プロトタイピングの射程

Mario Kazumichi Sakata
UX Tokyo
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4 min readApr 3, 2015

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繰り返されるディスコース

はじめに

本記事はプロトタイプにおけるディスコースを国内で活性化させるために、当方個人の見解を古今東西の文献を参考にまとめたものです。

また、主題となっている「プロトタイピングの射程」は BEENOS の山本 郁也氏と主宰しているデザイナーのための言論空間「Design dot」で前回取り上げた題材です。

本記事の内容に共感いただけた方はぜひ次回イベントでお会いしましょう。

プロトタイピングの由来「ブリコラージュ」

1世紀以上も前に人類学者であったクロード・ルビィ・ストロースが提唱した「Bricolage(ブリコラージュ)」がプロトタイプの由来となったという説があります。ストロースは当時の研究開発分野における社会との接点を遮断したクローズな状況下で不特定多数の利用者に対して研究を行うメソドロジーを問題視し、エンジニアリングのオープン化を進めることで視野の狭さを訴えました。ストロースは、オープン・イノベーション的な位置付けで特定のユーザーの関与を目指し、変化や改善を促す文化づくりの実現に向けて、理論や設計に基いてつくるエンジニアリングとは対象的なアプローチで、その場で手に入れるものからつくり、最終的に新しいものをつくる方法論を定めました。

ストロースは自身の著書「野生の思考」で従来の設計思想を「栽培された思考」と命名し、本人が提唱したブリコラージュは人類が古くから持っていた知のあり方であると述べ、ものづくりにおける発想はすべて概念の寄せ集めであるという設計思想から「野生の思考」論を謡いました。加えて、ブリコラージュの設計思想に基づき、適応力に長け、求められる変化に柔軟に対応していく人を「Bricoleur(ブリコルーア)」と命名し、プロトタイプの基盤を築いてきたと言われています(諸説あります)。

「栽培された思考」からの脱却

しかしながら、プロトタイピングの現代的な解釈は当時の「栽培された思考」に回帰してしまっているように思えます。安易につくれることに楽しみを覚え、アイディアの発散を主体とした内部完結型に着地してしまっている気がしてなりません。「プロトタイピングをしよう」と本来の価値を取り乱す導入が進むことで、まるで「紙芝居をしよう」のようにそれ自体が意味を成さないメッセージを良く目にします。

これは、副題である「繰り返されるディスコース」の通り、数十年前にストロースと当時の学者間で行われていたディベートへの原点回帰なのです。

  • 発散のみで特定ユーザーからの関与が見られない
  • 変化や改善領域が限られている

プロトタイプは「共創」のためのツールであることに共感できますが、共創には軸が本来であればふたつあります。ひとつは内部との共創(プロジェクト関係者、意思決定者)であり、もうひとつは外部との共創(利用者予備軍、コア利用者)です。前者との発散が主となり、後者が軽視されてしまっていては、プロトタイプの本来の価値を見失ってしまいます(=ブリコラージュの設計思想)。

加えて、いわゆるプロトタイピング・ツールの対象が大きかろうと小さかろうと画面に限定されてしまっているが故に、サービス提供における視野が狭まってしまい、変化や改善を促すもその対象領域が同じく画面に限定されてしまう傾向にあります。プロトタイプは何も画面だけに留める必要はないのではないでしょうか。「Creative Confidence」で著者である IDEO のトム・ケリーとデイビッド・ケリーは最後の一文をこのように締めくくっています。IDEO もまた、「発想する会社!」で提唱している身の回りにあるオブジェクトからつくりだす自身のプロトタイプ手法は、ブリコラージュの影響を受けていると考えられます。

Think of today as a prototype. What would you change?

今向かうべきは「栽培された思考」ではなく「野生の思考」なのです。

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Mario Kazumichi Sakata
UX Tokyo

Staff UX Designer based in Tokyo. Born in Brazil, raised in US. Father of two.