嶋タケシ 【第三回】

* この物語はフィクションです。

二、カルマ

「あめんぼあかいなあいうえおー!」

四人ほどが列をつくって大きな声で発声練習をしているところにやってきたわたしたちは、ものすごく場違いなところに来てしまったと、とっさに思った。しかしタケシの高校からの先輩がわたしたちを見つけ、「最初は様子見ながら、やってる人たちの真似して声出して!」と促した。わたしたちは仕方なく列に並んだ。

しかし声を出すのはめちゃめちゃ恥ずかしかった。

「なんでこんなことやってるんだろう……」

そう思って隣を見たら、タケシもレイイチも小声で唱和しながら、当惑した表情を浮かべていた。コウタは声を出してすらいなかった。ただ何の感情もない顔で、その光景を眺めていた。

しばらくすると、劇団は早口言葉の練習に入った。「生麦生米生卵、となりの客はよく柿食う客だ、東京特許許可局、この竹垣に竹立てかけたのは竹立てかけたかったから……」

先輩の一人が「自分に厳しくね! まだまだ言えてないよ! 一音一音はっきりと発声して!」と発破をかけた。その声に反応して、全員が一層発声に集中するのがわかった。

その直後、コウタがすたすたと外に出て行ってしまった。レイイチがその後を追いかけていった。タケシだけは、二人が出て行くのを横目で見ながら、知り合いの先輩に気を遣ってか、そのまま練習を続けていた。

わたしは休憩時間まで練習につきあってから、コウタとレイイチを探しにいった。二人はいつも行っている学校近くの喫茶店でしゃべっていた。店に入ってきたわたしの姿を認めて、コウタがニヤっとして言った。「サトミ、あれついていける?」

わたしは首をふった。「いやー、ダメだわ。恥ずかしくて無理」

「だよね」

「めちゃくちゃスポ根な感じやな」レイイチが頭を掻きながら言った。「ちょっとぼくには耐えられへんなあ」

「あそこからやるんか……」

「天井桟敷[1]でも早口言葉やってるんかなあ」

「セリフない演劇やろうよ」

「白塗りで舞踏とか? 白虎社って近くで練習しているらしいで」

「舞踏はまた別の難しさがあるのでは……」

「ごめん、冗談です」

「しかし演劇の劇団は無理かなあ……。あれをやらんとあかんのやったら」

三人でため息をついたとき、タケシが店に入って来た。

「みんな!」

先に出て行ってしまったことで、三人ともタケシが怒っていると思った。しかしタケシは「いやーちょっと……ゴメンね」と言った。

「びっくりしたね。あそこまで、なんと言うか、クラシックな感じとは思ってなかった」

どうやら全員が同じ感触を覚えたみたいだった。あの集団的な熱さを前に、わたしたちはかえって白けた気分になってしまったのだ。

「どうする、入るのやめる?」とタケシに聞くと、「いや、ちょっと待って」と言う。

「劇団カルマは歴史的なアトリエ座の伝統を引き継いだ劇団で、そこそこ充実した公演をやり続けているんだよ。固定ファンがいるし、大学側との信頼関係も築いてきてる。こういう活動をゼロから自力で作るとなると、けっこうしんどいと思うんだよね」

タケシはいろいろ考えていたようだった。「公演場所の大講義室もそのまま使いたいし」

「じゃあどうする?あの熱血練習を回避するには?」

「コウタは、脚本と演出をやりたいということにして、練習には来ないってことにしたら」

タケシはしれっとして言った。

「レイイチは舞台美術を担当するってことにしよう。絵が上手いんだしさ。ぼ、ぼくは声出したいし喋れるようになりたいから練習してみる」と言って、ニッと笑った。「こういうのは戦略でしょ。なんとなーく、自分たちのやりたいように持っていけばいい。先輩たちも部員少なくなってきて困ってるみたいだし」

