カミロ・ジッテ City Planning According to Artistic Principles (1898) 邦題『広場の造形』
19世紀末の近代化で年は無機質なものとなっていき、増大する交通を効率的にさばくといったことを目的とする機能主義のデザインが進んだ。この時代に現れた都市計画は、工学的なアプローチが支配的であった。
未来志向の時代において、ウィーンの建築家・都市計画家のカミロ・ジッテは、過去に目を向けることを説いた。アートアンドクラフトの伝統からの流れを受け、ジッテは建築におけるヒューマンスケールが、近代の建築と都市デザインにおいて欠けていることを嘆いた。100年を経た後の我々が聞いても、ジッテの嘆きは共感を覚えるものだ。
1898年のCity Planning According to Artistic Principles(邦題『広場の造形』大石敏雄訳 <SD選書175>)において、ジッテは都市建設における「芸術的ルネッサンス」を求め、芸術性と機能性のバランスについて論じた。ジッテは近代都市計画が衛生条件を改善するものだと認める一方、かつての都市のように人々にとって魅力的な公共空間を新たに生み出せていない都市計画の専門的能力の欠如を厳しく批判した。また、美しくヒューマンスケールである工業化以前のヨーロッパ都市を称賛し、実証的な観察と図と地による比較分析を行った。そして、過去のよい公共空間の本質的な特性を取り入れることを勧めた。
ジッテの考えはすぐにヨーロッパ中の多くの都市計画関係者に広まり、影響を与えたが、1920年代にその理論はル・コルビジェらモダニスト建築家から強い反発を受ける。1965年にジッテの論文は再出版され、人間的な志向の建築家と都市計画家によって再発見された。その思想は現在のニュー・アーバニズムの動きに影響を与えることになる。
その他のジッテの論考はCamillo Sitte: The Birth of Modern City Planning (2006)として再出版されている。