嶋タケシ 【第五回】

Arts Towada
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16 min readMar 30, 2019

* この物語はフィクションです。

それからまもなくのこと、後輩のマモルが「嶋さん、ポケットにトリスの瓶、持ち歩いてます」とわたしに教えてくれた。

「ずっと飲んでます。朝起きたらまず飲まないと手の震えが止まらないらしいです」

最終公演の時以来タケシには一度も会っていない。さすがに心配になって、わたしはコウタとレイイチに相談した。

「あいつ半年ほど前からハンス・ベルメール[1]の球体関節人形にはまって、画集買ってたんや」とレイイチが言った。

「デッサン室にこもって女性ヌードばっかり描いてたな」とコウタも言った。

「ベルメールの描いているんは両性具有やからな」

「真面目にベルメールになろうとしてるんとちゃう?」

「あいつマネキン人形もらってきとったのも、なんか関係あるんやろな」

コウタはこの時、「自分でどうにかするしかないやろ」と、冷たかった(コウタは確かに、自分が抱えていた重い悩みを、自分でなんとかしてきたのだ。だからこの意見ももっともだった)。

レイイチは、さすがに心配だからタケシを訪ねようと言ってくれた。仲が良かったレイイチとも、タケシはしばらく前からほとんど話をしなくなったらしい。わたしも行こうかと聞いたが、彼がまず行ってみるからと言うので任せることにした。

あとでレイイチに聞いたところによると、タケシの部屋には両足が関節のところで切断された裸のマネキンがあって、左右の脚が部屋の隅に転がっていたという。マネキンには化粧が施されていて結構リアルだったらしい。タケシは酒のにおいをプンプンさせながら、レイイチを部屋に通したそうだ。

「アルコール依存症の一歩手前やと思う」、レイイチが言った。

「やっぱりベルメールを追っかけてたわ。なんか自分の内面に向かい合わなあかんと思って、けど、いろいろ常識とか理性とかが邪魔するから、それを麻痺させようと思って酒を持ち歩き始めたらしい。アホやな」

沸き起こる内面からの感情をもって創作をしようと、女性のヌードを描いたり、マネキンと暮らしたりしてみたり、猟奇的なことをしてみたり、いろいろ試した。さらに、「酒を飲んで〈女〉を描く〈芸術家〉」のイメージを実践してみた。酒を飲んでいると、いい作品ができてるようにも思えたり、天才だと一人で舞い上がったりするけれど、その作品を人に見せる勇気がない。だんだん人としゃべるのも怖くなった、ということだった。

「えええ」

わたしは、わたしの知っているタケシとのギャップにかなり衝撃を受けた。

「まあ、アルコール依存症は人格も変えるからなあ」とレイイチが言った。

「ただ、みんなそういうドロドロした部分は、多かれ少なかれ持ってるんかもな」

「タケシの場合、一人で溜め込んでて、表に出さへんかったわけか」と、コウタが言った。

「作品できてたの?」

「絶対見せてくれへんかった。あいつ自分の性器とか描いてたんとちゃうかな」

「へえ、結構いい作品できたんじゃない?」

「自分の血液とか精液とかでも描いてたらしいで」

「それは見せられないかもね……」

「それで、結局どうなったん?」とコウタが聞いた。

「うん、タケシの好きなかっぱえびせん持っていったら、それ見て『かっぱえびせんかよ!』って舌打ちしながらも食べ始めよってん」

「おお!」

「かっぱえびせん食べながら、泣き始めたんや」

「なんと……」

「なんだか溶けてきたみたいだって、泣きながらかっぱえびせん、無性に食うてた」

「大丈夫だったんだ」

「うん、タケシも今の状況にうんざりしてたみたいや。落ちきってしもて、なんか浮上するきっかけが欲しかったんやと思う」

「あーよかった」

「こんどぼくと校内で展覧会することにして、その作品作ろうってことになった」

「なんて健康的な解決!」

と、わたしは感動して叫んだ。

そのレイイチとタケシの二人展、「現代青年美術展」は、おびただしい数の男性器と女性器の絵や彫刻が並ぶ、かなりバカバカしい展覧会となった。ぜんぶ既存の現代美術作品のパロディだ。展示室の黒板には大きく「われわれは」という文字が書かれていた。

「自分の中のドロドロとアホをさらけ出そうってことで!」と、レイイチが楽しそうに言った。

「ぼくはベルメールにはなれなかった。いい作品はできていたと思う。でも恐怖のようなものに耐えられなかった」と、タケシは言った。

「その時の作品は出してないよね……」、わたしは聞いた。

「作りながらぐちゃぐちゃなってたし、全部捨てた」

「アホやな」、レイイチが言った。

「自分の中から正解を出そうとするから苦しんでたんだと思う」

「おまえは真面目やからな。アホやけど」コウタが言った。

「正解なんてものはなくていいということがわかっただけでもよかったと思う。人間が深いものに出会う時って、閉じた時なんじゃないかな。籠って落ちていないと見えないものもある」

