嶋タケシ 【第七回】

* この物語はフィクションです。

わたしも「勝手にやっちゃえば」と言った手前、責任を感じて、タケシに同行することにした。ビクビクしながら、わたしたちは府庁に土木課[1]を訪ねた。会議室に通され、怒られるんだろうなと、ビクビクしながら待っていると、女性が茶托に乗ったお茶を二つ、お茶菓子と一緒に持ってきた。高級そうなお茶碗にはちゃんと蓋がついていた。一口啜ると、今まで飲んだことがないくらい高級で美味しいお茶だった。様子がおかしいぞとオドオドしていると、五人ほどのスーツ姿の職員が入って来て、一列に並んだ。

さあ来るぞと身構えた次の瞬間、彼らは一斉に頭を下げ、「この度は誠に申し訳ありませんでした」とわたしたちに謝った。何が起こったのかわからなかった。

職員の一人が、

「無断で撤去したことに対して、京都市の方からお叱りがありまして……。京都府としては、作品だということを知らなかったものですから、撤去してしまいました。たいへん失礼をいたしました」と謝った。

「つきましては、作者がなぜ設置したのか、どういう作品だったのか、しっかり話を聞くようにと指導を受けましたので、是非今回の御作品についての経緯などをお話しいただければと思います」

スーツ姿の職員全員が、バインダーに載せたレポート用紙に向かって記録しようと身構えた。

「あの、えと、今回の鴨川を必死に登っているつもりの鯉たちなのだろうかという作品ですが、あの一見元気そうに…あー、水を得た魚って言葉があるじゃないですか…そんなかんじで、元気に泳いでいるように見える鯉たちなんだけど、実はロープに縛られて、同じところを流されているだけなんだという…なんか、僕らもいろいろ頑張って作っているようでも…えっと、何か、社会の大きな流れの中で流されているだけなんじゃないかっていうよな…そんなかんじで…京都での三条河原はそもそも……(以下略)……」

タケシの話は要領を得ず、わたしでさえイライラするほど長かった。しかし役所の人たちは頑張って耐えていた。話に耳を傾けながらも、全員がほとんどメモをとれないでいる様子を、わたしはじっと眺めていた。

「とりあえず、今回土木局が無断で撤去したということで、本来負担していただこうと思っていた撤去費用の三〇万円はこちらの方で処理することにしまして、一応無断で設置したことについての始末書を書いてもらわなければならない手続きになっておりまして……」

タケシの話が終わる気配が見えた瞬間をとらえて、職員の一人が話を切り出した。

「始末書……ですか」とわたしは言った。

「ど、どのように書いたら良いものなのでしょうか」タケシも心配そうにたずねた。

「京都府知事あてに無断でやったことについての反省文のようなものを書いていただければと」

「あの、京都府知事ってどなたでしたっけ?」

「……このように書いていただけばよろし」

五人の中で一番年配に見えた職員が、大まかな見本のようなものをさらっと書いてタケシに渡した。

タケシは何度か失敗しながら始末書を書き、署名して渡そうとしたとき、間違いに気づいた。

「あ、深くおわびしますが、くおわびしますになってる!」

もう一度清書し直し、間違った原稿はもらうことにした。緊張して手をつけなかったお茶菓子もお土産にもらった。

「いい人たちやったね」

「でもなんだか硬かった」

後で聞いたことだが、わたしたちの大学の梅原猛学長は、知らせを聞いて、急遽、教授会を召集し、大学が京都の文化芸術活動のレベルを上げるために存在することを全員で確認、その上で、学生の展示を全力で守ることを決定したのだった。

