「それでもなお、世界の”続きを”見てみよう」
たぶん僕の仕事は「社会課題敏感人間」でして(笑) それをかれこれ7〜8年続けているんですが、ちょっとへこたれますね、さすがにこの事態には‥‥。
少し肩を傷めてるぐらいで、精神的にも肉体的にも元気だし、仕事も楽しいし順調です。だけど、へこたれることも起きてるし、負の感情もめらめらと。
たとえば「日々の生きるモチベーション源にしてた楽しみがドミノのように崩壊し、何も生き甲斐がなくなった」という超個人的な事情。この先に社会がどうなっちゃうのと目を背けたくなること。あまりに無責任な政治家や国家に、失望や怒りや恨みで満ちてきてしまっていること。
こんな状況の自分が、どう「社会課題敏感人間」として、クリエイティブな提示をして、社会に価値創造していけるか、自信喪失してしまうときもあります。
ところで。911は高校1年だったかな。ホームステイから帰国した翌週だったんだ、そういえば。リーマンは留学生時代。311は、音楽業時代。それぞれ当時の立場で、いろいろなことはしましたけどね。実は一番身近な出来事は、911でした。だからいろいろ本を読んだり、ドキュメンタリーを観たり、アメリカ人と対話して研究しましたね。
でも、今回はあれを超えるだろうな。なぜなら、特に社会に問題提起したり寄り添う仕事をしている中で、こういう地球規模の出来事に遭遇しましたから。ただ、まだ右往左往して、日々の本来の仕事の忙しさを口実にして、「社会課題敏感人間」は貢献はできていないかもしれません。
その一方、こんな考えも浮かび始めています。
何かグローバリゼーションのもとで起こった今回の出来事は無視できないのだけど、自分の属するコミュニティ〜社会〜経済圏でできることを淡々とやって暮らす。それだけでも、責務はじゅうぶんに果たしているのかもしれない、という考えです。淡々と仕事をして、暮らして、価値を感じるところにお金を使う、ということを続けていればいいじゃないかと思う自分がいます。ただね、そうは言いつつ、つい、考えすぎたり、希望と失望を行き来しすぎたりしてしまうんですけども。「社会課題敏感人間」ですから…。
この曲は、311の前に書かれたそうです。でも、発売直前に震災が起きて、社会が変わった。それを予期し、右往左往する人々を勇気づけているかのような。それで、311直後にこのビデオが撮影されたそうです。たぶん、SNSには何度も投稿してると思うんだけど。作曲、作詞、演奏、すべてが才能に満ちていてパワフル。画質、悪いのに…。
現実に目を背けずに。
続きを見てみよう。
ですね。ええ。