嶋タケシ 【第一回】

* この物語はフィクションです。

一、グループワーク

目に見えるものを矩形の紙へ鉛筆できれいに写しとり、水彩絵具で丁寧に色をつける。新緑の校舎、花瓶に生けられた花、お母さんの顔。子供の時から、教わらなくてもこういう写生は、けっこう上手にできたと思う。「夢の街」、「水族館の思い出」、そういう想像の絵もそれなりに描けたけれど、写生が一番好きだった。修行僧のように、そこにある世界に自分だけが向き合って、黙々と筆を動かす、静かな時間が好きだった。絵を描く仕事をするなら、そうやって一生を穏やかに過ごすことができるはずだ。それに美しいものを見たり、描いたり、できたものに囲まれていたりするのは素敵なことではないだろうか。十代のわたしはこんなことを考えて美術大学を志望した。こう書くと、おとなしい女の子の夢見がちな進路のように見えるだろうか?

たぶん実際には、もっと現実を見据えた選択だったと思う。女子の大学進学率がまだ十パーセントくらいだったあの頃、わたしは将来結婚するにしろしないにしろ、手に職をつけて自立すると決めていた。表向きは男女平等と教えられていたが、日本全国、家庭では事情が違った。家事を手伝わされるのは兄ではなくいつもわたしだったし、その矛盾はもっと大きな歴史や社会の問題につながっているのだと、なんとなく知っていた。だから性別にまつわる不条理なトラブルを避けるために、一人で生きていける道を無意識に探していたのだと思う(この時漠然と感じていた問題意識は、あとで大きな意味を持ってくることになる)。

両親は、国公立大学に現役合格する、という条件で進学を認めた。だから競争率が高いことで有名な東京藝大をあえて避け、京都の公立芸大を受験した。もちろんそこも、伝統ある大学で人気は高かったが、東京藝大よりは学科試験のポイントが高いと言われていて、学校の成績はよかったわたしは何となく自信があった。

そんなわけで、合格したこと自体に大きな驚きはなかったのだけど、それでもやっぱり初めて登校する日は、これから始まる四年間に与えられた、無限とも思える自由を、胸いっぱいに感じていた。初日、最初の説明を受けるため教室に向かっているわたしを思い出す。この段階では、すぐ後の出会いが自分をまったく思ってもみなかった方向へ押しやっていくとは、想像もしていなかった。1979年四月。春爛漫、桜満開の京都。

東山七条にある大学の校舎は、戦争中に軍の病院として使われていた近代建築で、一種異様な気配が染みついていた。数年前に学生が机の上で焚き火をして火災になり、一部の建物が使えず、わたしたち一年生は二階建てのプレハブに入れられた。教室は二階の右側、机には番号がついていて、席が決められていた。わたしの席は校庭が見渡せる窓際の後ろの方だった。

新入生は全員が学科や専攻に関係なく四つにクラス分けされて、総合基礎と呼ばれる実技の授業を半年間受けることになっていた。先生の説明によると「専攻とは直接関係のない課題をやりながら、ものを作ることとか、芸術ってそもそもなんなのか、ということを考えてもらいたい」ということだった。油画、日本画、彫刻の美術科はもちろん、漆、陶芸、染織の工芸科、グラフィックやプロダクトのデザイン科が混ざり合った状況は、すごくオープンな雰囲気だった。芸大・美大で同じ科に所属する学生は言ってみれば一番身近なライバルなわけで、他の大学では入学から卒業までかなりの緊張感が続くことも珍しくないと聞いていた。わたしたちの大学は総合基礎を最初にやることで、入試対策で得た美術の常識と、過剰な競争心を取り払い、それぞれのペースで、これから始まる創作活動に向き合っていけるように工夫されていたのだ。

この大学についての基本的な説明や注意事項、学科の授業や履修登録についての話が一通り終わり、休憩時間になった。画塾などですでに見知っている学生同士もいたようで、教室内はざわざわしはじめた。

前の席で居心地悪そうにしていた男の子が、もそもそと周りを見渡していたが、いきなり振り返ったので、目が合ってしまった。

「じ、実技の授業って毎日午後にあるんだね。楽しみだよね。あの、ぼ。ぼくは、嶋タケシといいます。あ、あの、よろしく」

彼は見るからに人懐っこそうな顔をしていた。普通にしていても表情がちょっと笑顔に見えるタイプだ。どこかの地方から来たのか、関西出身者のなまりはなかった。彼の体にはなにかがぎっしり詰まっているような感じがした。

