「旅」はつづく

🧳 The journey continues

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ついに『再会の旅路』が完成した。最初に「卒プロ」の相談を受けたとき、「これは大変だろうな」と思った。やろうとしていることは明快だし、その動機についても大いに共感できるものだった。「大学生」という社会的役割を終える節目に、これまでに出会ってきた人びととの関係をあらためてふり返る。それは、とても大切で有意味なことだ。だが、計画どおりに実現可能なのか。かぎられた時間のなかで、どこまでできるのだろう。気持ちだけでは困る。たくさんの移動をともなうので、体力も必要だ。これまで、いくつもの「卒プロ」を見てきた経験からすると、少し心配だった。

久慈麻友(以下、くじまゆ)は、とにかくまっすぐで逞しかった。ふだんは隠されていたのか、それとも、ぼくが気づいていなかったのか。くじまゆは、思っていた以上に大胆で、あふれる行動力を見せた。かつての友人を訪ねるために、いきなりアメリカに行くと伝えられる。旧知の住所を頼りに出かけて行って、迷うことなくピンポンを押す。一つひとつのふるまいは、いささか乱暴なようにも思えることもあったが、やがて、それがくじまゆのスタイルであることがわかってきた。すべてが、「卒プロ」を完遂しようという執念のようなものによって束ねられていたのかもしれない。そう、「卒プロ」は、他でもないじぶんのためものだ。

日ごろから、学生たちにはジャーナルを書くことを勧めている。さほど大げさなものではなく、いわゆる「業務日誌」のようなものだ。とくにフィールドワークを大切にするのであれば、現場のようすを記録したり、そのときのじぶんの感情の流れを書きとどめたりすることは、大切な作法の一部なのだ。フィールドでの出来事やじぶんの心の動きを綴っておくことは、かならず役に立つ。時には、書くことによって、じぶんの感情の揺らぎを落ち着かせることもできる。
もちろん強要されるものでもないので、ぼくはしつこく言うだけで、あとは学生たちに委ねている。残念ながら、書くことは習慣化しづらいようだ。多くの学生は、義務感をともなう「課題」のように考えてしまうからか、ジャーナルをあまり書かない。そんななか、くじまゆは、コンスタントにジャーナルを書いていた。やや荒削りな文章であったからこそ、現場での高揚感が伝わってきたのだろう。ぼくは、あらためてジャーナルの価値を痛感した。ジャーナルをとおして、日常的にくじまゆの「旅路」に伴走していたことで、行間を読み、割愛されたであろう文章に想いをはせることができた。

再会の旅路|2020年2月9日「フィールドワーク展XVI:むずむず」(恵比寿, 弘重ギャラリー)

いろいろな理由はあったと思うが、結局、卒業を遅らせるという決断をして、くじまゆの「旅」はつづけられた。いちど綴った文章を、もういちど一緒に読む。その読み合わせの時間が加わったことで、ぼくたちは人とのつながりについてさらに考えさせられる。「再会」を果たすことがゴールではなかったことを、思い知る。
『再会の旅路』の完成を待っているあいだに、世の中が変わってしまった。再会はもとより、あらたに人と出会うことさえも、難しい。多くの人が、いまの窮屈さから解放される日を待ち望んでいるはずだ。自由に動き回り、マスクなどつけずに、大切な誰かのそばで闊達に語り合いたい。

だが、いまの状況は、たとえば「再会」ということばに緊張感をあたえているだけなのかもしれない。出会うこと・別れること・ふたたび出会うことは、どんなときでも、どこにいても、ぼくたちが向き合うべき大切なことだったはずだ。忙しさを理由に後回しにしたり、じぶんの都合ばかりを考えたり。新型コロナウィルスは、幾重もの人とのつながりを忘れがちなぼくたちに、警鐘を鳴らしているように思えてくる。くじまゆは、ぼくたちよりもずっと早くにそのことに気づき、動きはじめていた。瑞々しい気持ちで、それを確かめたのだと思う。

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Fumitoshi Kato
the first of a million leaps

日々のこと、ちょっと考えさせられたことなど。軽すぎず重すぎず。「カレーキャラバン」は、ついに11年目に突入。 https://fklab.today/