映画『軍中楽園』(2014) ── 金門島の慰安所を舞台とした幾重もの喪失の物語、かな。

鈕承澤(ニウ・チェンザー)監督、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)編集協力。渋谷ユーロスペースにて。

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主題は中華民國國防部が金門島に設立した慰安所(1952〜1990年)である。軍ではこれを「特約茶室」と呼び、「八三一部隊」が管轄した。

時は1969年。主人公の青年は兵役で金門に送られ、精鋭部隊の訓練についてゆけず、「八三一」所属となる。台湾海峡に浮かぶ、といってもほとんど厦門に接する位置にある金門島は、徴兵される若者たちにとってできるなら最も避けたい過酷な「前線」だった。それゆえにまた「特約」も設けられたのだろう。この映画は、簡単にいえば従来タブーだった国民党軍の慰安所を舞台に、女性たちのたくましさや兵士たちの成長といった人間ドラマを描いている。映像もよいし、ドラマも楽しめる。しかし、色々な面で国民党サイド、外省人サイドから撮られた作品ではある。これは台湾人ならすぐに分かることだし、それゆえに批判も少なくない。ただ、この映画の特質と日本人の無知が合わさると、いくぶん偏った、美的な受容だけが残ることになりそうな気がする。

要するに僕らには、映画のプロットが主にどのような構図に依っているのかを判断するのに少し予備知識が要る。そんなの面倒だと言ってはまずい。日本も歴史に深く関わっているのだから。さいわい僕の場合、細かな部分は妻が教えてくれる。僕の解釈と彼女の感想・想起とをぶつけ合うと、色々と見えてくる。それを踏まえ、ひとつの読解をノートしておきたい。

以下、ちょっと長いし、ネタバレになるので、ご注意あれ。

物語の中心にいるのは4人。軍隊=男性側では (a) 新米兵士の主人公シャオパオ(小宝)と (b) ベテラン士官長のラオチャン(老張)。そして特約=女性側では (c) 知性と陰影を感じさせるニーニー(妮妮)と (d) 愛想よく可愛らしいアジャオ(阿嬌)だ。他の人々は、かなり明瞭な階層関係をなして、厚みのある群像をなし、この4人の配置に説得力を与えている。

このうち、(a)主人公シャオパオの本名は「羅保台」である。ニックネームのシャオパオは、下の名前から「保=パオ」をとって、「小保=パオちゃん」といった感じで呼ぶ慣例的なものだが、字幕では「保」と同音の「宝」を使い、「小宝」となっている。中国語で赤ちゃんを普通「宝宝」といい、小宝というニックネームはいかにも世間知らずの、青臭くて幼いやつというニュアンスであり、実際に彼は結婚まで童貞を守ろうとする。しかし、もう一方で注目すべきは本名の「保台」、つまり台湾を防衛せよといった意味の名であって、これは台湾人ならすぐにピンとくる。戦後に大陸から台湾に移ってきたいわゆる「外省人」が、中華民国の国是にちなんで命名した数々の政治色濃厚な名前の典型例なのだ。要するに彼は外省人二世であるとみてまず間違いない。二世だから台湾語を解するが、話すのは難しいようだ。また劇中で上官がシャオパオの転属について面接する際、履歴書らしきものを見ながら彼の両親がともに知識層であることを指摘するシーンがある。世間擦れしていない彼の振る舞いには、国民党エリートとみられる両親の保守的な教育方針が透けて見える。他方、最も過酷な精鋭部隊から最も負担の小さな「八三一」に彼が移されたのは、上官が実直なシャオパオを慰安所に置くのを面白がった節もあるが、より客観的には、両親の素性から彼が特別扱いに値することを確認したためだったろう。

(b)ラオチャンの出身地は山東省の農村部。本名の「張永善」は、国民党や共産党の政治色を感じさせない、伝統的(儒教的)な名前だ。ところが彼は少年時代に国民党軍に拉致されるようにして兵士となり、やがて台湾に移り、金門に配置された。若い兵士たちを苛烈な訓練でしごく彼は、じつは引き離された母への追慕の念に苛まれている。教育を受けておらず、文盲であり、軍隊以外の生活を知らない。だから「特約」ではいつも自身の権威を振りかざして順番待ちの若い兵士たちを払い除け、お気に入りの(d)アジャオの部屋へ突進するが、いざ彼女の前に立つとなされるがままに直立するしかない。かつては戦場で名を上げたらしいが、今や身体にも贅肉が目立つようになった。同郷人の上官の結婚に刺激され、自分も家庭を持ちたいと強く願うようになる。