タケシの目が鋭く光ったのをわたしたちは見た。

「タケシって……」

「なに?」

「けっこうしたたかだよね」

わたしがニヤニヤしながら言うと、タケシは、そう? などと言って笑い返した。

「サトミはどうする?」とレイイチが聞いた。

わたしは、「マネージャーをやる」と答えた。

タケシが「ぴったりだ」と言った。

コウタが「マネージャー? 運動部のマネージャーみたいに、ユニフォームを洗濯すんの?」とわたしをからかった。

わたしたちはしばらく先輩たちの公演の手伝いをしながら、舞台づくりを学んでいった。一回生から二回生になり、時代は八〇年代に突入した。ちょうど大学が鬱蒼とした雰囲気の東山七条から、新しく開発されていた町、西山の新築校舎へ移転した。何かに憑かれていたような気分が突然無くなり、わたしたちはフラットで明るい気分を味わっていた。

タケシは劇団カルマのほかに所属していたバレー部の先輩から、「学校なんて行かなくてもいいから、とにかくギャラリーを廻れ」と言い渡され、わたしたちはよく京都じゅうの美術館やギャラリーを見て回った。

覚えているのは、八〇年代前半、「現代美術」と呼べるものは周りになかったということだ。インターネットもなく、美術雑誌も限られていた当時、京都アメリカンセンターがアメリカの現代美術の動向を知る数少ない窓口だった[2]。デパートの催事場や公立の文化会館の展示室では団体展と公募展の展覧会を行っていて、新しい時代の表現はたまに見られるだけだった。そんなわけで同時代の作家の居場所はすごく限られていて、徐々に数を増やしていた貸し画廊と、一年に一度京都市美術館で行われる京都アンデパンダン展が主な発表の機会だった。わたしたちはそんな、まだ萌芽としか言えないような表現の中に、自分たちを興奮させるものを求めて、京都を端から端まで見て回っていた 。

ちょっと上の世代は「前衛芸術」「具体美術」を見たり、実際に関わっていたりして、それはもちろん、わたしたちの学生時代にも大きく影響していたのだけど、いっぽうで、版画、写真、イラストレーションといった、複製可能な、または出版文化と関係の深い芸術の人気が高まっていた。パルコ主催の日本グラフィック展がスタートし、写真雑誌「写楽」や「写真時代」、「フォーカス」[3]が創刊されたのもこの頃だ。ビデオ、フロッピーディスク、ウォークマンが登場し、メディアが変容し、人々が求めるコンテンツが移り変わっていった。

わたしたちは毎日、同じ喫茶店で、見たこと、聞いたことについて、終わらないおしゃべりを続けた。

「前衛は、もうないよな」

「そういえば、なんで前衛芸術家っていつもグループ活動するん?」

「美術団体に数で対抗するためでは?」

「あ、そういう理由」

「いいねー。レイイチくん、ぼくらも芸術グループを結成しよう」

「グループ立ち上げるには何か宣言文みたいなんが必要なんや」

タケシとレイイチが肩を組んで立ち上がる。

「我々は……」

「……」

「あははは」

「宣言できてないやん」

「ダメだ。ぼくら体質的に無理かも」

「だいたい、なんかやるとき、先に宣言するのって厳しくない?」

「あとが大変やな」

「宣言が立派でも、結局オモロイもんが作れなかったらな」

「話は変わるけど、アメリカンセンターで紹介していたクリスト見た?」

「見たけど、すごすぎてよーわからん」

「なになに、ぼ、ぼく見てない」

「クリスト。ランドアートって言うんかな。すごい大っきなアートプロジェクトやってる」

「そう、海岸を布で包んだり、ナイロンの布で四〇キロの長ーいフェンス作ったり。フェンスは村も砂漠もばーって、突き抜けてた」

「それ凄そう」

「アメリカはやっぱり進んでるね」

(この認識は、今となってはおかしいのだけれど、京都アメリカンセンターで見た作品の影響が強かった)