「今回はめっちゃオモロかった」

「展示させてほしいって、企画書持っていった時には、誰も、話すらも聞いてくれなくてぼくを追い返した役人さんたちが、頭下げてくるなんて。気分よかったー」

「ほんとに。モノで芸術作品作って、展示室に並べても、こうはならないよね」

「ならない、ならない」

「なにか出来事を起こすことで、思ってもみなかったことが起きる。そういうのが一番興奮する」

「鴨川に設置した段階でも大きかったけど、それよりずっと大きいことになったね」

「こういう、何か予想できない出来事が起きる〈仕掛け〉を作るのって面白いなぁ」

――なにかを仕掛けることで、思ってもみなかった出来事が起きる――。モノと一体になった作品から離れ、空間に飛び出し、つぎに社会との関わりから、出来事が起きる仕掛けを作るところまで、わたしたちの面白いと思うことはだんだんと発展してきた。

わたしは大学院生として日本画を描き続けていたが(絵を描く作業は、それはそれで楽しいものなのだ。嫌いにはなれない)、ただ、手法にこだわって表現することの限界を、すでに強く感じてもいた。絵画という枠の中で自由に描くことはできるけれど、人や、人々が呼吸するまちという空間に関わることの面白さ、敢えて言うなら、意義深さには、かなわないと思い始めていた。

わたしはタケシほど大胆に振舞うことはできないけれど、何か自分にしかできないことがあるのではないかと考えるようになっていた。

五、ゴジラとハニワ

ボイスと鯉のぼり事件で、タケシは、街の中の風景に何か仕掛けることによって、予測不能な結果を生み出すことに、強い興味を持つことになった。

でも、できれば鯉のぼり事件のような面倒を起こさずにやりたかった。

「一時的にやって、問題があったら撤去して、その場を立ち去ればいいわけだから……パフォーマンスだ!」

これがタケシのその時の答えだった。鯉のぼりの時に集まってくれた後輩たちに声をかけ、京都情報社というパフォーマンスチームを立ち上げた。メンバーは出入り自由で、その都度顔ぶれは変わっていくという、ゆるやかな集まりだ。

当時はまだコラボレーションとかユニットという言葉が流通していなくて、団体でも、グループでもない集団のあり方について、わたしたちはよく議論していた。リーダーに束縛されることがなく、誰もが得意なことを実現できるような、ゆるやかなネットワークのようなあり方が理想だった。それは実際、カルマで実践してきたことでもあった。

会社っぽい名称にすることで、「仕事として頼まれることもあるかなと期待してるんだ」とタケシは話した。わたしやタカコ、サトシも快くこの集まりに巻き込まれていった。

「さあ、なにする?」

「まちに何か設置するのは、交渉が大変なんだよね……」

「鯉のぼり、オモロかったやん」

「オモロかったけど、もっとさあ、スマートにできないもんかな」

「あんな騒ぎは、もう、しばらくしなくていい。わたし、おなかいっぱい」

「だからパフォーマンス的なものにしようっていう話になったんだった」

「泥くさいやつやなくて、カッコイイことがしたい」

「なんか衣装つくって練り歩くとか?」

「実は昔から作りたいものがあんねん」と座カルマの頃から音響を担当してくれていた同級生の村山タイチが提案してきた。

「あんまり芸術って感じやないんやけど、ゴジラ! ゴジラの着ぐるみ!」

「それいいね! ゲイジュツっぽくないところがいい」

「なにで作るんやろう?」

「あ、そういえば昨日大型ゴミで、布団のマットがすぐ近くに捨ててあったで。まだあるかも」

「布団のマット?」

「布団マットはスポンジでできている。それを切って貼り付けていけば、おおまかな造形ができるんとちゃうかな」

ゴジラを作り始めたという噂を聞きつけて、いつもはスーパーリアルな油絵を描いている超技巧派の柳田ユキオが参加してきた。「ゴジラならモスゴジがいい」と、わたしにはわからないことを言いながら男の子たちは盛り上がっている(モスゴジとは「モスラ対ゴジラ」の時のゴジラなんだそうだ、ゴジラって一匹じゃなかったんだ……)。

