『アメリカ大都市の死と生』

ジェイン・ジェイコブズ著, 山形浩生訳, 鹿島出版会, 2010年

ボストン市の様子, https://pixabay.com/
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1,要約

1961年、当時廃れ、見捨てられつつあったアメリカの都市部に対する処方箋として、実際に都市の住人であった著者が緻密な観察を基に「都市とは何か」を鮮やかに描き出す。

4部構成で成り立ち、第1部では都市の人々のふるまいを、著者の具体的な観察を基に描き出す。それぞれのふるまいが意味することから、都市にはどういった原理が働いているのかを見出そうとする。

都市を構成する歩道や近隣公園、都市近隣について論じているが、特に歩道は「都市の重要な公共の場所であり、そのもっとも重要な器官」として3章を割き、その重要性が強調される。歩道の利用者たちは、都市への能動的な参加者であり、自然の店番ともいうべき人目となり、治安維持に寄与する。彼らは趣味嗜好・目的・職業上の利害などが異なるため、街路の監視をあらゆる時間、角度からさりげなく行うことができる。また同様の理由により、自分の基本的プライバシーを守るという人々の決意と、周囲の人々から様々なレベルの交流や楽しみや助けを得たいという願いとで、驚くほどのバランスを実現する。そうして人々の監視の目と交流が存在する街路は、子供たちにとっても健全な遊び場となる。

既存の都市計画者、とりわけ田園都市を奉じる人々が作る計画は、こうした「活気ある都市」をことごとく破壊する。なぜなら、ハワードの田園都市計画は、人が集まり過ぎている都市を悪と見做し、衰退しつつあった田舎に人を移住させ、町として再建しなおすことを目的としているからだ。この後都市計画論は、田園都市計画の流れを汲んだスタインやコルビジェへと引き継がれていくが、いずれも都市の現状を「是正」しようとする点は共通している。その結果、活気ある都市のいくつかは破壊され、衰退の一途を辿っている。

第2部では、第1部での観察の結果明らかになった都市の「普遍的に登場し、実に多様できわめて複雑に異なる形で現れる」4つの原理に着目する。具体的には、①その地区や、内部のできるだけ多くの部分が、2つ以上の主要機能を果たさなくてはならないほとんどの街区は短く、街路や角を曲がる機会が頻繁にある必要がある。 地区は、古さや条件が異なる各種の建物を混在させなければならない十分な密度で人がいなければならない の4つだ。これら全てが組み合わさることで、都市の多様性が生まれると著者は主張する。

第1部で観察された活気ある都市の街路を生み出すには、人々が違った時間帯に同じ場所を通らなければならない。それを端的に示すのが①だ。顧客となりうる人々が一日中その地区に存在することで、各種商業は成り立つ。例えばその地区がオフィス街だった場合、通勤・昼食時・退勤時のみに人の波があるだけで、商業も彼ら向けに特化したものしか存在し得ない。しかし、住宅用途と業務用途が混在していれば、それだけの客層に応じた商業施設が存在しうる。結果として、それが常に人がいる状態=活気ある都市を生む。

また、多様な人々が同じ地区に滞在する工夫が②だ。曲がり角が多いほど、すなわち街路が短いほど人々が選べる道は増え、人がいない真空地帯が発生するリスクが減る。①と併せると、地区は用途の流動性と経路の混ざり合いによって、都市の近隣を多様な都市用途に導くことができるのである。

さらに、古くて賃料が安い建物の必要性を説くのが③だ。新築ばかり、あるいは築年数が同じ建物ばかりが建ち並ぶ地域――ニュータウンなど――をしばしば見かけるが、そうした場合新築の高い費用を負担できる人々だけが生活できる地区になる。新築ばかりの地区は必然的に、職種や年齢層が似たり寄ったりな人が集まることになり、多様性に乏しい都市となってしまう。裏を返せば、新築とそうでない建物が混在している地区であれば、人種や職種、所得が多様な人が一同に会することができるというわけだ。

さらに、④では面積あたりの住戸数が多い、高密の状態が必要であると説く。混同されやすい過密(住戸の居室数に対して住んでいる人の数が多すぎる)は別問題であり、十分な住戸数に、それぞれ十分な人々が住んでいれば、魅力ある地区として人々が定住することになる。ただし、住戸密度が高すぎると、建物の規格化が起こらざるを得ないので多様性が抑圧されてしまう。各都市の規模に応じて適切な密度を保つ必要がある。

