嶋タケシ 【第二回】

* この物語はフィクションです。

四人のおしゃべりは楽しかった。コウタとわたしは好き嫌いがはっきりしていて、好きなものを褒める時も、嫌いなものをこき下ろす時も、競い合うように言葉を尽くした。

レイイチは美術史についても、戦後の美術の動向についても詳しくて、よく教えてくれた。それと、彼は漫画に詳しかった。当時、少年誌はもちろん、少女誌、クリエイティブ系に至るまで、漫画文化は黄金期を迎えていた。「すごい漫画家が出てきたよ」と大友克洋を教えてくれたのは彼だった。

タケシは最初こそ口数が少なかったが、だんだんと彼の興味を話すようになった。彼が、彼の出身地にゆかりのある作家、田中一村や、高校の先輩にあたる八島太郎[1]の話をしていたのを思い出す。

一村は中央画壇と決別し、奄美大島のタケシの故郷の集落で、独り黙々と風物を描き続けた画家だったし、八島太郎は第二次世界大戦時にアメリカに亡命した画家、絵本作家だった。つまり彼の芸術のモデルは、すでにあの頃から、ファッショナブルな世界の対極、自分の身近なところにあったのだ。

このあと、グループワークの課題では、コウタが泉鏡花の世界を下敷きに、歌舞伎の踊りの要素も入れたネオクラシックな舞台のシナリオを書いてくることになった。

ある日の午後、わたしたちは虹色に光るビニールテープを使って延々と網を作っていた。それはパフォーマンスのエンディングで舞台上に投げかけられて、出演者たちが「色とりどりの光の中に溶けていく」ために使われる予定だった。少ない制作費から用意することのできる素材は、見るからにチープで、変にかさばって扱いづらく、時間がかかって終わりが見えなかった。

コウタが書いてきた脚本は、高僧が山奥で美しい女に出会い、惑い、苦悩した挙句に、結局女の手に落ちるという筋書きだった。セリフらしいセリフはなく、代わりに最初から最後まで高僧が仏教のマントラや仏教用語を唱え続けるというシナリオだった。みんなどうリアクションしたらいいか戸惑っていた。

その中で、タケシだけが興奮していた。

「これ、いいねえ」と言いながら、笑顔で何度も脚本を頭から読み返していた。

「光とか音とか、衣装も工夫したいね!」

「わかってるね。演劇らしい演劇になったらダメやと思うんや」

とコウタは言った。

「今はすべての表現領域でやり尽くされている感じがある。固定観念をいかに外すかってことを軸に据えるべきなんや」

「だからセリフがないの?」とわたしは訊いた。

「セリフで事が運んだら演劇でしょう」コウタが答えた。「新しい表現の時代を作る時なんや」(わたしは「なんなのそのドヤ顔は」とつっこんだ)。

レイイチも、「わからんけど、ともかく、画期的なことせな!」と、方向性については賛成しているらしかった。

「いやー、コウタと同じチームでほんとよかった。ぼく、演出頑張るよ。新しい表現、作ろう!」

タケシが熱く応答すると、ほかのみなも何だかすごくいいものができてきそうで、わくわくしはじめたのだった。

ところが、いざ大道具や衣装を作る段になると、コウタはまったく姿を見せなくなってしまった。制作物は自分の担当じゃないと思っているようだった。でも誰だって地味な作業はやりたくないし、この、全員が一年生という、上下関係のない段階で、勝手に役割分担されるとあまり気分はよくない。自然と、チームの士気は下がってきた。

その日、みながバイトだとか家の用事だとか言って、一人、また一人と帰っていき、最後にタケシとレイイチ、わたしだけになった。わたしも果てしのない単純作業に疲れてきていた。

「こんな感じで、だいじょうぶかなあ。不安しかないわ」

正直に口に出したら、レイイチが「やってみないとわからんやろ。今日のノルマまで作ろうや」とわたしを励ました。レイイチはとにかくずっと、黙々と作業をしていた。彼の、粘り強く、誠実な性格が伝わってきた。