「日本の現代美術はなんかこわいわー。こないだ、青灯画廊に行ったら」

「あー、あそこね」

「入ったら、床に石がゴローンと転がってて。なにかなーって思って近くで見ても、ただの石」

「あはは」

「そこまではいいんだけど。フッて振り向いたら、作家さんが腕組みして座ってて。こっちジーッと睨んでた」

「まじで」

「言わなくてもこの素晴らしさを感じろ、という無言の圧力が…」

「こわい、こわい」

「でも、石かあ……もの派の影響やんね。もの派つよいなー」

「うちの彫刻の教授も、もの派だって知ってた?」

「もの派、確かに強い」

「純粋に、あの方向で、もの派よりかっこいいこと、考えつかへんのちゃう?」

「立体はなー……難しいよな。あの後に新しいことやるんは」

「絵も具体の後は厳しくなってるしな」

「ああ、具体美術協会。人の真似をするな、これまでにないものをつくれ、っていう」

「これ厳しいでしょう。完全に新しいものって、そんなに作れへんよ」

「むしろコピーの美について考えたいよね」

「あ、木村秀樹の版画展、水尾画廊でやってた。写真製版のシルクスクリーン。かっこよかったわ」

「わたし版画は山本容子が好きー」

「山本容子って劇団の大先輩らしいよ」

「版画家の池田満寿夫、映画作ったらしいやん。見てないけど」

「見たよ。エロスやった」

「エーゲ海に捧ぐ、小説がまず賞とって、それで映画化されたんやろ」

「ジャンルに縛られるんじゃなくて、マルチにやらなきゃね」

「エロスとエロはどこが違うんやろ」

「アホか、エロはエロやろ」

「池田満寿夫の転写の技法、雑誌にシンナーつけてこすって転写するだけのやつ、あれやったら作品どんどんできるで」

「それええなー、エロスの量産」

「ぼくらも展覧会しようか」

「ギャラリー水尾は一週間十五万円やって」

「おお、いったい何ヶ月のバイト代やろ」

「貸し画廊の展示、なんだか入るの怖いんだよね。なんかいつもイヤーな雰囲気……」

「イヤーな雰囲気……」

「自己顕示欲です、って言っちゃってるみたいな。どうなんだろ」

「美術ってなんやろな。みんなでつまんないの作って……どうしても見せなあかんのかな」

「たまに、いい展示もあるやん」

「まあねー。少ないけど」

「展覧会やってどうなるん?」

「作品売れるんやないの?」

「売れん作品は?」

「ゴミになる」

「売れても金持ちの家に飾られるだけやろ。なんか嫌やな」

「なんかの団体展に入って作家の道を探るんとちゃう?」

「美術団体は偉い先生のお弟子さんになって、修行のかたわらご奉公しないと出世できないって」

「それはないな」

「サトミは日本画だから、そっちも考えてる?」

「わたしにできるわけないでしょ。誰かに仕えるとか」

「だよね!」

「まわりはけっこう普通に頑張ってる子いるけどね。体質というものがある」

「公募展は?」

「公募展もなんか、池月会とかと似たような感じだよね。もっとイケてるところに出したい」

「あ、京都アンデパンダンなら、無審査やから」

「京都アンパンはたまにすごいのがある。見たことある?」

「ない。知らない」

「 素描の先生やってる林剛と中塚裕子が一室全部使ってたの[4]。いや、二部屋使ってた。一部屋にはテニスコートができてて、もう一部屋は巨人の裁判所のような部屋、かっこよかったー。あれって一室使いますって言ったら使わせてもらえるの?」

「実績と内容によるんでは……」

「ヨシダミノルって知ってる? 京都アンパンの会場に家族で暮らしていたんやぞ、小学生の子供しょーねん君がおった」

「少年ってこと?」

「いや、しょーねんっていう名前なんだって。たまたま話したんや」

「展覧会場に家族で暮しているのが表現になるってすごい!」

「なんでもありやな」

「でも……ぼくらは何をやればいいんだろう……」

二回生になり、劇団カルマでは先輩たちからわたしたちの代に、早々と主導権が移譲されることになった。そのタイミングで、コウタがずっとダサいと言っていた劇団名を変えようと、いつもの喫茶店で会議になった。

「どんな名前がいいんかな」

「カッコイイ名前にしようよ」

「ダサくなければなんでもええ」

「なにかいいのある?」

「なんやろ?」

言葉を知らないわたしたちは困り果てた。コーヒーカップがすっかり空になり、いつものように水ばかりを注文し、そろそろ頭が朦朧としてきたとき、タケシが「カルマのままでいいんじゃない?」と、力なさげにポツリと言った。

