「すし」のことを360分勉強してみて思ったこと(4コマ終えてのチェックアウト)

「すし」のことについて360分、4コマ=90分×4回に分けてインプット(読書)、スループット(ノートで考え事)、アウトプット(コメントシート)する、初めてのマイクロカリキュラムが終わった。暗黙知を形式知とするために、自分自身を実験台にしてみたわけだが、ここで少し振り返ってみる。

ひとつめの勉強テーマは「人生の最後に食べたいもの」だった。これは編集者の大塚さんから示されたお題で、僕としてもゼロベースのスタートだった。「すし」と思いつくのは簡単だったが、1コマ目のエッセー演習「すしとわたし」を書いてみたところで、うーん、と考え込むことが多く、結論まで持っていくのになかば言い訳じみているというか、強引な気もした。つまり、そこまで問いが明確ではなく、ただ「すし」が好きなのであった。

それでもアマゾンで「すし」に関する3冊を選んでみるプロセスは興味深かった。「すしとヒーロー」「すしのつくり方」などいろいろあるなかで、明らかに興味の向き先がわかるのである。僕の傾向として、いまの最先端と成り立ちや歴史のふたつをまずは押さえようとするようだ。

そして実際に本が届いて読んでみたが、打率というとどうだろう、飲食人大学についての第一章、第二章はセレンディピティの喜びにあふれていたが、あとは正直そこまでではなかった。本の内容が面白くない、という意味ではなく、いまの僕に必要なものかどうか、という範囲で。

ならばと「すしのそもそも」といった本は今回は見送ったので、改めてwikipediaの「すし」を読んでみると、意外とこっちのほうが面白かった。自分の興味が伝統的な寿司や押し寿司ではなく、握り寿司であることが明らかだった。そしてその発祥として名を連ねる、1800年代初期のふたりの職人。当時から贅沢品であり、冷蔵庫や物流の技術革新によって、提供されるネタも様変わりしていること。気候変動などの影響で、失われつつあるネタもあること。しかし、やっぱりこのあたりで行き詰まる。

そういえば問いの発端は、最後に食べたいものとしてのすしだった。では、それってなんだろう?その切り口で考えてみても、やっぱり大げさな話ばかりで居心地が悪い。要は本を読んだり、動かずに考える限界にぶちあたり、お店に行くしかなくなったのだ。

では、そのときどんな質問をするのか。「人生の最後のすしを握ってください、と頼まれたら、どう応えますか?」というのは至極ストレートすぎる。

とすれば、比較すべきは自分自身のビフォアアフターかもしれない。それはうんちくとはちょっと違う。提供されたすしを食べて、どう感じが変わったか。その場から受け取る感覚を磨くために、無意識の領域を耕す。

今の段階では問いも浮かばないし、プロジェクトにつながる糸口さえもみえない。誰でも一周目はそうだろう。まずは編集者の大塚さんを誘って、「鮨 千陽」にいくのみである。そのために、家族に相談すること。OKが出たら、日程を調整して予約すること。次の目標が具体的になったとすれば、これこそ成長の証である。