「で、何か見えた?」、わたしは聞いてみた。

「自分の中には何もないんだってことを自覚したら楽になった。バカバカしくなった。アートっぽいものを求めてもアートっぽいものしかできない。限界を知っただけでもよかった。なんでもよかったんだ」とタケシが言った。

「エロが見えたわけや。人間つきつめるとエロしかないっちゅうわけや」とレイイチが茶化した。

わたしは、「ついていけないわ」と呆れ半分で言った。

レイイチはこれ以降、まじめな好青年からエロ表現のリーダーへと完全にイメージチェンジした。でも相変わらずモテていたのは、人徳のなせる技だったのだろう。

その後、まだ就職する気になれなかったタケシとわたしは大学院への進学を決意し、いっぽうでコウタとレイイチは早々と一流企業から内定をもらってきた。毎日、劇団の練習場や喫茶店で密度の高い時間を過ごしたわたしたちだったが、別々の道を歩んでいくことに、不思議と何の寂しさも感じなかった。自分のことで忙しかったということなのかもしれない。それに前に進もうとしている友達の手を、いつまでも握っているわけにもいかない。

四、鴨川泳ぐこいのぼり

重苦しい時代の後に、みなが解放を求めていた。美術の世界では、ちょうど、もの派によってもたらされた失語症の後に、カラフルでおしゃべりな表現が花開こうとしていた。ニューヨークのアートシーンではニューペインテイングのうねりがおこっていた。ひと昔前のように、芸術家たちが徒党を組むようなことはなく、一人一人が自由を求めて制度の束縛から逃れようと動き始めていた。

1983年の春、わたしは大学院に入学した。ある日、気分一新、たまにはと嵐山の散策に出かけた。特にどこにゆくあてもなかったけど、タケシが嵐山にある岩田山の猿のことを熱く語っていたのを思い出して、渡月橋をわたりかけた。すると渡月橋の真ん中、どこかで見たような二人が揉み合っていた。わたしたちと同級生の山本アキオと、タケシだ。同じように大学院に入っていた。アキオは油画専攻でありながら、日本的な焼き杉材や和紙を素材にして平面作品を作っていた。

わたしは最初、二人が喧嘩しているのかと思って慌てて近づいていった。しかし実際はアキオが興奮を全身で表現しながら、何事かをタケシに語りかけていたのだった。

「そうや! 京都から日本を変えるんや! 三条鴨川は歌舞伎の発祥地や[2]、河原から文化は発生したんやで! 嶋くん、やろうや! 社会彫刻や!」

「社会彫刻!?」

「ボイスや、ボイス、ヨーゼフ・ボイスや。画廊とかに収まっていてはいかんのや。社会に出なあかんのや」

アキオは大学三回生のとき自治会長をしていたので、彼の演説は聞き慣れている。彼の話す言葉にはいつも説得力があった。学生にしては珍しく当時の流行りのセリカGTに乗っていて、大学内では目立った存在だ。

「おう、倉沢さん!」

なんで橋の上? と思って聞いてみると、アキオが美術雑誌で特集されたボイスに感化され、たまたま桂川の渡月橋を車で渡った時、鴨川の三条河原で展覧会を行うことを思いつき、川を眺めてるところに、タケシが通りかかったのだそうだ。何かの導きだと思って、興奮してタケシに説明していたらしい。

アキオはおもむろに一冊の美術雑誌をカバンから取り出した。発売されたばかりの美術手帖、ヨーゼフ・ボイス[3]特集号だった。

「知ってる?」とタケシは聞いてきた。

「知らない」

「ぼくも知らない」

アキオは熱く語り出した。

「芸術は画廊や美術館の中だけで行われるもんやないんや、社会を変革してゆく力があるんや」

わたしもまだボイスを知らなかった。わたしはその雑誌を手にとってパラパラとめくった。昨年、ドイツ、カッセル市のドクメンタという大規模な展覧会で行われた、市内の緑化運動につながるプロジェクト《七千本の樫の木》の紹介を中心に、これまでボイスが行ってきたパフォーマンスなどが紹介されていた。

「みんな誰でも、ものごとの本質を形にしていける、それが芸術やし、そうやって社会を作っていくべきやと言うてる」

わたしは、以前タケシが雨の屋上で孤独に発した、「日常に非日常の空間を作るにはどうすればいいのか」という問いかけを思い出していた。閉じられた場所ではなく、みんなが生きて、生活している場所で、芸術をやること。ボイスはすでにそれを試みていた。