私は自分を指して、

「倉沢サトミ」

と自己紹介した。ふた言目を告げようかという間もなく、タケシの隣に座っていた前の男の子がすかさず話しかけてきた。

「ぼくは水本コウタ。よろしくね」

目鼻立ちのはっきりした、すらっとした男の子だった。どこで買ったのか分からないような不思議な服を着ていた。きっと流行に敏感なんだろう。

「なんやなんや、みんな偉いやん。ちゃんと自己紹介なんてして、ぼくも混ぜてくれへんか」

わたしの隣に座っていた、褐色の肌をした男の子は奥村レイイチと名乗った。彼は説明の間じゅう、ずっとノートに何か落書きをしていた。これがタケシ、コウタ、レイイチとの出会いだ。わたしの人生に大きな影響を与えることになる彼らは、初日、たまたま前後左右の席に座っていたのだ。

総合基礎の課題はとても面白かった。というか、かなりぶっ飛んでいたと思う。なにか描いたり作ったりするものもあったけれど、わたしたちは、二つ目か三つ目の課題でいきなりスコップを渡されて、ひたすら穴を掘るということをやらされた。毎年ひとつはこのレベルの変な課題があるらしく、わたしたちの上の学年では車を一台、みなで解体させられたという。

穴を掘る課題で、その行為のうちに何かを感じた者は、コンセプチュアルな芸術活動へと入っていき、馬鹿らしいと感じた者は、その後自らの専攻、例えば絵画などに戻っていった。最初はわからなかったが、そういう深い意味のある課題だったのだ。

ちなみにこの課題の時、クラスの誰かが、関根伸夫の《位相―大地》 という作品を教えてくれた。大きな円い穴と、同じ直径を持つ土の円柱がセットになった作品。まるで大地からその円柱が魔法によって取り出されたように見える。穴も柱も直径が二メートル以上あるので、写真からでも、人間の力を超えた崇高さのようなものを感じさせた。穴といってもいろいろできるものだと、わたしは深い感銘を受けた。教科書に載っていない美術の動き — 同時代の美術、現代美術 — に興味が湧いたのは、たぶんこの時のことも関係している。

ただ、基礎実技で一番強烈な影響を及ぼしたのは、最後の課題だ。それはグループワークだった。

「グループワークでは制作費が一人五千円だから、大人数でやるほうが大きいプロジェクトができる。作り出す作品はなんでも結構。よく話し合って決めること!」という先生の説明が終わると、すぐさまタケシが振り向いて言った。

「グループワークどうする?」

「そうね…」と何かを言おうとしたが、タケシはコウタやレイイチにも話しかけていた。タケシは次々と周囲に声をかけてゆく。彼の声は親しみやすく、人を警戒させるようなところがなかった。ごく自然に、みなが彼の呼びかけに応じて、話の輪がすぐにできあがった。

みなが口々にアイデアを話し合った。

「なんか、おっきい絵とか?」

「壁画?」

「どっか壁描かせてくれるんかな」

「小さい絵をたくさん作って組み合わせてもええんちゃうかな」

「大変そやなー」

「なんでもいいんでしょ? 路上を掃除して終わりとかでも」

「それはハイレッド・センターやろ」

「なにそれ? わたし知らない…」

同時代の生きた作家たちによって生み出されていく芸術や作品について、わたしはこの頃ほとんど知らなかった。後ろにすわっていたレイイチが、そっと教えてくれた。

「前衛芸術やないか。作家たちが道路を異常に丁寧に掃除したんや。パフォーマンスっていって、それをやること自体を芸術活動って呼んだんや。《首都圏清掃整理促進運動》は1960年代の作品」

「へえ…」

その活動の、何がよかったのか、いったいどういうところが芸術なのかよく分からない…とわたしは思ったが、周りの何人かが、「あれは、なんかいいなあ」と口々に応じているのを見て、黙っていた。後日、わたしはハイレッド・センターの大ファンになっていくのだが。

「でも前衛のパフォーマンスで、さすがにこれは嫌やなっていうのもある」

「ああ、裸になるやつとかでしょ」[1]

「そう。それとか、体じゅう、絵の具だらけとか」

「ああ、アクションペインティングねー」

「ジャクソン・ポロックは好きやけどね」

「篠原有司男のボクシング・ペインティングは真似してみたかった」

「やったら本当に同じものができるんちゃうかな」

「おれはちゃんとなんか作りたいかも。せっかく美大入ったし」と誰かが言った。

「映画撮らへん? ゾンビとか!」

「なんでゾンビやねん!」

「もっとフツーでいいよー」

と誰かが言ったところで、タケシの隣に座っていたコウタが、

「ぼく眠たいのだけはイヤや! 絶対!」

と言った。その言葉は場を若干凍りつかせた。そういえばコウタは、さっきからパフォーマンス推しの発言をしていた。びびっている周囲の反応とは裏腹に、わたしは直感的に、「この人面白そう」と思った。

