歩道は楽しい

Fumitoshi Kato
the first of a million leaps
6 min readSep 25, 2016

歩道は楽しい。大通りにも、ちょっとした小径にも、イスやテーブルが置かれている。それぞれの店の趣味やセンスで、道ゆく人びとを誘う。ぼくが到着した真冬でさえ、まちの人びとはコートを着て、マフラーを巻いたまま、歩道で過ごしていた。ビールを飲んだり、食事をしたり。おしゃべりをしているようすは、見るからに気分がよさそうだ。これからは、ますます外に出たくなる季節になるので、もっと賑わうはずだ。

ある日、アパートの近くの歩道に、ちいさな丸い金属のプレートが並んでいるのに気づいた。近づいてよく見てみると、「Footpath Dining Boundary」と書いてある。中央に記されているのは市のエンブレム(市章)だ。どうやら、このプレートをつかって、テーブルやイスを歩道に並べるさいの境界を「バミる」ということらしい(ちなみに「バミる」は「場見る」からきているという)。
市のウェブサイトを調べてみたら、屋外での(歩道を利用した)カフェ営業について、数十ページにおよぶ細かいガイドラインがダウンロードできるようになっていた。分量もかなりあるので、きちんと読んでいないが、街区によっていろいろな制約条件もことなるようだ。容易に想像できることではあるが、そもそも歩道の幅や街路樹、ベンチなどの配置は通りによってちがう。まちの中心部の大通りなのか路地なのか。住宅地であれば、近隣との関係は重要だし、景観への配慮も求められる。もちろん、安全や衛生面での基準もある。いずれにせよ、簡単なテーブルとイスを並べたくらいで、通行の妨げになったり、著しく不便になったりしないくらいに、空間に余裕があるということなのだ。

歩道を利用したカフェは、中心市街地からの人口流出による「ドーナツ化」をくい止め、ふたたびまちなかに人を呼び戻すべく、このまちが20数年かけて取り組んできた工夫のひとつだ。その成果が結実し、いまでは多くの人を魅了するまちに変わった。

歩道にあるテーブル席で、道行く人を見ながら(つまり、道行く人に見られながら)、コーヒーを一杯。店の「内」にいるような親密さを残しながら、少し切り離された「外」の開放感を味わう。「内」と「外」との「あいだ」にいる感覚こそが、歩道の楽しさなのかもしれない。

このちいさな丸いプレートに気づいてから、ぼくは、歩道にテーブルやイスが並んでいるのを見るたびに下を向いて、「バミって」あるかどうかを確かめるようになった。もちろん、まちじゅうを歩いたわけではないが、なかには、プレートなしでテーブルやイスを置いて営業している店もあった。厳密には、無許可ということなのだろうか。もちろん特例(特区)のような扱いもあるはずだし、何らかの理由で「お目こぼし」があるのかもしれない。

歩道は楽しい(2016年7月〜9月)

なにより大切なのは、店のセンスと実力だ。歩道にテーブルとイスを並べている店はたくさんあるが、賑わっている店もあれば、閑古鳥が鳴いているような店もある。残酷なほどに、その差は歴然としている。まちに暮らす人は、わがままで正直だ。つねに、居心地のいい場所をえらぼうとする。歩道で人びとが集うようすは、時として店の看板やメニューよりも多くを語ってくれる。

「バミる」ことはテリトリーの主張にはなるが、人を惹きつけることができなければ、ちいさなプレートの意味は消えてしまう。隣の店のようすを見ながら、お互いに努力と工夫を重ねる。人が人を呼ぶ。好循環がはじまれば、その界隈はますます魅力的になってゆく。

ぼくたちは、絶えずまちのなかを移動しながら暮らしている。まちには路面電車がくまなく走っているし、自転車用のレーンも整備されている。あらためて考えてみると、「車道」や「歩道」ということば自体、移動することを想像しながら使うことが多いのかもしれない。

もちろん、移動の利便によって、まちは活き活きとする。だがそのいっぽうで、ちょっと腰をおろしたり、立ち止まったりできる場所も大切だ。歩道は、そのための場所になる。「歩道は楽しい」と思えるまちは、とても贅沢なまちだ。ひと息したら、また歩くのだ。🐸

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Fumitoshi Kato
the first of a million leaps

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