わたしの思考を読んだのかわからないが、「そう、そうなんだよ、それなんだ…」とつぶやいたタケシの声は、心なしか震えていた。

「たまたま渡月橋にぼくらが集まったのは運命や! 三条鴨川の河原で大規模な展覧会をやる!」

アキオの勢いに巻き込まれて、わたしとタケシはアキオの計画を手伝うことになった。

「京都から文化をつくるんや!」

いつもはあまり語らず、ニコニコと人の話を聞いているだけのタケシだが、たまに真剣な顔をして自分の考えを整理しようと、独り話し出す時がある。渡月橋での邂逅の数日後、本格的に三条鴨川河川敷での野外展覧会プロジェクトで動き始めた彼が、わたしを相手に話し始めた。

「グループワークとか、カルマで、みんなで舞台作ってきたよね。ある空間の中で魔法のような世界を作り出す、あの成功体験はすごかった。でも、ぼくその後、作品ってなんだろうって、ずっと思ってたんだ。作品を創って人に見せるって何なんだろう? 籠っていた時は、作品は見せなくてもいいんじゃないか? って思った。作ることが大切で見せることを問題にしたら作れないと思った。でも見せることを拒否し続けると、今度は自分の存在がなくなってしまう」

「消えてしまうこともあるよね。タケシも一時消えかけてた」

タケシは言葉を探しているようだったが、それには答えず、

「社会を彫刻するってどういう感覚なのかな?」と聞いてきた。

「ぼくは分業で、数年間かけてつくる大島紬という伝統工芸とか、仏像や天井画への興味からこの世界に入っているでしょ。芸術と生活とが密接に関わっていることは当たり前のことだし、社会を変革してゆくことも、あたりまえのことなんだ。演劇を経由して個人の作品を作ろうと思った時に、外に出れなくなってしまった。でもいまは河原で何かをしようとしている。この活動の先に何かやれることが見つかるような気がするんだ。演劇みたいに、クローズな空間でいくら面白いことやったって、観客の数は知れてる。一般の人が通るところに展示して、街に仕掛けるんだ。どうなるかわからない。やってみなければわからないことをやる」

自治会長だっただけあって、アキオはどんどん周辺を巻き込んで行った。構想設計専攻で、学年で一番論理派だった同級生の高山サトシや、後輩で彫刻専攻の山下タカコも事務局を手伝ってくれることになった。タケシが去年から無償で借りている家がミーティングの場所になり、そこが居心地いいので、みんながそこに溜まり始めた。わたしも暇ができるとそこに立ち寄った。

屋外での展示について、はじめはほとんどの参加者が「いいね!」と賛同したが、実際に展示の細部を詰めると、雨に濡れたら困るとか、風で飛びそうだとか、倒れたりして怪我とかさせたら大変だとか、いろいろな心配が出てきて、結局タケシ以外はギャラリーなど屋内での展示を希望した。最初の主旨とは違うけれど、みんなで作る展覧会は面白かったので、それはそれでいいかと、事務局のわたしたちは話した。交渉上手なアキオが鴨川のすぐ近くにできた若者向けの商業ビルや、その中の貸しギャラリー、ライブハウスなど、この企画に協力してくれるところを次から次へと開拓していった。

問題はタイトルだった。これが普通の展覧会でないことはわかっているけど、なんと呼んでいいのかわからない。今だったら、アートプロジェクトやアートフェスティバルという呼び名がすんなり付けられるかもしれない。でも当時、そういう概念はまだ一般的になっていなかった。わたしたちは、わたしたちがやろうとしていることは何なのかを、長い時間をかけて議論した。

