レアンドロ・エルリッヒ「建物」から生まれる二つの視点

Arts Towada
Towada Art Center
Published in
Mar 29, 2022

中川千恵子

本稿では、十和田市現代美術館の常設展示作品であるレアンドロ・エルリッヒの《建物 — ブエノスアイレス》(2012/2021)にみられる、二つの視点の設定について考察する。さらに、二つの視点から見ている像の違いによって、絵画などの平面作品にみられる、見る/見られるという主客関係性での、観察者の主体としての優位性が撹乱されることを検証する。

1. 二つの視点

《建物 — ブエノスアイレス》は、床に設置されたヨーロッパ風のファサードを模した巨大な造形物と、その上に45度の角度で吊るされているミラーシートによって構成される作品だ。来場者は、展示室に入るやいなや、鏡のように反射するミラーシートに映されているヨーロッパ風の建物のファサードを目にする。鑑賞者にはファサードの上に登ることが許されており、自由なポーズをファサードの上でとることによって、ファサードの壁によじ登っている姿や、バルコニーから逆さ吊りになっている姿のような、現実ではありえない光景を生み出し、その光景の中にいる自分や他人を見ることができる。

《建物 — ブエノスアイレス》、2012/2021年、十和田市現代美術館、青森

展示室出入り口からファサードまでには5m×6.5mの広さの空間が確保されており、作家はこの空間を「ギャザリングスペース」と呼んでいる。この空間に立った来場者は、ファサード上でポーズを取ったりしている鑑賞者と作品全体を俯瞰して眺めることができる。

本作は、鑑賞者が自ら作品が生み出す空間の中に入り込むことから、「参加型」のインスタレーションと評されることが多い。作家自身も「この作品(本作)は、ただ単に空っぽの誰もいないオブジェクトを鑑賞することを目的としたものではなく、作品に観衆が参加し、その上に存在することで初めてこの作品を理解することができ、また作品としても完成するのです。」[1]と、参加する鑑賞者が重要なアクターであることに言及している。この作品の内部で身体を動かしながらも、ミラーシートに映る像を鑑賞する観客の視点を、「第一の視点」とする。

ただし、本作は他の場所からも「見る」ことが想定されている。第二の視点は、作家がギャザリングスペースと呼んでいる、空間から、造作物のミラーシート、その内部で作品に参加している人たちを一望する視点だ。また、十和田市現代美術館の既存の建築設計のプロセスと同様に、展示する作品の鑑賞方法を考慮し、展示室の設計を行った。本作の場合も、作家と協議を重ね、予算や建築法の制約などを考慮しながら、展示室の規格や内装を設計・決定した。ギャザリングスペースも、作家からの要望があり、取り決めた空間だ。

このスペースについて、エルリッヒは、「作品とインタラクティブな関係性を持つというのは個々の体験ですが、同時にそれは、ファサードの上にいる人たちによる集団的なパフォーマンスにもなるわけです。作品とインタラクティブな関係性を持っている人たちは、ある種のパフォーマンスを見せてくれます。この要素が、ギャザリングスペースに受動的な鑑賞者として存在している人たちの行為をより強固なものとするのです。」[2]と語っている。

2. 二つの視点が見るものは何か

第一の視点の鑑賞者が見るのは、鏡に映った自分自身、同じように寝転がってポーズを取っている他の鑑賞者、その背景となるファサードだ。ファサードに登って、その上に配置されているバルコニーの手すりや窓枠、それらに施されたエイジング加工を観察することもあるだろうが、主たる鑑賞物は、反射した鏡像だと考えて良いだろう。

鏡像は、レアンドロが作品内で好んで利用するイメージである。インディペンデント・キュレーターで評論家のヤコポ・クリヴェリ・ヴィスコンティは、レアンドロが生み出す空間をミシェル・フーコーの『他なる場所』を引用しながら、「どの鏡もそれを覗いている人のまわりに非現実的空間をつくるとすれば、その場合、それを見ている人は新たなイメージの中の違う位置を占める。人は自分がいないところ、さらにフーコーの言葉で言うなら、どのように自分が不在なのかを理解することになる。」[3] と述べている。本作において、第一の視点を持つ鑑賞者が目にするのは、重力のない世界で自由に振る舞う自分自身(と他者)である。この手法は、日本国内にある作家の作品にも用いられている。金沢市にあるKAMU Centerで展示されている《階段》は、ドアが並んでいる部屋に入ると、らせん階段状の造形物が床に並行に設置されており、両壁が鏡になっている作品だ。鏡を覗くと、世界が90度回転しており、「建物」と近い平行感覚のズレを感じさせる。どちらも、見返す自分が存在する世界は、自らがいる「ここ」とは限りなく近いが、同じではない場所なのだ。

《INFINITE STAIRCASE》、2020年、KAMU Center、金沢

一方、第二の視点に立つ鑑賞者は、作家が作り上げる空間内で起こる出来事を包括して目撃することができる。ファサードとミラーシートの関係性や、それが反射した像がどのように映り、ファサードの上にいる人々がどのように映るかといった一連のプロセスを容易に認識することができるだろう。さらに、ギャザリングスペースに立つことによってはじめて、ミラーフィルムに映されるファサードの像が垂直に立っているように見えることからも、この作品を見る視点は、このギャザリングスペースに設定されていると考えて差し支えないだろう。

金沢21世紀美術館の《スイミング・プール》でも、複数の視点の設定が明確に行われている。この作品は、地下レベルに作られているプールの造作の内部に人が入り込み、地上を見上げることができる視点と、地上から強化ガラスと水面の下にいる人々を覗き込むことができる。

《スイミング・プール》、2004年、金沢21世紀美術館、金沢

もし、第二の視点に立った時に一番美しく見えるミラーシートに映る像が最終的な成果物であり、展示室である「この場所」ではないと捉えれば、この絵画的な平面上での像を見ることができる観察の主体は、第二の視点を持つ鑑賞者と考えられる。

3. 交わらない二つの視点による錯乱

本来の「見る」「見られる」という関係において、主体となるのは、作品構造を掌握することができる第二の視点を持つ鑑賞者だろう。ただし、エルリッヒの作品では、作品と関係を持ちたいという、インタラクティブな芸術作品に慣れ切った私たちの欲望を掻き立てる。この点が、視覚が本来持つ優位性を揺さぶる効果をもたらしている。展示室で起こっているあらゆること — 作品の構造や、ファサード上に登り、パフォーマンスする人々の様子 — を全能的な視点から見ることよりも、ステージとして設定された場所で、ファサードの舞台の質感を感じたりして寝転ぶことに関心が掻き立てられる。このように、エルリッヒの「建物」では、絵画などの平面作品にみられる観察の主体としての優位性の撹乱に成功していると考えられるのではないだろうか。

[1] レアンドロ・エルリッヒ × 鷲田めるろ オンライン対談(2021年12月3日開催)

https://www.youtube.com/watch?v=DObYQddz46Y&t=2s

[2] 同上

[3] ヤコポ・クリヴェリ・ヴィスコンティ『きわめてシンプルでひどくややこしい』、「レアンドロ・エルリッヒ展:見ることのリアル」美術出版社、2017年、 24頁

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