レイイチはすでにクラスの女子数人から明らかに好意を持たれていた。彼女たちのうちひとりから「サトミはレイイチのことどう思う?」と探りを入れられたことがあった。

「どうって…特には」と返事をしたが、それは素直な感想で、どちらかと言えばコウタのほうが、わたしの心を占めていた。構内で、喫茶店で、コウタの姿を見つけると、妙に嬉しくなった。

ともあれ、レイイチは信頼のおける仲間だったことは間違いない。わたしはレイイチの隣に腰をおろして、また作業を始めた。

タケシも黙って作業を続けていた。何かを考えているふうだった。

そこに、武藤アツシ先生が通りかかった。一ヶ月ほど前、授業で野焼きを行った。粘土で好きな作品をつくって、一ヶ月ほど乾燥させたあと、校庭の真ん中に皆のつくった作品を集め、藁をかぶせて火をつける。

「縄文時代からの焼き方や! これやったらどんな大っきな作品でも焼けるんやで」と教えてくれた先生だ。

武藤先生は陶芸科の先生だった。陶芸と言っても、お茶碗や花瓶ではなく、彼は大きな彫刻を作っていた。彼の代表作である、歪んだ三角錐の下から短いチューブのような肢が何本も生えている立体は、土の、ほっこりした温かみのある感触を、堅い焼きものに封じ込めていた。でもその作品はイカのキャラクターのようでもあって、先生がユーモアも大事にしているのだということが伺えた。これは後から知ったが、わたしたちの大学は前衛陶芸集団・走泥社[2]の芸術家が教鞭を執る、現代陶芸の最前線だった。

「これは果てしなく時間がかかりそうやなー。三人だけやったら、永久に終わらへんで」

わたしたちはその言葉を聞いて、げんなりした。

「わかってますよ……でもやるしかないじゃないですか」

わたしは反抗気味に応えた。

「何作ってもええけど、グループワークやなかったらダメやからな。倉沢やっけ、グループワークに一番大切なことってなんやと思う?」

「大切なこと?」

「いろいろな価値観を持った個人が共同で制作するということは、個性をぶつけあって一つの共通の答えを見出すということや。数学で共通項を導き出すのに公約数と公倍数とあるやろ。でも公約数じゃダメなんや。約してしまうと1になる。陳腐なものになってしまう。だから掛け合わせてとんでもないところにある共通項を探さなければならないんや」

「最小公倍数だな……」

数学が得意だと自慢していたタケシがやたらと納得していた。

「メンバーそれぞれの得意なところを見つけ出して、それぞれがそれを最大限に発揮できるかどうかが大切や。一回ちゃんと全員でミーティングして、仕切り直したらどない? みんながわくわくすることは何か、それを達成するのに何が必要で、どうやればできるのか。芸術やるのに、正解はないんやから」

芸術やるのに正解はない、という言葉が胸に刺さった。

「失敗せい、失敗。前のめりに盛大に失敗するんや!」

そんなセリフを残して、武藤先生は去っていった。彼の言っていることの意味はわからなかったが、ただそのとき、わたしはいろいろなことを計算しはじめていた。

「発表まであと三週間で……十二人が一日八時間は活動できるとして……網は一人一時間五〇センチ平方メートルだから、完成させるのに、たとえば全員でかかって八日と二時間。あと照明と音と、……衣装はどこまで進んでるんだっけ。ちゃんと分担しなきゃ」

「ぼ、ぼくもさあ」とタケシが言った。

「コウタの脚本、すごい面白いって言って興奮してたけど、みんなとちゃんと話してなかったと思った。何をやるのか、本当にはピンときてないやつもいたよね、きっと。明日全員でミーティングして、話したい」

