キャンパスという「仕方」

☕️生活のある大学(6)

「滞在型キャンパス」について考え、形にしてゆくという実践は、なかなか難しい。人は、じぶんの気になるところばかりを見ようとする。そして、(あたりまえのことだが)やはり目に見えるところが、話題や争点になりがちだ。だから、ちょっと挑発的なポスターが貼られると、まわりは過度に反応する。議論ばかりしていないで、とにかく手を動かそうという気風が、丁寧にことばにすることを疎かにし、一連の実践が、余計にわかりにくくなってしまうのかもしれない。
だが、そもそも「滞在型キャンパス」とは何かについて、つねに語ろうとしていなければ、もったいない。大いなる志のあるプロジェクトなのだから(ぼくは、そう思っている)、悲運をたどることは避けたいものだ。ぼくは、やや粗削り(そして、のんびりペース)ではあるものの、「生活のある大学」をキーワードに考えている。今回は、ライルの著作に出てくる一節から。

オックスフォード大学やケンブリッジ大学を初めて訪れる外国人は、まず多くのカレッジ、図書館、運動場、博物館、各学部、事務局などに案内されるであろう。そこでその外国人は次のように尋ねる。
「しかし、大学はいったいどこにあるのですか。私はカレッジのメンバーがどこに住み、事務職員がどこで仕事をし、科学者がどこで実験をしているかなどについては見せていただきました。しかし、あなたの大学のメンバーが居住し、仕事をしている大学そのものはまだ見せていただいておりません。」
この訪問者に対しては、この場合、大学とは彼が見てきたカレッジや実験室や部局などと同類の別個の建物であるのではない、ということを説明しなければならない。まさに彼がすでに見てきたものすべてを組織する仕方が大学にほかならない。すなわち、それらのものを見て、さらにそれら相互の間の有機的結合が理解されたときに初めて彼は大学を見たということになるのである。彼の誤りは、クライスト・チャーチ、ボードリアン図書館、アシュモレー博物館、そして大学というように並列的に語ることができると考えた点にある。(ギルバート・ライル『心の概念』より)

この一節は、「カテゴリーミステイク」という概念を説明するために用いられているのだが、「滞在型キャンパス」を考えるうえで示唆に富んでいる。いま引用した一節の「大学」の部分を「滞在型キャンパス」に置き換えてみればいい。要は、「滞在型キャンパス」は、建物だけを指すのではないということだ。そもそも「滞在型キャンパス」と「滞在棟」を並列的に語ることは、「カテゴリーミステイク」なのではないか。
ぼくたちは、「ハード」と「ソフト」という分け方をして整理することも多いが、「滞在型キャンパス」を、さまざまな〈モノ・コト〉を組織する「仕方」として理解すると、それほど単純な話ではないことに気づくだろう。そして、「滞在型キャンパス」にかかわるさまざまな〈モノ・コト〉の「相互の間の有機的結合」については、まだまだ思索も試行も足りないのが現状だ(少なくとも、ぼくはそう理解している)。

2017年4月13日(木)|滞在棟1:SBC合同研究会(春学期初回)

さまざまな人とのかかわりのなかで、「滞在型キャンパス」をつくっていこうという試みなのだから、「つくる」ということ自体についてもきちんと考えておいたほうがいい。いまや、「つくる」と「つかう」が分かちがたく連動するようになった(この潮流は、ここ数年で、ぼくたちの学習環境や講義、カリキュラムを目に見えるかたちで変容させていることからもうかがえるだろう)。
そして、大学の講義や研究会での活動と連動させて考えるならば、「つくる」と「つかう」を絶え間なく往復することこそが、学習や調査研究の機会を構成すると言えるはずだ。建物が竣工すれば、それは「成果物」として評価の対象になるし、実際に多くの利用者にその出来を問うことになる。だが、「つくる」と「つかう」を往復するという「仕方」は、目に見える「成果物」というよりは、もう少し長い時間をかけて、ぼくたちが身体に取り込んでいく性質のことだ。