凍りついた場をフォローしたのはレイイチだった。

「面白いのができるんちゃう。作ろうや!」

その言葉にみながちょっとほっとした。そして、目立たないけれど整った顔立ちのレイイチに、女子たちがちょっとときめいたのをわたしは感じた。タケシは、ニコニコしながら、一部始終をほとんど黙って聞いていた。

帰り際に「しゃべらなかったね」と聞いたら、「いや、鹿児島弁になるのが、なんか恥ずかしくって」と、タケシは言った。その様子を見て、わたしは彼に好感を持った。器が大きいというか、鷹揚な感じなのかと思っていたら違って、たんにシャイだったわけだ。

わたしたちは喫茶店で会話を続けた。コウタとレイイチもついてきた。

「タケシは染織専攻希望だっけ。なんで染織?」

「うち実家が大島紬[2]やってて……。家業を継ごうと考えてるわけじゃないけど」

「ええやん、実家がすでにクリエイティブ産業!」

タケシは「いや、そういうんじゃないけど……」と、もごもご口を動かした。

「京都まで来ないよね、実家継ぐだけなら。面倒くさい受験してまで」

「ぼ、ぼく、絶対京都の大学入りたかったんだ」とタケシは言った。

「東京藝大じゃなくて?」

「三十三間堂の近くに住んでみたくて…」

タケシはある日、土門拳[3]の写真を見て、仏像に惹かれ、さらに高校二年生の時に修学旅行で見た三十三間堂に惚れ込んでしまったのだという。「すごいよね。なんであんなものができたんだろう。ずらーっと並んでるのを見てるだけで、もう恍惚状態…」、タケシはうっとりしながら言った。

「仏像だけ?美術で好きなんは」

「うーん、つくるのは好きなんだけどね。あまり知らない。たぶん、美術、全体的に好きなんだと思うんだけど。高校生の時、熊本の美術館までシャガール見に行ったことがあった」

「へえ」

「でも」

「でも?」

「なんか…どうなんだろ、いいけど…、ああいうの描きたいとか思わない」

「わかる」とわたしは言った。

「なんか…違う世界のことなんだよね」

「ぼくは正直キライ。印象派とか、ピカソとか、ヨーロッパのなんとか美術館展とかようけあるやん。なんもおもろない」とコウタはもっとはっきり言った。

「そうだね……面白くない!」とわたしは賛同した。

その時、それまで断定的な発言を、無意識に避けていた自分に気づいた。誰かとぶつかりたくなかったからだ。でもコウタには言えると感じた。コウタは、誰かがものをはっきり言う時、笑顔になった。

「ヨーロッパの美術を学ばなきゃいけないってかんじ、どうだろう、必要なのかな」とタケシが言った。

「わたし、古いって思われるかもだけど、竹内栖鳳とか上村松園[4]みたいな写実的な日本画のほうが、むしろ新鮮なんだよね…」

「あー、ちょっとそれ、わかるー」とコウタが相槌を打った。

「最近、ぼく、坂東玉三郎にはまっててー」

「歌舞伎の!」

「歌舞伎とか見たことないわ」

コウタも最近テレビで玉三郎を見て感銘を受けたのだという。「ほんま女なんよね…姿勢とか首のラインとか動きとかが。いやたぶん、玉三郎は女を超えてる」コウタの口ぶりはやけに熱っぽかった

「伝統芸能も奥が深いよね」

「あ、ちょっと違うかもやけど」とレイイチが言った。「辻村ジュサブローの人形劇、「新八犬伝[5]」がめっちゃ好きやった」

「あれなぁ!」「見てた見てた」

「あれもけっこう伝統芸能っぽくない?」

「着物とか人形の動きの型とかね。確かに」

そんなたわいのない会話の中にも、わたしたちは、大事なことを感じ取って共有していたものだと、今になって振り返る。西欧近代美術に共感できないとか、じゃあ共感するのは日本の美術なのかというと、そうではなくて、昔からあったものに心惹かれていたりとか。明治時代以降に起こる長い反動の美術史を、勉強する前から、わたしたちの会話はそのメンタリティを無意識になぞっていた。

(つづく)