「そうやな、グループワークやもんな」とレイイチが言った。

「みんなのやる気が出るように、目標をすり合わせる」とタケシが言った。

「わたしは分担とタイムスケジュール出す」

タケシが、勢いよく立ち上がって、

「面白くなってきた!」と叫んだ。

当時はまだプロジェクトやマネジメントという言葉は知らなかったけれど、その後手がけることになった数多くのアートプロジェクトで感じたことは、それが砂で山を作るプロセスに似ているということだった。四方八方から少しずつ砂をかき集めて、少しずつ盛り上げていく。最初から立っている確固たる柱はない。メンバーや関係者と話したり交渉したりしながら、目標を見出し、形を決め、高さを出していく。走りながら場所を決め、お金を集め、役者を探し、まだ出来ていないものを宣伝し、やり終わってから自分たちが作った山を、こんな風にできたのかと眺める。異なる多くの人々と、変動する条件の中で、まだ誰も見たことがない光景を作り出すために。

三週間後、パフォーマンスは行われた。演劇っぽくしたくないということで選んだ野外の広場で、わたしたちの用意した照明はいまひとつ効果が出ず(完全な屋外では光量が足りなかった)、音響係はカセットテープのB面を間違えて再生し(それでクライマックスの演出のタイミングが完全にずれた)、美女役の女子は照れが隠しきれず(まだ十代のわたしたちに妖艶な演技は難しかった)、誰の目にも迫力に欠けていた。

先生たちは一様に低評価を下した。

「うーん、何が言いたいのか、わからない」と言ったのは、彫刻科の岩清水ユズル先生だった。木や石を使った彼の彫刻は、無駄を極限まで削ぎ落としてシュッとしていたが、同時に軽快なリズムを湛え、かなりかっこよかった。

京都の染織界を牽引してきた大御所作家、染織科教授の山木カズコ先生は、「よう頑張りはったみたいやけど、美しさのかけらもないな。精進しよし」と厳しい口調だった。山木先生も、伝統技法から出発しながらも、織りで立体を作ったりする、ファイバーアートの旗手だった。

「いろいろ、ぐずぐずやな」と武藤先生が言った。「盛大な失敗にかなり近い」。

わたしたちはがっかりしていた。自分たち自身に。

他のグループはもっとシンプルでスマートな発表をしていた。あるグループは、大学の正門から校舎を挟んでお墓のある裏門まで、植木やフェンスを乗り越えて五〇センチ幅の直線を引いた。いつもの通り道に塗られたペンキが、空間を一変させ、その中に取り込まれた門の金属や地面の土、植物の葉、建物のコンクリートなどの素材の感触を生々しく想像させた。別のグループは一つの教室の中に白く浮かび上がる大きな立方体を作り出していた。ここがどこか一瞬わからなくなる感じは、お化け屋敷のようでもあり、SF映画のようでもあり、見る者を没入させた。それぞれ「言いたいこと」がはっきり伝わってくる、シャープな表現だった。

わたしたちも無理をせずに、もっと単純なアイデアで突っ走るべきだったのだろうか? それとも、どこか別のところでボタンを掛け違ったのだろうか……。

三週間前にわたしたちは仕切り直しをした。それぞれの要素を書き出して、電卓をたたくと、自分たちの作業ペースでは思ったものが出来上がらないことが、すぐにわかった。バランスを考えて、いろいろと組み直す必要があった。時間、予算、労力。限られたリソースで最大の力を生みださなければならない。

ただその中で、気力というリソースは不思議だった。誰もが自分の「やりたい」と思うことには、想像以上の力を発揮するのだ。わたしもタケシも根性論は大嫌いだったけど、みなが楽しんでやれるならそれに越したことはない。それで一人一人のアイデアを丁寧に聞いて、取り入れていった。チームにはいろんな学生がいた。ただ絵を描くのが好きでこの大学に入ったという美術科もいたし、将来はテレビ局に入りたいというデザイン科もいた。わたしたちはそれぞれが興味を持てる作業内容を考えて協力体制を築いた。絵を描きたい子に着物の模様をお願いし、テレビの仕事をしたい子には舞台セット設置の責任者をお願いする、というふうに。そして全員でやらなければならない作業については全体のスケジュールを説明し、納得してもらった。