第3部では、都市の荒廃と再生の各種側面を検討する。具体的に衰退している都市で生じる問題や、当時の施策の何が問題なのかを、具体的に提示する。とりわけ有名になった活気ある都市が、その人気ゆえに高利益の少数用途に圧倒され、結果的に多様性が自滅するプロセスや、都市の境界面に生じる「真空地帯」の問題と対応、スラム化と脱スラム化のプロセス等について論じられる。それぞれ、公私の資金がどのように流入するかによって、都市の形態が変化するという意味で、経済的側面も併せて確認する。

最後の第4部では、更に発展させて当時の都市計画で認知されているメジャーどころの分野について検討を加える。具体的には住宅補助、自動車対策、都市の見栄え、よくあるプロジェクトの失敗例(本章では特に低所得者向け住宅の救済について重点をおかれている)、行政による計画の作り方などを確認する。最終的に、ここまでの議論をふまえて、「都市」はどのように捉えるべき問題なのかを、科学思想のアプローチ方法を参照しながら考察する。

仮に、科学思想を発展した順に3段階に分けて考えると、「都市」は3段階目の「組織だった複雑な問題を扱う」分野にあたる。これは、生命科学と同じ分野ということになる。しかし、近代都市計画の理論家たちは「都市」を1段階目の「単純な問題を扱う」分野、あるいは2段階目の「まとまりのない複雑性の問題を扱う」分野だと勘違いしていた。近代都市計画の理論の土台となっている田園都市構想や、輝く都市構想を見ると、それぞれ1段階目、2段階目の解釈と対応しているといえる。

これからの都市計画では「都市」を3段階目の分野であると認識し、①プロセスを考える、②個別事象から一般へと帰納的に考える、③ごく小さな量からくる「非平均的」なヒントを探し、それがもっと大きくてもっと「平均的」数量が機能する方法を明かしてくれないか考える、といった思考習慣で以て各種問題に取り組んでいくべきだとする。

2,感想

本書を読んで、真っ先に思い出したのは2016年に実施したフィールドワーク“いけずなまち”でのみなとみらい調査だ。「人々は、それがそこにあるというだけでは都市の空地を使ったりはしないし、都市計画者やデザイナーが使って欲しいと思ったからといってそこを使ったりはしません【p110】」との記述は、いけずなまちのプロジェクトで私たちが観察して得た知見と合致している※1。

私たちは、みなとみらいという現代型都市のパブリックスペースには「作り手」と「使い手」の間に大きな距離感があるという現象を何度も目にしてきた。
コの字型のオブジェが足を止めてみる人も、使おうとする人もなく放置されていたり、横になれないように間に柵が設けられたベンチに一般の人も座ろうとしていなかったり。また別の場所ではベンチの後ろに伸びすぎた植栽が干渉してきて座りにくくなっていたり。デベロッパーが主導の大規模都市計画では、基本的に「作り手」となるデベロッパーや行政の人々と「使い手」となるみなとみらい住人は別人であるケースが多いと想像される。それもあってか、「作り手」が想定した通りに使われていないであろうパブリックスペースは多数見受けられた。

本書にて、ジェイコブズは“正統派現代都市計画”を大いに批判している。その理由は、彼らの試みの多くが「活気ある都市」を破壊する方面に働いてしまうからだ。“正統派現代都市計画”の元となった思想(ハワードの田園都市やコルビジェの輝く都市)が、そもそも都市の存在を否定しているからそうなることは自明の理だというのが彼女の主張だ。

しかし、私たちが今住んでいるのは本書の刊行から50年以上経った現代日本である。“正統派現代都市計画”は形を変え、現代に適応した形へと多少なりともバージョンアップが図られていると思いたい。少なくとも、日本の大都市ではジェイコブズが語っているような失敗例をぱっと思いつくことはできない。この辺りは、もう少し勉強が必要そうである。

3,書評

ジェイン・ジェイコブズの『発展する地域・衰退する地域』を以前読み、都市の多様性の重要性を説く彼女の言説に興味をもち、より有名で、影響力も大きかったとされる本書を手に取った。『発展する~』がやや読みにくかったと記憶しているので、本書を手に取るのには及び腰だったのだが、要らぬ心配だった。

本書は都市に住む普通の人々の生活を描き出すという試みをしているためか、「普通の人」が読みやすい、親しみやすい文体で書かれている。第1部で示唆される都市の生活も、東京や大阪などの大都市に住んでいる人、そうでなくとも想像できる我々にとってはなじみ深いものだ。都市計画に携わる人よりも、むしろそうではない人が読むことで自分が住む地域、働きに行っている地域に思いを巡らせることを本書は狙っているように感じられる。

