です。
「フリー」にも作法があるし、Win-Winにも作法があるんですよね。別に「タダですんません」「申し訳ありません」なんてのは要らないんだけど、「なに?これ、ただなん? ほな、(ガサッ!ガサガサ!!)もろてくな!」ってのはNGなんですよ。
というのも「フリー」「タダ」は、フリーライダー(タダ乗り)がいるとシステムとして、崩壊していきます。皆の共有地。自分が手入れしなくても、自分も使える。じゃあ、手入れしない。で、皆も同じこと考えるから、誰も手入れしなくなって、崩壊。だからこそ「フリーライダーのにおい」に敏感にならざるをえないのが、「フリー」とか「オープンソース」って生態系なんですよ。
ところが、そこで雑な対応する人がいると、その人に対して、広い意味での互酬性を期待できない。別に自分に返ってこなくてもいい、公、パブリックに対して何かを返してくれればいいんだけど、パブリックがない人間って、自分しかないので、そこでのリターンがまったく期待できない、っていう。これをそのまま許してると「共有地」「フリー」って生態系自体が破壊されるので、どうしても排除するか、互酬性が身につくように誘導してかないといけないのですが、「誰でも受け入れるのが、素晴らしいこと」って、なんか勘違いされてるフシがある。
自分のために、自分が知りたいから、何でもタダで教えろ!ってのはオープンソースっていう発想の真逆だし、オープンソースを破壊するものなんですよね。「オープンソース」を理由にした「脅し」に対しては屈せず、真のオープンソースをきちんと守らなくちゃね、と思った次第。