この話ができるのは — つまり、全体を見ていたのは、わたしとタケシだった。こういうのは、体質というものがあるのだ、たぶん。

一時期姿を見せなかったコウタも現場に戻ってきて、演出について熱心に意見を言った。彼の理想とする舞台は、彼の好きな玉三郎が見せる歌舞伎のような異空間で、その斜め上のビジョンはわたしたちをひきつけた(相変わらず地味な制作は人任せだったけど)。

レイイチは常に現場に入り、地味な作業をコツコツとこなしていった。それはチーム全体に安心感をもたらしていた。

わたしたちはチームになっていたと思う。それぞれの興味関心を重ね合わせて、一つのものを作ろうと、長い時間をかけて打ち込んだ。そんな体験はみなほとんど初めてだった。そういう活動をしている自分たち自身に驚いてもいた。だからこそ、出来上がったものについて、それなりの評価を受けたかった。

楽しい打ち上げになるはずだったその日の夜、みんなで入った喫茶店で、わたしたちは言葉少なくコーヒーを飲んでいた。いつも元気なタケシも下を向いて何かを考えているふうだった。

レイイチが誰にともなく話しかけた。

「でもさ、あのネットは、時間かけただけあって、ちょっとええ感じを出してたんとちゃうかな。手間ひまかけな強い表現にならんね」

「あ、それ思った」と誰かが言った。「異次元入った感じやった。もっと環境違ったら、けっこうゾクっときたと思うで」

「わたしは、仏教用語けっこうよかった」と別の子が言った。「音だけで聞くと意味がわからないけど、映像とかで字幕つけるみたいに〈迦陵頻伽〉って出したらかっこよかったと思う。次々と」

みなが「それはかっこいい」「面白い」と賛同した。それを聞いて、コウタの顔に生気が戻ってきた。

みなが少しずつ、よかったと思うところを話し始めると、自分たちのパフォーマンスはそんなに悪くなかったのではないかと思えてきた。

「他のグループの直線のやつとか、立方体のやつとか、まあ、よかったけど」とレイイチが言った。「ぼくらはもっと、一回ではできへんような、大っきいことを目指してたんやないかな」

「それや」とコウタが膝を打った。「ぼくたちの表現は早すぎたんや。先生たちにわかってもらえへんかったんは、そういうことや」

「確かに、スキルはなかったよ。それは認めざるを得ない」とタケシが言った。「でもそういうのって、続けていけばできるようになるんじゃない?」

「制作費も一人五千円って限度があったしね」わたしが続けた。「そういうしばりがなければ……たとえばスポンサーを募ったりとかもできるわけだし」

「つぎ込もうと思えば、つぎ込めるよな」

「少なくともいくら遣うか、自分たちで決められる」

「絶対もっとできる」

「じゃあ今日の結論として」わたしはみんなを見渡しながら言った。「わたしたちのこころざしは高かった。今日の失敗は、知識と経験とお金の不足からきているのであって、次はもっと、うまくやれる!」

