非日常的日常

旅に出る理由のひとつは、日常の煩わしさから逃れるためだ。だけどそれは、わざわざ別の煩わしさを手に入れることを意味する。

たいていの旅行は煩わしい。たとえばそれは事前の準備だったり、旅先での慣習のちがいだったり、旅の道連れである友人や恋人との心理的な摩擦だったりする。

それでも、どこかに出掛けていくことを厭わない人がいるからこそ、旅行という存在があるのだろう。

旅行には、人を惹き付ける特別な煩わしさがあるのかもしれない。今回は、旅と煩わしさについて書いてみたいなと思う。

本当の煩わしさが崩壊したとき

旅することが目的ならば、その旅において損だとか、無意味だとかは存在しえない。朝起きてから寝るまでのすべての瞬間にレンズを向けたいくらい感情が高ぶっているはずなのだから。

旅先での瞬間の連続が日常になればいい、と思ったりもする。でも仮にそうなったら、また煩わしさに囚われてしまうんじゃないかと余計な心配をしてしまう。非日常性が消えていくことの恐さ、である。

そのとき、煩わしさとは、僕と場所そのもの、僕と生活そのものの関係に起因するものではないことに気づく。経過する時間と僕との関係に起因しているのだ。どんな場所も生活も実は変わりはしない。時を経て、非日常性が失われていくだけだ。

そんなことに気づくと、旅を終えても、なんだか今の日常をより楽しく生きていけそうな気がしてくる。

すべては過ぎゆく時間のせいなのだ。

僕の日常は、誰かの旅先であり続けるし、さらに言えば、僕の日常は、僕にとっても懐かしい旅先の風景だったはずに違いない。

すべては過ぎゆく時間のせいなのだ。

そう思えたとき、本当の意味で“煩わしさ”から解放されるのかもしれない。

そんなちっぽけなことに気づくために、僕は旅にでたらしいのだ。

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