上書き的な多重化の寓意

アルキメデスのパリンプセスト

--

ヨーロッパでは「パリンプセスト」と表現するわけだね。上書きにより痕跡を残しながら二重化、多重化していくプロセスの寓意として。

The Archimedes Palimpsest(アルキメデスのパリンプセスト)

紀元前3世紀のアルキメデスの論証はみな手紙として同時代人に向けて書かれていたが、6世紀にビザンチン帝国の数学者でハギア・ソフィアの建築家として知られるミレトスのイシドルス(Isidore of Miletus)によって編纂された。10cにつくられたその羊皮紙書写本がエルサレムに流れ(どうも1204年の十字軍によるコンスタンティノープル略奪の時らしい)、他の書写本とともに解かれ、文字を洗い落とされ、1ページを2つに折りたたんたうえで別のテキストが書き込まれて、キリスト教の典礼のための本になった。

多くのパリンプセストで古い文字列と新しいそれが直交するのはこのためである。また本のサイズも半分になる。古い文字は完全には消しきれないが、肉眼には見えにくいものが多いようだ。

さて、アルキメデスのパリンプセストはその後も数奇な運命をたどる。時期不詳だがエルサレムのギリシア正教会からコンスタンチノープルの同会図書館に戻されていたこの書写本は、1840年代にギリシア数学に興味をもつ聖書学者によって発見される。1906年にはアルキメデス研究の世界的権威、デンマーク人哲学者・歴史家ヨハン・ハイベルグ(Johan Ludvig Heiberg, 1854-1928)がこのパリンプセストにアルキメデスが含まれることを見出し、それを書き起こして1910-15年に出版。

しかし書写本それ自体は希土戦争(1919-22のギリシア-トルコ間戦争)の混乱のうちに失われ、のちにオリエントとのビジネスに携わるパリ在住商人が保有していることが判明。彼の保管中に水分やカビで傷み、価値を高めようと金箔が貼られたりしたため損傷が重なる。第二次世界大戦後に転売され、90年代末にアメリカのハイテック企業経営者の手にわたるが、1999-2008年にボルチモアのウォルターズ美術館でイメージング研究が行われ、現在ではその成果がクリエイティブ・コモンズとして公開されるに至っている。

http://www.archimedespalimpsest.net

上記の例にもあるように、近代の売買、偽造、あるいは判読を急いで化学的な処置をしたために生じた損傷などがかなり致命的な結果をもたらす例が多いらしい。近年ではX線やデジタル・イメージング技術によって解読と公開が進められている。古代文献のなかにはパリンプセストとしてしか残されていないものもあり、技術革新により発見されるものも多い。

重要なのは、中世の再利用がおこる時点で、古代の文字列は消され、あるいは消したものとされ、意識下に沈み、物質としてのみ現在へと運搬されてきたということだ。つまり時間と空間のなかを運搬されたのは、運び手の意識のなかにあった書物であるが、同時に、彼の知らなかった物質化したテキストだった。

建築や都市においても、古代は物質として中世に編み込まれる。ルネサンス期(近年の歴史学では中世末期ってことになるんだな)はその中世を組織の内に残しながら知覚形式上の再秩序化をはかっていくのだと思う。しかしバロック期以降(つまり近世)は、空間ー組織の一望化と標準化が都市を変えていく。こういう大づかみなパースペクティブでいえば、17-18世紀くらいからデュラン(Jean-Nicolas-Louis Durand, 1760-1834)とガデ(Julien Guadet, 1834-1908)をへて、CIAM全盛の20世紀中葉までをひとつの時代とみることもあながち不可能ではない。

1960年代から見直されていくのが、一望化以前、つまり古代を物質化して肉をつくった中世と、そこに知覚形式の問題を持ち込んで肉と二重化したルネサンスあたりがとりわけ関心の対象となっていくのもまた当然といえるかもしれない。

こういった関心の寓意として「パリンプセスト」の語が使われる。「建築的パリンプセスト architectural palimpsest」でググってみれば無数のサイトとフォトブック的なものが見つかる。逆に、たとえば「ローマは都市のパリンプセストだというのは実は半分は先入観だ。この都市は水害とともに動いてきたのである」などというようにも用いられる。

--

--

青井 哲人 AOI, Akihito
VESTIGIAL TAILS/TALES: aoi's journal

あおい・あきひと/建築史・建築論。明治大学教授。単著『彰化一九〇六』『植民地神社と帝国日本』。共編著『津波のあいだ、生きられた村』『明治神宮以前・以後』『福島アトラス』『近代日本の空間編成史』『モダニスト再考』『シェアの思想』『SD 2013』『世界住居誌』『アジア都市建築史』ほか