タケシは自分がいつも使っている作業着のつなぎを前後逆さまに着て、部屋の真ん中に立ち、ゴジラを造形する時の芯の役割を担った。タイチとユキオがかなり頑張って、一ヶ月ほどでリアルなゴジラの着ぐるみが完成した[2]

タケシはその着ぐるみを着て街をうろつくパフォーマンスを行った。子供たちは歓声をあげてまとわりつき、大人たちも「ゴジラやんけ、こんなところでどないしたんや」と突っ込んでくれた。

タケシたちがゴジラのパフォーマンスをし始めた数ヶ月後、九年ぶりに新作のゴジラ映画が公開された。わたしたちはその偶然におどろいた。

「ユキオたちは知っていたのかな」

「偶然じゃない?」

そんな話をしつつ、実はタケシもわたしもゴジラ映画なんて観たことがなかったので、わたしたちは誘い合って、生涯初めてのゴジラ映画を観に行った。

映画を見た後、大阪で喫茶店に入って、久しぶりに話し込んだ。

「ゴジラで街を歩くと、子供も大人も反応がいい。場所によって少しずつ反応が違うんだ。梅田のファッショナブルな街を歩くと、若い子らがキャッキャと喜んでくれる。難波あたりの商店街を歩くと、おっちゃんおばちゃんが、いっちょかみっていうのかな、ちょっかい出して絡んでくれる」

「大阪の人って、ほっておけないんだよね」

「この前、東京まで持っていって赤坂の街を歩いたんだ」

「知ってる。マクドナルドに入ったんでしょ」

「バイトの女の子は一瞬困っていたけど、すぐに店長が出てきて『御注文は何にいたしましょうか?』って。ぼくはあらかじめ書いておいた注文とお金を渡した。そしたら『ご一緒にポテトはいかがですか?』って聞いてきて……、すごく普通なの」

「東京だねー」

「それはいいんだけどさ。大阪でも同じで、なんていうのかな、期待を裏切るほどの事件にはならないんだ」

「映画のコマーシャルか何かって思うのかな」

「そうかもね。でも逆に、大学の授業でゴジラのパフォーマンスをプレゼンテーションしようとすると、教授たちや先輩たちはざわつくんだよね。以前の芸大ではタブーだったんじゃないかな」

「そうかも。興味深い」

「ゴジラは君が考えたわけじゃないだろう。これは誰がつくったんだ? 君のオリジナルはなんなんだ! と怒り出すんだ」

学園祭だったり、クラブ活動のようなところでやるなら、学生が遊んでいるだけだということで見ないふりをされたが、課題で扱うと、それは美術のフィールドでの勝負となるわけだから、教授たちも黙っていない。その意味やコンセプトを説明しなければならなくなる。

そういうことがあって、タケシは自分が行っている活動の意味を、真剣に考え始めた。

しばらくして、タケシは東京藝術大学有志学生との合同展、「フジヤマゲイシャ」に、《悩みのゴジラ立像、悩みの無い鯉頭像、また再び無意味な対決》というタイトルの作品を出品した[3]。悩みの音楽を口ずさむゴジラと、楽しい音楽を流す鯉の頭が見つめ合っている作品だった。

京都に戻って来たタケシが、話したいというので、喫茶店で待ち合わせた。タケシは展示の写真を大量に持って来て、宮島達男や野村和弘ら同世代の勢いある作家が複数参加したこの展覧会について、やや興奮気味に説明してくれた。でも自分の作品の話になると、トーンが落ち、いろいろ考えている最中であることがうかがえた。

「ゴジラ被って歩いていると、自分の存在ってなんなんだろうって考えるんだよね。誰が入っているのかなんて誰も気にしない。ぼくの存在はなくてゴジラが歩いていることになる」とタケシは言った。

