どこかにあるまち

路面電車が、ゆるやかな坂道を駆ける。古い石造りの建物が並び、通りのずっと向こうには時計台が見える。人びとは、せわしなく歩く。なんだか「ジブリみたいだ」、と思った。アニメーション映画で見たような、キキが舞い降りてきそうなまちに見えた。

アニメーション映画のイメージづくりのためには、ロケハンがおこなわれることが多いはずだ。現場の体験をもとにしているからこそ、細部まで丁寧に描かれ、アニメーションが息づく。

どのまちがモデルになっているのかについては、諸説ある。あのまちは、どうやらアイルランド、ストックホルム、ヴィスビュー、サンフランシスコ、パリなど、いくつかのまちのイメージを組み合わせて描かれたようだ。おそらくは「正解」があるし、制作にかんする取材記事などを読めば、確かめることができるのかもしれない。だが、いまぼくが暮らしているまちが、実際にアニメーション映画の素材になっているかどうかは、それほど重要ではない。

映画のロケ地を巡って、スクリーンのなかで見た「名場面」が撮影された場所に、実際にじぶんで立ってみるのとはちがう、ちょっと不思議な感覚。アニメーション映画で描かれた情景が、急に思い浮かんだ。それほどまでに、ぼくのなかに、あのまちの残像があったことが面白かったのだ。(調べてみたら、タスマニア州のちいさなまちのベーカリーがモデルになっているという噂から、多くのファンが「聖地巡礼」に訪れていることもわかった。)


この夏、本の編集にかかわった。ぼくが、大学生の頃からお世話になっていた先生へのオマージュとしての一冊だ。先生が他界してから3年以上経ち、同門の諸兄とともに、本をつくることになったのだ。ぼくは、編集のサポートをしつつ、ひとつの章に原稿を寄せ、さらに、カバーのデザインも担当することになった。その話をいただいてから、どのようなカバーにすればよいのか、しばらく迷った。そして、先生が愛していた真鶴の風景をモチーフにするのはどうだろう、と考えた。

さっそく、ちーに連絡して、画を描いてもらうことにした。ずいぶん唐突なお願いをすることになったが、快諾をえることができたので、「なんとなく真鶴の雰囲気で」と注文をつけて、さらに、(真鶴をたくさん描いた)中川一政のことにも触れた。ちーは、真鶴についてあまりイメージを持っていなかったようだが、(いろいろと調べながら)仕事の合間に画を描いてくれた。数週間後、素敵な画が届いた。これは真鶴だと言われれば、そうだと思う人もいるだろう。もしかすると、異国の果てかもしれない。どこかにありそうな、ちいさな漁港だ。

Chisato Tatsuyama, 2016

高みから見下ろす海は穏やかで、ゆっくりとした気持ちになる。この画はカバーになって、夏の終わりには、本をやさしく包んでくれるはずだ。残念ながら、先生に見てもらうことはできないが、きっと気に入るだろう。


まちを歩いていて、どこかで見たことのあるような風景に出会うことがある。それは、じぶんの幼い頃の原風景かもしれないし、出張先で見た景色かもしれない。もちろん、アニメーション映画のなかで見たまち並みのこともあるだろう。まちは、長い時間をかけて、少しずつ変わりながらいまの姿になっている。人びとの暮らしの痕跡が、いろいろな形で(ときには目立たないように)、ぼくたちに発見されるのを待っている。

愛されるまちは、不意に心を揺さぶるような、不思議な力をもっているのではないだろうか。「ジブリみたい」なまちは、実在しないという意味では、どこにもないまちだ。だがそれは、ぼくたちの想像力しだいで発見することのできる、どこにでもあるまちなのだと思う。🇦🇺

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