「固定客もいるしさ、先輩から引き継いだんだし」

「でもせっかく新しくするんやったら、何か変えたいな」

その瞬間、

「ザ、カルマってどうやろ」とレイイチが勢いよく提案した。「The Kalma や。英語やぞ、かっこええやろ」

「そうかなあ」

「「座」カルマでもええぞ」

「座って…」

「ぼ、ぼくらってボキャブラリーないのかな」

しばらくみなで天井を見つめたが、特にいい考えも浮かばなかった。だんだんと、「座・カルマ」でいいような気になってきた。

「仕方ないなあ。じゃ、劇団座・カルマってことで」

わたしは力なく言った。名前じゃない、中身だ、と自分に言い聞かせながら。

「それで、座長は誰にする?」

わたしはコウタの方をチラリと見ながら聞いた。

「コウタが一番わがままだから、コウタがいいんじゃないかな」と、タケシが言った。

「コウタがええんちゃう」と、レイイチも賛同した。

コウタは、「えー!」と驚くフリをして、すぐに「わかった」と了承した。

「でも座長ってなにすればいいんかな?」

新しいキャンパスで演劇の練習を始めたものの、発声練習と基礎トレーニングだけの練習にはコウタもレイイチも全く出て来てくれなかった。いつもわたしとタケシだけ。わたしはマネージャーなので練習はしない。タケシの発声練習に付き添って、数を数えたりしていると、まるで彼専属のボイストレーナーのようだった。

新入生の勧誘もほとんどしなかったので、寂しい活動が続いた。当時は携帯電話などなく、学生の身分でアパートに個人電話を持っている人もいなかったので、連絡は取りにくい。学食で見つけて声をかけるか、あとはひたすら練習に出てくるのを待つしかなかった。春の公演をしなければならなかったのだけど、タケシと二人だけという状況では難しかった。公演の時期が無為に過ぎ、もう劇団は解散だなと思った頃、新入生が二人、ポツリと見学に来た。しっかりと腕をつかみ、逃さないように喫茶店に連れて行き、なけなしのお金でコーヒーをご馳走し、入団を決心させた。

新入生が二人入ったことで、レイイチが練習に来始めた。コウタもミーティングには参加するようになり、どうにか出来たばかりの「座・カルマ」は潰れずに済んだ。夏休みを前にして、タケシの実家のある鹿児島で夏合宿を行おうということになったとき、数人の友人たちが「合宿、面白そう! 混ぜて」と言って来て、よく分からない形でメンバーが増えた。

ちなみに合宿先でやった鹿児島公演は、やっぱりというかなんというか、大失敗に終わった。台本はタケシの先輩が持ち込んだ「中年探偵団」。面白がって勢いで上演まで持っていったのだけど、まあ、練習不足だった。完成度なんて全くない。一年生の時のグループワークとなんら変わっていなかった。さすがに反省したわたしたちは、ついに本格的に自分たちの制作に向き合い始めた。

演劇というフレームにこだわらずに新しい舞台をつくればいいはずなのだけど、「劇団」から出発したことで、ついつい演劇をしなければならないと思い込んでしまっていた。この頃から、それぞれの特性を活かすような、集まりのようなものをつくればいいんだと考え始めるようになった。人は、やりたいことが、少しずつ違う。声を出したい人、演じたい人、物語が好きな人、照明や音響にこだわりを持つ人。楽しいことをやっていたら人は集まってくる。わたしたちは、そういうことが体験的にわかってくるようになる。

つづく

[1]天井桟敷は1967年に青森県出身の寺山修司(1935–1983)を中心に結成されたアングラ劇団。横尾忠則がポスターを手がけ、大規模な仕掛けの実験演劇として海外からの評価も高かった。演劇を知らないわたしたちにとっても、テレビアニメ「あしたのジョー」の主題歌の歌詞を書いた詩人、寺山修司の劇団だということは知っていたし、その寺山が1970年に漫画「あしたのジョー」の登場人物、力石徹が死んだ際、実際の葬儀を主催したことも知っていた。1975年には30時間市街劇を東京都杉並区各所で同時多発的に開催し話題になっていた。タケシは、1980年に暮らしていた太秦のアパートからすぐ近くの京都大映撮影所第2スタジオで開催された「奴婢訓」を目撃した。彼はその舞台の規模に圧倒されたという。83年に寺山修司が他界した時に、その業績を改めて知ることになった。