訳者解説では、当時のアメリカの大都市が現在我々が見聞きしているものとは全く異なり、「人々が我先に逃げ出す、ひどい場所がほとんどだった」と注釈を加えている。ジェイコブズは過去の都市政策ではなく、当時の最新の都市事情に照らして最適と思しき案を提示していたにすぎない、と。本書の中で批判されている田園都市計画やコルビジェの「輝く都市」計画も同時期に立案されたものばかりで、ジェイコブズは事後的にではなく、オンタイムで対立していたのだ。今日、アメリカ各所の大都市が現在のような活況を見せているのは、ジェイコブズが論じた以外の要因が作用しているのではないだろうかと訳者は述べる。

とはいえ、都市の活気を生み出す要因を探し出すための枠組みを提示したという点で、本書は意義があるのではないかと考える。安全に貢献する資産にできる街路の条件や、都市に多様性を生み出す4つの条件などは、都市について議論をする際の叩き台となる。本書の言説を肯定するにせよ批判するにせよ、共通認識として本書の主張は否定しがたい説得力を持っている。それは本書が現地調査――フィールドワーク――によって得た事実に基づき各主張をしているからであり、フィールドワークの持つ強力な力を改めて感じさせる。

4,現代への示唆・個人的意見

前述した通り、ジェイコブズが批判した“正統派現代都市計画”が直接の原因となっで生じている問題は直ぐには思い当たらない。むしろ現代日本の都市を考えるにあたり、憂慮すべきは都市の「使い手」が都市に対して無関心であることではないだろうか。「いけずなまち」の事例でも見た通り、現代の都市には「もうちょっと工夫すれば使いやすくなるのに」と感じられる「いけず」な状況があふれている。しかし、どこに・誰に言ったらその状況が改善されるのかわからないままスルーしてしまうことが多いのではなかろうか。あるいは、その状況を「当たり前」だと考えて気にも留めていない可能性すらある。

傾斜のあるオブジェから、飲み物が滑り落ちないよう「緩衝」する 2016.12.11 photo byユノ
傾斜のあるオブジェから、飲み物が滑り落ちないよう「緩衝」する 2016.12.11 photo byユノ

もう少し私的な空間においても、「使い手」の無関心さが目に余るケースがある。例えば平成24年(2012年)の国土交通省の資料によれば、管理組合が存在しない、あるいは機能していないマンションでは管理費の徴収および長期修繕に向けた積み立てができず、共用部の景観悪化や安全性の脆弱化に繋がっていると指摘されている。マンションの共用部は、住民しか入らないパーソナルスペース寄りのパブリックスペースだと考えられるが、そこですら管理の不備が問題視されるくらいなのだ。我々は、もう少し、パーソナルスペースの周囲に広がる空間に対して、関心を持った方がよいのではなかろうか。

ジェイコブズは成功した都市地区のいちばんの基礎となる属性として、「人がそれだけの他人に囲まれつつ、安心できて身の危険を感じないでいられるということ【p45】」と述べている。その具体的な事例として、上述した歩道でのゆるやかな人々の監視や多様な人々の行き交う姿を挙げているわけだが、果たして現代の日本の都市は身の危険を感じないでいられる環境だろうか。都市の「使い手」であるわたしたちはパブリックスペースに目も関心も向けておらず、結果としてその地域の治安悪化を招いている。そんな都市地域が、日本には多くあるように思えてならない。

私たちは、都市の「使い手」として改善すべき個所を意識的に見出すように努めること、そしてなるべく「作り手」にその声を届ける努力をする義務があると感じる。誰だって自分が気に入っているモノは大切に、長く使うために努力するだろう。私たちが今住んでいる都市が気に入っているのであれば、その環境が長持ちするための努力を怠るべきではない。

ジェイコブズのように、自ら陣頭指揮を取り再開発反対運動を起こす行動力のある人は稀だろう。ただし、自分が愛着を持って住んでいるor通勤・通学で赴いている都市くらいは、関心を持っておきたいところだ。たとえ住民運動のように大がかりな活動はできなくても、日々の生活でちょっと違和感を覚えていたことが、ふとしたきっかけで「作り手」の耳に届き、改善することがあるかもしれないのだから。今はSNSでそういったことを発信することも可能な時代だ。自分にできるやり方で、都市の「使い手」としての思いを持ち、周りの人に伝えたり、「作り手」との認識のずれを緩衝するための工夫をしていくことが現代都市が健全であり続けるためには必要なことのように思う。

※1:詳細はイケズカタログの「イケズカタログ>活動の意図」を参照いただきたい

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ユノ
What is the city, region and town?

文章を書いたり、写真を撮ったりすることが好きです。