「『裸の王様』って話あるでしょ。詐欺師たちが、馬鹿者には見えない生地を使って、王様に服をつくったって話」

「王様が裸で歩いているのに、誰も裸だって言えないんだよね。赤坂のギャラリーで、その話してからゴジラを着て歩いたって、聞いたよ。サトシのアドバイスだったって?」

「そう。フジヤマゲイシャ展のパフォーマンスイベントで。『裸の王様』では、皆がバカだと思われたくなくて王様の服を褒めるんだ。『美しい服ですね』って」

「でも純粋無垢な子どもが『王様が裸で歩いている』って言うんだよね。つまり、うそを暴く子どものような存在が重要だって話」

「そうなんだけど、アーティストの役割って子どもじゃなくて、この詐欺師なんじゃないかなって」

タケシはそう言った。わたしは不思議に思って聞き返した。

「詐欺師は儲けてやろうと思っただけなんじゃないの?」

「そうかもしれないけど、ウソにまみれた社会の構造とか、権威あるものに人が操られているような状況とか、それ自体を、見せようとしていたとも考えられないかな」

ずいぶん深読みしているなあと思いながら、わたしはその話の先を待った。

「鯉のぼりの時、役所の人たちが立場でしか話をしてくれなくて、何か被り物を被っているように感じていた。本当はその被り物を剥がして、中の人に話して欲しかったんだ。うまく言えないなあ。とにかくね、自分の存在ってなんだろうって思う……」

立場、被り物、中の人、裸の王様。〈馬鹿者には見えない服〉を作って王様に着せた詐欺師。少しずつ繋がってくる。

「どう話したらいいのかわからないけど……来年は大学院を卒業して学生じゃなくなるでしょ。そうしたら学生って肩書きも無くなるから、なんらかの肩書きみたいなもの、被り物みたいなものを被らなきゃいけないのかなと思って。悪いことばかりじゃない。何かと、生涯結婚してゆくみたいな、何かと付き合って関係を深めてゆくということが、必要なのかなと思って」

「ああ」、話がタケシの今の状況に繋がってきた。「被り物は、自分自身じゃないけど、そういうのも必要なのかなって思ったってこと? 被り物は、立場でもあり、肩書きでもある。自分そのものじゃないけど、それを通して社会とつながっていくのかなと」

「うん……それがいいことかどうか、わからないけど」

タケシの抱いた感情を、今のわたしならアンビバレントと形容するだろう。両義性。ものごとの二つの意味に意識的であること。

「自分が誰と出会い、誰と関係を深めるのかは、大事だよね。人はいつも、誰かとの関係の中で存在してゆくわけだから」

タケシは頷いた。

「ぼくはコウタとかサトミと出会って、その関係からカルマと関係を深めて、カルマの嶋として充実してたんだ。でもカルマを下級生に譲ってから自分が何なのかわからなくなって、自分を探そうと自分の中に入っていった」

「その頃苦しそうだった」

「うん」タケシは苦笑いを浮かべながら、空っぽのコーヒーカップを口に運びかけ、またソーサーに戻した。

「渡月橋でアキオに出会ったとき、時間がまた動き出したんだ。美大の学生として動きはじめた。それはそれでよかったけど……結局美大の学生でしかない。それほど愛したこともないけど、大学受験の成り行きで付き合うことになってしまった美術さんと、同棲してるようなものかなって」

「美術さんと同棲……」わたしはちょっと笑った。

「問題は関係のあり方のような気もする。幸せな関係なのか、苦しい関係なのか、どう存在しているのかってことが重要な気がしてるんだ」

タケシの話は論理的なようで、何かが破綻していて理解できないところもあった。きっとまだ整理できていなかったのだろう。でも、普段あまり語らないタケシが何かを言葉にしようとしていた。おそらく、彼は、本当に社会人としてやっていく前の、最後の跳躍を準備していたのだ。

大学院の修了制作の提出が迫っていた。

タケシは染織棟の工房に籠って、青海波の図柄を染め始めた。ベニヤサイズの青海波の屏風を四〇枚つくると言う。いったん作業を始めた時の集中力は、年々強くなっていた。教授たちも、タケシがはじめて伝統柄のちゃんとした染織作品を作っているので楽しみにしていた。