[2]当時、大阪でプレイガイドジャーナル(1971–1987)という、関西圏の映画、演劇、音楽、美術情報を網羅する情報誌が発行されていて、それを片手にギャラリーをめぐるというスタイルが一般的だった。しかし京都という土地柄、日本画を中心とした売り画廊が多く、一部版画を扱うギャラリーもあったが現代美術のような新しい表現を扱う画廊は少なかった。その中で1980年代初頭、若手作家たちが発表の現場にしていたのが貸画廊だったと思う。貸画廊と言っても、誰でも借りられるわけではなく、ギャラリーオーナーもしくはディレクターのような人が実績を判断して貸し出していたので、それぞれのギャラリーに特徴があった。京都ではギャラリー16、ギャラリー射手座、工芸系でギャラリーマロニエが京都市内の中心部にあり、大阪だとギャラリー白、信濃橋画廊は行ったほうがいいと言われていた。東京では神田・京橋の画廊から銀座へとギャラリーは分布していたが、それぞれに何らかの特色があり知り合いの口コミでめぐることが多かった。

[3]当時、ビックリハウス(1975–85)、月刊ヒント(1979-?)などの雑誌も面白いと思って見ていた記憶があるが、写楽(1980–85)や写真時代(1981–88)の発刊は印象的だった。その頃、油画の教授だった三尾公三がフォーカス(1981–2001)の表紙を書き始めたことや、地域情報誌が出始めてメディアが近くなった感覚があったと思う。美術作品をギャラリーや美術館、デパートで鑑賞するという感覚とは違い、安い雑誌の中に、多くの興味深いイラストレーター、アーティスト、写真家、漫画家、小説家、演出家、音楽家などが登場して、身近なところで感覚を刺激されていた記憶がある。特にフォーカスで藤原新也が連載し始めた「東京漂流」は印象的だった。それまでガリ版と青焼きコピーしかなかったところに、高額ではあっても、コピー機、カラーコピー機の出力サービスが登場し、ポストカードなどの印刷物サービスも身近になりはじめ、自分たちでメディアをつくれる、という空気感が漂い始めていた。

[4] この会話は1980年のものだが、実際に林剛と中塚裕子が京都アンデパンダン展で大規模なインスタレーションを行なったのは1983年から。ただ、わたしたちが強烈な衝撃を受けた京都アンデパンダン展は、彼らの展示と切り離せないので、物語上ここに記述する。

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著者:

倉沢サトミ(くらさわ・さとみ)

藤浩志と金澤韻が「嶋タケシ」を書くためのユニット名であり、作中、嶋タケシの学生時代の友人として語り部となる、架空の人物。

藤 浩志(ふじ・ひろし)

1960年、鹿児島生まれ。美術家。京都市立芸術大学大学院修了。パプアニューギニア国立芸術学校講師、都市計画事務所、藤浩志企画制作室、十和田市現代美術館館長を経て秋田公立美術大学大学院教授・NPO法人アーツセンターあきた理事長。国内外のアートプロジェクト、展覧会に出品多数。一九九二年藤浩志企画制作室を設立し「地域」に「協力関係・適正技術」を利用した手法でイメージを導き出す表現の探求をはじめる。

金澤 韻(かなざわ・こだま)

1973年、神奈川県生まれ。現代美術キュレーター。上智大学文学部、東京藝術大学大学院美術研究科、英国王立芸術大学院現代美術キュレーティングコース修了。公立美術館に十二年勤務したのち独立。これまで国内外で五十以上の展覧会企画に携わる。

編集協力:

十和田市現代美術館

※ 小説「嶋タケシ」は、十和田市現代美術館にて2019年4月13日(土)〜9月1日(日)に開催される企画展「ウソから出た、まこと」の、プロジェクトの一つです。約4万5千字のテキストのうち、約3万9千字を7回に分けてインターネット上で無料公開します。最後の部分は展覧会場、および後日出版される書籍にてお読みいただけます。

*追記(2019年4月12日):小説をより多くのみなさまにお楽しみいただくため、全体を公開することにしました。十和田市現代美術館では、小説に登場する作品や当時の貴重な資料、映像を展示し、小説の世界をより深くお楽しみいただけるようになっておりますので、どうぞ会場へも足をお運びください。

展覧会ウェブサイト:

http://towadaartcenter.com/exhibitions/chiiki-community-art/