「滞在棟」ができて、すでに1年が経った。ぼく自身は、ゼミ講義で「滞在棟」を利用してみたが、いろいろなことを考えるきっかけになった。「滞在棟」は、実際に(宿泊をともなうかたちの)ゼミや講義をおこなうだけではなく、「滞在型キャンパス」とは何かという、「問い」そのものを更新し続けるために必要な場所なのだと思う。その体験をとおして感じているのは、ぼくたちにとって「あたりまえ」となっている時間割や学事日程との調整が(現時点では)とても難しいということだ。

週末や夏休み・春休み中の利用を考えるのは、それほど難しくない(その活動をとおして収益を生んだり、近隣や地域との連携を強化したりという課題には、もっと知恵を出さなければならないが)。集中的に何かに向き合うための「合宿」として位置づけることができるのだから、すでにさまざまな形態でおこなわれてきたノウハウがあるはずだ。たんに箱根や富士五湖の宿ではなく、大学の敷地内にある施設をつかうのだと考えればいい。
また、単発のイベントがいくつも企画されているが、それらは「特別な出来事」なのだから、「あたりまえ」ではない時間・空間の整備をおこなうことは、ごく自然なふるまいとして受け入れられる。着想から企画、運営にいたるまで「特別な出来事」が円滑にすすむように準備をして、本番に臨む。撤収を終えて原状復帰が確認されれば、利用は(ひとまず)「終わり」をむかえる。その意味では、よほどの必要性がなければ、イベントで「滞在棟」を利用しなくてもいいと個人的には思っている。

『SBC YEARBOOK 2016』より|http://sbc.sfc.keio.ac.jp/?p=434

ぼくたちが考えるべきことは「滞在型」、より厳密には「宿泊型」の利用だ。それも週末や休みの時期ではなく、「通常」のキャンパスライフのなかに、「滞在型(宿泊型)」をどのように位置づけてゆくかということだ。すでに別の記事で書いたと思うが、これまでの経験だと「通常」の時間割と協調的に「滞在型」を併存させるのは、なかなか難しいという印象だ。平日の昼間は、すでに授業やゼミで時間割が組まれているのだから、「滞在型」で集うとなると、たとえば18:00以降ということになる。翌日も朝から授業があるなら、夜から朝までの時間のなかで「滞在型」プログラムを企画しなければならない。

すぐさま思いつくのは、夜にもう一コマ、早朝に一コマ。つまり、既存の時間割に、あらたに「時限」を追加するという「仕方」だ。これは、可能性はもちろんあるが、現実的にはキツくなる。
夜通しディスカッションをおこなってアイデアをまとめたり、あるいはものづくりの実習に充てたり、いろいろな方法はあると思うが、慌ただしいことに加えて、体力を消耗する。夜な夜な語ったあと、朝からきちんと教室に出かけて講義を受ける(あるいは講義をおこなう)のは、一度くらいなら試してみてもいいが、続けられそうにない。(それをふまえて、ぼくは「滞在棟」を利用した3回とも、金曜の晩にはじまるように設定した。疲れることには変わりないが、土曜日は講義がないので、ずいぶん気楽になった。)


かぎられた時間であるとはいえ、同じ屋根の下に「いる」ということ自体には意味がある。寝食をともにするという状況では緊密なコミュニケーションが生まれやすいので、たんに仲良くなるということ以上に、より深い話もできる。(経験的には)夜中になるまで2時間くらい話をして、ひと息入れたあとの頃合いがちょうどいい。ほどよい疲れで緊張感が解けて、リラックスした状態で話をすることができる。これは、アルコールの力を借りて、本音を言い合うのとは、ちょっとちがうように思える。

残念ながら、今のところ、通常の(「あたりまえ」の)基準では、こうした「滞在型」の特質や好ましい側面をじゅうぶんに評価することができない。そもそも「滞在型キャンパス」における活動を、「効果」や「影響」といったシンプルなとらえ方で語ろうとするのは無茶な話だ。「変化」も、すぐにはわからない。生活に密着した学びは、もっと複雑なのだ。「滞在型キャンパス」で過ごすことのひとつの価値は、「お互いをよりよく知る」ということだろう。それは、調査研究や学習内容そのものに対する関心や取り組みだけではなく、人間的な部分をお互いに露呈せざるをえない状況をつくるということだ。🐸

(つづく)

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