そこまではよかった。

つづく

*第八回(連載最終回)は十和田市現代美術館でお読みいただけます

[1] 小説では京都府庁としたが、実際は上賀茂にある京都府土木局だった。河川管理法により、一級河川と位置付けられた大きな川は国土交通省(当時は建設省)が、鴨川のような二級河川は都道府県が、そして小さな川は市町村が管理している。わたしたちは、社会にある様々な空間には実は管理者がいて、法律や条例によって管理されているということを、この事件によって初めて知ったのだった。美術館も、もちろん博物館法や様々な条例で規定されている。比較的自由にできると思っていたギャラリーでさえも、利用規約があり、その属している建物や地域によっても、様々な法規や条例の制約を受ける。これに気付いたことは、当時、ただ漫然と広がっているように感じていた、つかみどころのない社会にコミットする上でとても重要だった、とタケシは語る。実際、これ以後、彼は法律や条例について学び始めている。

[2] その後、京都情報社のメンバーは、子供たちに楽しんでもらおうと、学園祭にあわせて仮面ライダーやウルトラ怪獣などを作り始めた。今でいうコスプレのようなものだったと思う。皆が楽しそうだった。

[3] 大学の展示室とはいえ、ゴジラの着ぐるみは現在の感覚ではアウトだと思う。意図的な模倣で利益を得る目的であれば、ゴジラの著作権者に許可を得なければならない。しかし当時はあまりにもそういう意識が薄かった。個人が、楽しんで作り、それを個人で楽しむなら問題ないはずだと信じ込んでいた。しかし、タケシによると、東京藝術大学では展示するときに一部問題になったらしい。いっぽう、やはりタケシによると、東京藝大の学生で当時「モスラ対ゴジラ」のモデルを作っていた人物が、妙なものを作られたら困ると偵察に来たが、作品を見て、よくこの低予算で作ったものだと感心して帰ったという。

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著者:

倉沢サトミ(くらさわ・さとみ)

藤浩志と金澤韻が「嶋タケシ」を書くためのユニット名であり、作中、嶋タケシの学生時代の友人として語り部となる、架空の人物。

藤 浩志(ふじ・ひろし)

1960年、鹿児島生まれ。美術家。京都市立芸術大学大学院修了。パプアニューギニア国立芸術学校講師、都市計画事務所、藤浩志企画制作室、十和田市現代美術館館長を経て秋田公立美術大学大学院教授・NPO法人アーツセンターあきた理事長。国内外のアートプロジェクト、展覧会に出品多数。一九九二年藤浩志企画制作室を設立し「地域」に「協力関係・適正技術」を利用した手法でイメージを導き出す表現の探求をはじめる。

金澤 韻(かなざわ・こだま)

1973年、神奈川県生まれ。現代美術キュレーター。上智大学文学部卒、東京藝術大学大学院、英国王立芸術大学院(RCA)修了。公立美術館に十二年勤務したのち独立。これまで国内外で五十以上の展覧会企画に携わる。

編集協力:

十和田市現代美術館

※ 小説「嶋タケシ」は、十和田市現代美術館にて2019年4月13日(土)〜9月1日(日)に開催される企画展「ウソから出た、まこと」の、プロジェクトの一つです。約4万5千字のテキストのうち、約3万9千字を7回に分けてインターネット上で無料公開します。最後の部分は展覧会場、および後日出版される書籍にてお読みいただけます。

*追記(2019年4月12日):小説をより多くのみなさまにお楽しみいただくため、全体を公開することにしました。十和田市現代美術館では、小説に登場する作品や当時の貴重な資料、映像を展示し、小説の世界をより深くお楽しみいただけるようになっておりますので、どうぞ会場へも足をお運びください。

展覧会ウェブサイト:

http://towadaartcenter.com/exhibitions/chiiki-community-art/