[1] 1960年代から70年代、盛んに行われた反芸術を名乗るパフォーマンスの影響を、わたしたちが当時直接目撃することはなかったが、当時の関西にはその空気がまだ残っていたように思う。ただ前衛芸術も反芸術もパフォーマンスも、誰もその実態をあまり知らずに、噂として語っていた。当時、舞踏集団白虎社の拠点が大学のすぐ近くにあり、手伝う者も多かったが、インターネットのなかった当時、舞踏の流れと前衛運動の流れの違いをちゃんと調べる手段も少なく、なんとなく混同していたようなところもあった。その後、京都の街に多かった古本屋で格安で売られている60年代〜70年代の美術雑誌を買い集めて、わたしたちは前衛、反芸術、パフォーマンス、ハプニングなどの特集記事に興味を持ち、影響を受けることになった。その意味で、わたしたちは路上を表現の場として当たり前に受け止めていた。地域とアートの関係を語るとき、野外彫刻からの系列で語られてしまうことが多いが、そこに違和感を持つのはそのような理由だと思う。

[2]大島紬は奄美大島の伝統工芸品。絹糸をテーチ木という植物染料で染め、鉄分が豊富に含まれる一五〇万年前の粘土地層の泥による泥田で黒く発色させた反物。奈良時代以前からつくられている記録も見られる。その独特な染色法により繊維に鉄分が多く含まれる為、虫食いされにくく何世代にもわたって使うことができる着物としても評価が高い。琉球王国が統治した時代には、琉球紬の影響を受け、上納品としてかなり上質なものが作られたが、薩摩藩統治時代、島での絹織物の着用が禁止されるなどの圧政を受け、その中で、オリジナルの点絣模様の地味な柄が発達した。特に明治時代の終わり頃から、島に固有の植物や民具などをモチーフとした柄が開発され、独自の発展を遂げ、奄美大島で暮らす人の生活を支える大切な産業となっていた。タケシの親類の多くもこの大島紬の製造に関わっていて、彼の祖母も機織をし、それを見ながら育った経験が、タケシに大きな影響を与えている。

[3]土門拳(1909−1990)の1963年から1975年まで、五回に分けて出版された写真集をテーマにした展覧会が、全国を巡回していた。その写真の中の仏像に惚れ込んだのは、明治時代の廃仏毀釈運動で、鹿児島には古い寺院も仏像も現存せず、その存在を知らなかったからではないかと、タケシは回想している。1977年に鹿児島のデパートで開催されていた展覧会でのサイン会に土門拳本人が車椅子で登場し、高校生だったタケシは購入した画集の裏表紙にサインしてもらい、その達筆に驚いた。タケシにとっては生で出会った最初の作家だったが、その直後土門拳は入院してしまい、動けなくなってしまったので、あれが土門に会う最後の機会だったのではないかということを、タケシは最近になって振り返ったという。

[4]竹内栖鳳(1864−1942)は戦前の日本画を牽引していた京都画壇の中心人物。絶妙にぼやかされた輪郭を持つ動物の絵など、日本画の素材を生かしながら写実を追求した画風にわたしは引かれた。その弟子となる上村松園(1875–1949)は、当時は珍しい女性の日本画家で、美しい中に凛々しさを感じさせる作風がかっこいい。

[5]新八犬伝は1973年〜75年NHKで平日毎日夕方十五分放映された人形劇の番組。辻村ジュサブローが人形を制作し演出も新鮮で平均視聴率二〇%を記録し、当時中学生だったわたしたちの周辺でかなり話題になった。

著者:

倉沢サトミ(くらさわ・さとみ)

藤浩志と金澤韻が「嶋タケシ」を書くためのユニット名であり、作中、嶋タケシの学生時代の友人として語り部となる、架空の人物。

藤 浩志(ふじ・ひろし)

1960年、鹿児島生まれ。美術家。京都市立芸術大学大学院修了。パプアニューギニア国立芸術学校講師、都市計画事務所、藤浩志企画制作室、十和田市現代美術館館長を経て秋田公立美術大学大学院教授・NPO法人アーツセンターあきた理事長。国内外のアートプロジェクト、展覧会に出品多数。一九九二年藤浩志企画制作室を設立し「地域」に「協力関係・適正技術」を利用した手法でイメージを導き出す表現の探求をはじめる。

金澤 韻(かなざわ・こだま)

1973年、神奈川県生まれ。現代美術キュレーター。上智大学文学部、東京藝術大学大学院美術研究科、英国王立芸術大学院現代美術キュレーティングコース修了。公立美術館に十二年勤務したのち独立。これまで国内外で五十以上の展覧会企画に携わる。

編集協力:

十和田市現代美術館

※ 小説「嶋タケシ」は、十和田市現代美術館にて2019年4月13日(土)〜9月1日(日)に開催される企画展「ウソから出た、まこと」の、プロジェクトの一つです。約4万5千字のテキストのうち、約3万9千字を7回に分けてインターネット上で無料公開します。最後の部分は展覧会場、および後日出版される書籍にてお読みいただけます。

展覧会ウェブサイト:

http://towadaartcenter.com/exhibitions/chiiki-community-art/