みなが頷いたり、口々に「うん」とか「できる」とか言った。

数日後タケシが、「先輩たちがやってる〈劇団カルマ〉っていうのがある」と言ってきた。「それに入ってもっと経験積まない?」

つづく

[1]田中一村(1908–1977)と八島太郎(1908–1994)
 この二人は東京美術学校(現在の東京芸術大学)へほぼ同じ時期に入学していると思われるが、おそらく接点はない。田中一村は栃木県生まれ、七歳の頃から南画の神童と呼ばれた。東京の芝中学校から東京美術学校に進学。同級生に東山魁夷らがいる。しかし学校の指導方針に反発し中退してしまう。田中米邨という雅号で南画を描き生計を立てていたが、作家としての紆余曲折のあと、それまでの交友関係と決別し、1958 年奄美大島に移住。タケシの両親の出身の集落で、大島紬の締め機織りの仕事をし、生計を立て、その傍ら、奄美大島の風土を死ぬまで描き続けた。生前はほとんど作品を発表することはなかったが、タケシの高校の先輩が晩年の一村と出会い、没後の1979年、奄美大島で遺作展を開催。タケシはその頃、一村について知ることになる。一村は1984年にNHKで紹介されて以来、全国的に注目され、現在では奄美大島に田中一村記念館もあり、田中一村の描いたイメージのエッセンスが、今の奄美大島のメインビジュアルとして観光ポスターなどに利用されている。タケシにとって、最初に強い影響を受けた作家だった。 八島太郎は、鹿児島県の大隅半島にある根占(ねじめ)の出身。タケシの高校の大先輩でもある。東京美術大学時代に軍事教練をボイコットして中退。日本の軍事主義に反発したということで十回にわたり投獄される。1939年アメリカに渡り、太平洋戦争中に日本軍への降伏を呼びかけるビラの作成などを行ったことで、日本に帰ることができなかった。1943年1950年ごろより絵本作家として活動を始め、根占での子供の頃の体験を描いた「Crow Boy」(「からすたろう」として日本語でも翻訳されている)を含む三冊が、アメリカで栄誉あるコールデコット賞次席を受賞している。日本で1978年に出版された「あたらしい太陽」と「水平線はまねく」(1979年)はタケシが最初に出会った作品集だった。

[2]走泥社は、現在京都の清水坂を拠点とする京焼・清水焼の伝統を重んじながらも前衛的な陶芸による彫刻、陶彫を行う前衛陶芸家集団。1948年八木一夫を中心に山田光、鈴木治ら若手陶芸家により結成。1998年に解散。わたしたちが美術大学に入学した1979年に八木一夫が他界しているが、当時、京都の美術大学では陶芸が一番注目されていて、学生の間で人気が高かった。

著者:

倉沢サトミ(くらさわ・さとみ)

藤浩志と金澤韻が「嶋タケシ」を書くためのユニット名であり、作中、嶋タケシの学生時代の友人として語り部となる、架空の人物。

藤 浩志(ふじ・ひろし)

1960年、鹿児島生まれ。美術家。京都市立芸術大学大学院修了。パプアニューギニア国立芸術学校講師、都市計画事務所、藤浩志企画制作室、十和田市現代美術館館長を経て秋田公立美術大学大学院教授・NPO法人アーツセンターあきた理事長。国内外のアートプロジェクト、展覧会に出品多数。一九九二年藤浩志企画制作室を設立し「地域」に「協力関係・適正技術」を利用した手法でイメージを導き出す表現の探求をはじめる。

金澤 韻(かなざわ・こだま)

1973年、神奈川県生まれ。現代美術キュレーター。上智大学文学部、東京藝術大学大学院美術研究科、英国王立芸術大学院現代美術キュレーティングコース修了。公立美術館に十二年勤務したのち独立。これまで国内外で五十以上の展覧会企画に携わる。

編集協力:

十和田市現代美術館

※ 小説「嶋タケシ」は、十和田市現代美術館にて2019年4月13日(土)〜9月1日(日)に開催される企画展「ウソから出た、まこと」の、プロジェクトの一つです。約4万5千字のテキストのうち、約3万9千字を7回に分けてインターネット上で無料公開します。最後の部分は展覧会場、および後日出版される書籍にてお読みいただけます。

*追記(2019年4月12日):小説をより多くのみなさまにお楽しみいただくため、全体を公開することにしました。十和田市現代美術館では、小説に登場する作品や当時の貴重な資料、映像を展示し、小説の世界をより深くお楽しみいただけるようになっておりますので、どうぞ会場へも足をお運びください。

展覧会ウェブサイト:

http://towadaartcenter.com/exhibitions/chiiki-community-art/