(c)のニーニーもまた外省人だ。30代と思しき彼女は大陸生まれだろう。「特約」の女性たちは、その顔つきや言葉からほとんどが台湾本省人もしくは原住民の女性とみられ、みなガヤガヤとうるさく、たくましいのだが、ニーニーだけは異質だ。涼しげで知的な目。陰影のある表情。ギターを弾いて歌うのは英語曲。1日10人が義務付けられている慰安婦の仕事を、彼女は最初のひとりに自分を独占させることで、身体を守り、時間をつくっている。資産家らしい父から贈られた腕時計をしており、毎日の最初の客に金をわたし、それで1日分のチケットを買わせているらしい。じつは彼女は、暴力から子どもを守るため夫を殺害し、刑務所にいたが、子どものもとに早く戻るため、減刑措置の得られる慰安婦を志願したのである。

(d)のアジャオ(阿嬌)は台湾本省人らしい丸みを帯びた顔立ちをしており、台湾語を話す。その名のとおりいつも愛嬌ある表情を客に振りまいて男を虜にするが、彼女はいつか結婚をし、子どもを持ち、幸せな家庭を営むことを望んでいる。男に貢がせた金や宝飾品などを貯めてはそれを眺めるのを楽しむのだが、その表情はどことなく切なげで、ときおり狂気さえ感じさせる。箱一杯の財貨は結婚資金なのかもしれないが、夢見る未来が実際には訪れはしないことを彼女は知っているのだろう。

この4人はどんな関係を取り結ぶのか。簡潔に示そう。

(d)アジャオは(b)ラオチャンに自分との結婚を仄めかすが、いざ彼が本気で結婚を迫ると、「特約」で寝た男と幸せになれるはずがないと拒絶する(しかし彼女にそれ以外の出会いなどあるのか)。他方、主人公の(a)シャオパオは(c)ニーニーと友情を交わすようになり、やがて異性として惹かれ合うものの、彼女が「特約」を去る直前ふたりが互いを求め合ったときも、シャオパオの幼さは一線を超える寸前に彼女を拒絶してしまう。これらふたつの「接近」と「拒絶」がクライマックスとなる。

(a)✕(c)、(b)✕(d)の接近・拒絶は、男/女、年上/年下を斜めにかけ合わせたような構図を示している。(b)ラオチャンと(c)ニーニーは大陸に故郷があり、前者は母と離別し、女(母性)に拒絶されるが、後者は子と離別し、男(少年性)に拒絶される、といった互換的な対称性も容易に看取される。ここで、もし(a)のシャオパオが本省人なら、本省人/外省人というもうひとつの対もたすき掛けに重なり、全体としては、台湾と中国とが対峙し交差する金門において、出自も経験も異なる4人が男女として交差し相互を照らし合うことになり、歴史と物語が重ね合わされた鮮やかな映画空間を現出させるのではないかと思うが、実際は違う。4人のうち3人が外省人である。理不尽な喪失を背景にもち、それゆえに求めた結合が拒絶される彼らの哀しみが、映画全体の基調的なトーンをなしているように思われた。この哀しみの美化が過剰と思われるシーンも少なくないが、彼らふたりを人間化し、美化する役割が一貫して外省人二世にして童貞の主人公シャオパオに与えられていることも見逃せない。

では、本省人の(d)アジャオについてはどうか。本名や出身地がよく分からないのは(c)ニーニーも同じだが、金門の「特約」へ来た背景が明らかにされず、主人公シャオパオとの関係も希薄であって、客に媚びる笑顔の背後にあるはずの人物像の描写が4人のなかで最も乏しい。そのため、結婚を拒否されて怒り狂ったラオチャンに首を絞められて死ぬ役割、裏を返せば社会を知らぬまま衰えていくラオチャンを女として翻弄する役割だけが際立ってしまっているようにも思えた。

