学習による癒し
整体師的、学びから生まれる癒し
「癒し」とはアンバランス→バランスによる快感覚
まず?な部分として「癒し」とはいったいなんなのか?をハッキリさせようと調べて見たところWikipediaでは多様な意味があったんですがその中でも
過度の緊張や慢性的な心的疲労を蓄積させている人に、さまざまな手法で、一時的、あるいは中短期的なストレス軽減のための手段を提供する行為、また手段、そのためのアイテムのさまざまなものを総称して、癒し、癒しグッズという言い方をしている。(Wikipediaより)
という部分が「癒し」の定義っぽいかな、と。
また、
自分を取り戻す、自分の居場所、自分が拠り所とみなす人々の元にあることは同様の重要性を持っている。(Wikipediaより)
という部分も整体師としてはとても興味深いところ。
もうひとつばかり国語辞典のようなものから意味を調べてみると
肉体の疲れ、精神の悩み、苦しみを何かに頼って解消したりやわらげたりすること。(goo辞典より)
とのこと。
以上よりとりあえず今現在の僕の中での「癒し」の定義を
・肉体的精神的なアンバランス状態を緩和解消する手段や行為
・自分を取り戻す、自分の居場所・拠り所に戻る
という辺りから考えてみようと思います。
上記の事から考えて、「癒し」とはアンバランス(偏った状態)が戻るときに生じる心地よさなのだとしたら、旅行(場所的にいつもと違う環境=偏り)から帰ってきて「あ~、やっぱり家が一番だな~♪」というあの感覚も一種の癒しなのかもしれないな、と考えられて面白いですね。
また反対に、日常という圧迫感からの解放という旅先での刺激も日常という偏りをリセットするものなのでしょうね。
このあたりは整体的に見てもかなり通じる部分がありまして、不調とは不快感という信号により身体が現在のアンバランス状態を知らせてくれているという解釈をするのですが、癒しを必要とする状態とは言ってみればなんらかの偏りが発生して身体がそのバランス解消をもとめて不快感という信号を発している状態と考えられます。
そして、そのアンバランスが解消されてゆく過程で偏りが解消されてゆくことでの快感覚が発生するのですが、それを「癒し」と呼んでいるのかな?と。
癒しは内側で起こる
「手段行為によって癒しが起こる」という認識は、外部の手段や行為が癒しを引き起こす主体というように考えての事だと思うのですが、実際に癒しが起こっているのは自身の内側です。
なので実は、外部からの手段や行為などの刺激が癒しているのではなく、それらはあくまで癒しの主体というよりは癒しを起こす“キッカケ”であるというのが僕の考え方です。
これは整体でも同じ考えです。一見外部から施術している施術者が症状の改善を行っているように考えてしまいますが、実際改善が起こっているのは相手の内側です。施術者は治しているのではなく治るキッカケをつくっている、キッカケさえあれば人の身体は自然に治ってゆく力をもっているのです。
ごちゃごちゃと書きましたが、要は
癒しとは偏りがリセットされる時に自身の内側に起こる快感覚である
ということかな、と。
学習とは「今の自分以外」から氣付き成長すること
それでは次に「学習による癒し」の「学習」の部分に関しての僕なりの今現在の定義を書いてみようと思うのですが。先日知人のヨガ教師の方のトークライブがありましてその中で興味深いお話を伺いました。
そのお話とは「自分とは何で出来ているか?」というものだったのですが、自分とは「自分以外」によって認識される、が、「自分という境界線」は自分の肉体といったようなものに制限されるものではない、自身が自分だと思っていた境界線は思い込みかもしれない、という話をある禅師の「ふすまの奥がかゆい」という言葉を挙げて話されていました。
学習(もしくは成長と言ってもいいのかもしれませんが)は、今自分に無いものを自分以外から吸収してゆくことなのではないか?と考えていまして。
自分と自分以外の境界線を知ってゆく事で今の自分を知り、そして今の自分を知るからこそ自分以外を知り、自分以外を知るからこそその自分以外を取り込む事が可能になるのかな、と。
これをtoieeLabでは
「知るを知るとし、知らぬを知らぬとする」
と表現されていました。
知らないことを知るからこそ、それを学べる。
自分(知っていること)と自分以外(知らないこと)の境界線を問いによって明確にし、知らないこと出来ない事を責めるのではなくむしろその自分と自分以外との差をこそ学びの糧として重要視する。
つまり知らなくていい
できなくていい
分からなくていい
大切なのは、その今の自分を受け止めて自分以外を取り込んでゆく姿勢、そういう在り方が学習者としてあるべき姿であるということなのですね。
これは出来ない事知らないことを恥とし、それらを見ないように忌み嫌ってフタをする今の風潮とはうって変わって非常に建設的な考え方だと僕は思うのです。
だって、それは出来ようが出来なかろうがまずは今の自分そのままを全肯定するということであり、今ひとつの問題としてあげられている多くの人の心に深く刺さっている自己否定という棘を抜くための一手になりうると感じるからです。
学習により人は癒える
『学習による癒し』とは、これまでの社会で抱えてしまった偏り
例えば失敗や間違いに対して植え付けられた恐怖であったり、優秀な結果しか評価されないことによる劣等感や自己否定、そういった今の社会では“リスク”とされるものを避けることを最優先すること、自分の本心を抑え付け正解(とされる価値観)を選び続ける歪んだ行動基準、自分やこの国の未来、その可能性を見る事を諦めてしまった人々
toieeLabの提唱する『学習』に触れる事で、そういった多くの偏りによって生まれた症状を癒せるのではないか?と思うのになったのです。
学ぶ事で今の自分を知り、今の自分を肯定して受け入れる事でそこに新たな学習が起こり、知らない自分・出来ない自分・分からない自分を恥じるという偏りがリセットされてゆきそこに癒しが起こる。癒されることによりまた他の偏りを癒すべく学習の意欲が湧いてくる。これは非常に望ましい好循環になるのではないだろうか?とひとりワクワクしている自分がいます。
そして、癒された人が次の人を癒す社会になれば、と考えるとなんだか楽しくなってきませんか?