浄瑠璃寺本堂

九体阿弥陀堂の設計論について

浄瑠璃寺本堂は九体阿弥陀堂と呼ばれる、平安末期の浄土信仰流行のなかでつくられた阿弥陀堂の類型のひとつを伝える貴重な遺構。

呼称のとおり九体の阿弥陀像を並列に祀る。「九品往生」といって、極楽往生の仕方は九つの品、つまり等級があると考えられた。上中下の各品をさらに上中下に分けて九品。信仰の篤い者から悪人に至るまでの死に方、ということだ。死を迎えたとき自分がどの品に相当しようとも西方浄土へ。その狂おしい願いが九体阿弥陀堂を生んだのだろう。

境内の東には薬師如来を祀る三重塔がある。薬師がこの世に送り出した人間の命は、死に際して西方から阿弥陀が迎えて極楽浄土へ導かれる。小高い山並みと木立に囲われることでこの境内はひとつの宇宙となるが、それは人の生の時間でもある。始点と終点の定まった明確に限られた時間。その始点は一体の薬師であり、終点は九体の阿弥陀像のうちひとまわりもふたまわりも大きい中央の阿弥陀像である。この像だけが手の指を「往生印」と呼ばれるかたちに結んでいる。同時に、極楽への門戸を広げるかのように、阿弥陀は指を定印に結ぶ小さな分身を生んで九体となる。

さて堂の中央は方14尺の正方形平面。四面の庇は8尺。ここで、小さな八体の阿弥陀像に対応する柱間を頭の中で消してしまえば、左右の庇がすーっと中央に寄ってきて、方形屋根の一間四面堂となる。

身舎と庇の寸法比は14:8。側面については8:7:7:8の柱割りとなり、身舎の方が柱間が狭いややイレギュラーな計画である。他方、正面と背面には中軸上に開口が必要だから、8:14:8の3間で、一間四面堂なら中央の比重が大きすぎて間の抜けた立面になりそうだ(このあたりが法界寺阿弥陀堂での割り切った新しい解き方の発明につながるのではないかと想像するが、これはまた別途書き留めることにしたい)。

他方で、他の八体の桁行方向(間口方向)の柱間は6.5尺だから、これは庇寸法より明瞭に小さい。九間四面堂というのは例外的に間口方向の長い建物だから、もし庇の柱間を小さくすると正面両端にそれが現れて、全体が等質グリッドのように延伸して端部もだらしなく流れてしまう弛緩した雰囲気になってしまっただろう。そんなことを考えると、庇を他の柱間よりも大きく構えて正面両端を押さえていることは、中央の阿弥陀とその柱間を格段に大きくしたことと合わせて、なるほどと頷ける。中央の阿弥陀像が境内全体の東西軸を受ける、つまり本堂は強いシンメトリーの軸が突き刺ささるような建物なのだから、等質グリッドの無限反復をたまたま断ち落としただけのような状態では困る。

あるいはこうも言えるだろう。つまり、九体阿弥陀堂などというのは設計者にとってはいわば応用問題であって、まず一間四面堂というフォーマットが先行し、他の八体の仏像に対応する柱間はすべて、いわばアコーディオンのように引き伸ばされた、派生的な部分なのではないか。その寸法が小さいのは示唆的と言えなくもない。

いま「派生的な」と言った柱間は6.5尺だが、不思議なことに中央14尺の左右に隣接する柱間だけは7.25尺という数字を取る。なぜだろう。住職に尋ねてみたが理由は定かではない。ただ、急激な寸法の落差が生まれる位置で、それをわずかに和らげる効果はあるだろう。7.25尺は、14尺に対し辛うじて1/2にはならない数字だ。

20221011〜15に実施した古建築実習は3年ぶりの関西旅行となった。浄瑠璃寺も3年ぶり。今年は日本建築史に広く深く精通する4年生の小野くんがいつも寸法読解を披露してくれたので今までとは違う学びがたくさんあった。ここに書いたのは、小野くんが「寸法計画的には一間四面堂が概念的に先行するということだと思いますよ」と読解してくれたのを、多少自分なりに言葉を補って書き留めた備忘録。■

浄瑠璃寺本堂(2009.10.16 筆者撮影)

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青井 哲人 AOI, Akihito
VESTIGIAL TAILS/TALES: aoi's journal

あおい・あきひと/建築史・建築論。明治大学教授。単著『彰化一九〇六』『植民地神社と帝国日本』。共編著『津波のあいだ、生きられた村』『明治神宮以前・以後』『福島アトラス』『近代日本の空間編成史』『モダニスト再考』『シェアの思想』『SD 2013』『世界住居誌』『アジア都市建築史』ほか