再び話を(a)シャオパオに戻せば、彼は要するにプロットを進行させるために導入されたイノセントな道化である。その彼によって、(b)ラオチャンと(c)ニーニーが人間化され、かつ美的に昇華されようとする。しかし他方では、ラオチャンが思い余って(d)アジャオに結婚を迫ったのは、彼女にその気がないことを知ってしまったシャオパオがそれを正直にラオチャンに伝えずにはおれなかったからであり、またシャオパオ自身が(c)ニーニーを拒絶するのは彼が自身の幼い貞節を裏切れなかったからである。こうしてみてくると、この外省人で真面目な童貞のシャオパオと、本省人で最も男と金にまみれたアジャオのふたりが(ここにも対称性がある)、彼らに共通する一種の無邪気さによって人々を巻き込み、物語を動かし、そうしてふたりの外省人ラオチャンとニーニーの、喪失・拒絶の反復という悲劇を前景化させる、そんなプロットが取られていたことが見えてくる。

そういう描き方が必ずしも悪いわけではない。孤独な外省人を描き出すことは台湾映画のひとつの主題たりうる。ただ、金門の慰安所という(台湾映画史上はじめての)舞台設定に重ねられるべき人間関係の交差としては、偏っている。なぜ、4人の交差が互いを反射しあい、故郷や人生や夢の多数性(分裂)を幾何学的に強めあうようなプロットを取らなかったのだろうか。

台湾には原住民、本省人(ホーロー、ハッカ)、外省人(大陸諸省出身)といった様々な出自の人々がいる。原住民・本省人は日本による植民地支配を経験した人々であり、外省人の台湾移住は国共内戦の結果だが、その背景には日本の帝国主義的中国進出があった。戦後のアジア秩序という点ではアメリカとソビエトの冷戦も関わる。金門はこうした国際的な歴史的諸関係が中華民国と中華人民共和国の対峙となって現れた交点である。

徴兵制による軍隊では上述の多様な人々がその出自と無関係に濃密な共同生活を経験するが、わけても金門ではわずか1.8Km先の厦門、つまり中国軍(中華人民解放軍)と対峙する。ここに台湾中から若者たちが集められたが、訓練が厳しいだけでなく、海峡を挟んで砲弾も飛び交い、軍隊内部でのイジメやリンチも激しかった。さらに、「特約」は金門に展開する複数の部隊の人々が通い、集まる場所である。しかもその閉域で交わる女性たちの背景もまた多様であり、彼女らを取り巻く個別的な事情と戦後台湾の社会構造もそこにかかわるのだろう。

「金門」の「特約」を舞台に映画を撮ったということは、つまり、こうした巨大かつ微細な文脈が一点に交錯する歴史的交点を選んだということであって、この着眼は傑出している。現時点でも、まだこうした場所を捉えた映画を製作・上映すること自体が必ずしも易しいわけでない、という事情は分かる。美的な物語で歴史を包むことも必要だったろう。しかし、ならばその美化の下にどんな関係図式が見据えられているか。そう考えたとき、場所がもつ歴史的構造に対し、物語の構造の非対称性、あるいは横滑りが際立って見えてしまう。

*なお、監督の鈕承澤(ニウ・チェンザー)や、編集協力の侯孝賢(ホウ・シャオシェン)もまた外省人である。これを指摘することは必ずしも本質的ではないしフェアでもないが、台湾では外省人でないと映画さえ撮れなかった時代が長く、この映画のように軍や政治に関係する撮影の便宜が必要な場合はなおさら本省人には困難があるとの指摘はかねてよりなされている。換言すれば、彼らがこうした高度に政治性の絡む問題についての社会的な解釈者の役割を独占しやすい構造があるということを確認する意味で付言した。

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青井 哲人 AOI, Akihito
VESTIGIAL TAILS/TALES: aoi's journal

あおい・あきひと/建築史・建築論。明治大学教授。単著『彰化一九〇六』『植民地神社と帝国日本』。共編著『津波のあいだ、生きられた村』『明治神宮以前・以後』『福島アトラス』『近代日本の空間編成史』『モダニスト再考』『シェアの思想』『SD 2013』『世界住居誌』『アジア都市建築史』ほか