「わたしたちは何を求めてこれをやるのかな」

「伝統で縛られた京都を変えるんや、アートの世界を広げるんや」とアキオが答えた。

「ぼ、ぼくにはわからない。なんだろう?」

タケシが言った。

「わたしたちはどうなりたいんでしょうか? 有名になりたいわけではないし、作品を売りたいわけでもないですよね」

タカコが問いを重ねた。

「社会変革、革命やないか!」

「こんなことで革命にはならないよね。でも何かの影響を与えることはできるかも」、わたしはすこし考えて言った。

「ぼくらは動きたいのだと思う。小さな世界で籠もるのではなくて、もっと動きたいんじゃないかな」

タケシが続けた。

「ブラウン運動なんとちゃうかな」

サトシが思いついたようにそう発言した。

「何? ブラウン運動って?」

「粒子とかの不規則な動きのこと」

「サトシはなんでも知っとるね」

「じっとしてるんじゃなくて、活発に動いているってこと?」

「みんなが同調せずに、バラバラに動いているというのが大事ってことですかね」タカコが言った。

「最初は河原でやろうということやったけど、結局いろんなところで同時にやるんやろ。ネットワークなんちゃうか?」

サトシはいつも、冷静に諭すように話す。

「普通の展覧会と何が違うかを、明確に文章化したほうがええんちゃうかな」

「団体もいややし、公募展でもないし」

「ネットワークやないかな?」

日本国内でインターネット接続サービスが始まる十年以上前、携帯電話が普及する二十年以上前の話だ。ネットワークという言葉は、新鮮に聞こえた。

「相互作用を求めとるんちゃうやろか」

「一つの価値観に収まるんやなくて、一人一人の違う価値観がネットワークを持ちながら、相互作用を与え合う関係のあり方を提示できればええんちゃうかな」

「アートネットワーク?」

「そや、それや、アートネットワークや!」

アキオのこの声で、タイトルが決定した。

つづく

[1] ハンスベルメール(1902–1975)はドイツの画家、写真家、デザイナーであり、関節人形の作家でもある。ナチス政権に反発し社会貢献としての職業を放棄、フリーのアーティストとして仕事をし、シュールレアリズムの作家としてパリで評価を得る。日本においては1965年に澁澤龍彦が紹介した。タケシは、1980年代初頭、自身が古本屋で買い集めていた60年代〜70年代の書籍で、天井桟敷の寺山修司や状況劇場の活動を読み漁るうち、澁澤龍彦や四谷シモンを経由してベルメールにたどり着いたらしい。

[2]鴨川にかかる三条大橋は、1601年、徳川家康によって定められた東海道五十三次の西の起点でもあるため、京都の入り口となっている。その鴨川流域は江戸においては友禅流し、歌舞伎おどり、納涼床など文化の発祥の地と言われているが、同時に公開死刑場としても知られていた。石川五右衛門が釜茹での刑に処された(1594)のをはじめとし、豊臣秀次(1595)、石田三成(1600)、近藤勇(1868)などの首が晒された場所でもある。

[3] ヨーゼフ・ボイス(1921–1986)1982年のドクメンタ7で出品した「七千本の樫の木プロジェクト」は、樫の木の苗木をカッセル市内に植樹するというプロジェクトだった。日本の美術雑誌でも1983年四月に特集記事が組まれ、当時の日本の若い作家に大きな影響を与えた。ボイスは1984年に展覧会のために来日し、草月ホールでナムジュン・パイクとパフォーマンスを行った。タケシはそのパフォーマンスを目撃するため上京していた。ただ、当時は熱烈なファンというわけでもなく、マイクを使った意味不明なパフォーマンスには何か共感するものを感じたものの、その意味を深く理解しようとはしていなかったようだ。しかしその時、タケシはちゃっかりと当時使っていたノートの表紙にサインをもらっている。

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著者:

倉沢サトミ(くらさわ・さとみ)

藤浩志と金澤韻が「嶋タケシ」を書くためのユニット名であり、作中、嶋タケシの学生時代の友人として語り部となる、架空の人物。

藤 浩志(ふじ・ひろし)

1960年、鹿児島生まれ。美術家。京都市立芸術大学大学院修了。パプアニューギニア国立芸術学校講師、都市計画事務所、藤浩志企画制作室、十和田市現代美術館館長を経て秋田公立美術大学大学院教授・NPO法人アーツセンターあきた理事長。国内外のアートプロジェクト、展覧会に出品多数。一九九二年藤浩志企画制作室を設立し「地域」に「協力関係・適正技術」を利用した手法でイメージを導き出す表現の探求をはじめる。

金澤 韻(かなざわ・こだま)

1973年、神奈川県生まれ。現代美術キュレーター。上智大学文学部卒、東京藝術大学大学院、英国王立芸術大学院(RCA)修了。公立美術館に十二年勤務したのち独立。これまで国内外で五十以上の展覧会企画に携わる。

編集協力:

十和田市現代美術館

※ 小説「嶋タケシ」は、十和田市現代美術館にて2019年4月13日(土)〜9月1日(日)に開催される企画展「ウソから出た、まこと」の、プロジェクトの一つです。約4万5千字のテキストのうち、約3万9千字を7回に分けてインターネット上で無料公開します。最後の部分は展覧会場、および後日出版される書籍にてお読みいただけます。

*追記(2019年4月12日):小説をより多くのみなさまにお楽しみいただくため、全体を公開することにしました。十和田市現代美術館では、小説に登場する作品や当時の貴重な資料、映像を展示し、小説の世界をより深くお楽しみいただけるようになっておりますので、どうぞ会場へも足をお運びください。

展覧会ウェブサイト:

http://towadaartcenter.com/exhibitions/chiiki-community-art/

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