『モール化する都市と社会』

若林幹夫編著, NTT出版, 2013年

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1,要約

現在日本各地に広がる巨大商業施設には、人々のどういった思考・欲求・生活様式が反映されているのか。また逆に巨大商業施設は人々が生活する社会にどのような影響を及ぼしたかを、4人の著者が異なる切り口から語る。それにあたり、本著では計画的につくられた(=自然発生的ではない)巨大商業施設を「ショッピングセンター(以下SC)」あるいは「ショッピングモール(以下SM)」と呼ぶ。

優れたSC・SMとは独創性がある空間ではなく、建築的にも業態的にも「均一(均質)な多様性」が維持された空間である。建築的には特定の規格を基にはじき出されたデータから半自動的に設計され、かつその残りの部分に「ご当地モノ」の要素を入れて多様性をもたせる。業態的には多様なものが、どこにでも同じようにあることが担保されている空間である、といえる。

そこに至るまでには、各種博覧会から派生した勧工場と百貨店の存在、また交通の通過点に商業施設を配置する鉄道系百貨店の隆盛などの存在が挙げられる。勧工場の娯楽性と百貨店のもつトレンド性、さらに鉄道系百貨店が生み出した「交通上の通過点を、消費の目的地」とする発想が組み合わさることで、玉川髙島屋SCをはじめとした現代日本にあるSC・SMが誕生したと考えられる。

とはいえ、SCに対する捉え方は業界内においてさえ、時代に応じて変化してきている。成立間もない1970年代は地域の中心に在ることで高尚なコンセプトを提示し、社会問題を解決したり、上質で文化的な生活を過ごしてもらうための空間として捉えられていた。その後時代が下ると販売チャネルのいち形態としての生存競争を重視するようになり、その規模感を活かした「遊び・不必要の集積」を目指すようになっていく。これはすなわち精神的な心地よさから身体的な心地よさにシフトしているさまを表し、近年SMでよく唱えられている「エコロジー」「ナチュラル」等の概念も理念というより、単に生理的・自然的な快適さで消費を楽しむことを企図しているように感じられる。

そうした客の購買を促す仕組みとして、曲線上のモール(遊歩道)を設けテナントの入口をそちら側に向ける、両端に核テナントを配置する、時間節約を望む人のために歩行のショートカットが可能な8の字型のレイアウトを組むといった工夫が生まれてきた。またコスト減のために、百貨店と比べ低層・水平な建家になった。その結果、SCはより多くのテナント及び商品を客に認知させる〈透過性〉の高い空間として現れている。それはもはや街の中に商業施設があるのではなく、街から独立した壁の中に街があるといった様相を呈している。

2,感想

SCの特徴として挙げられている「圴一(均質)な多様性」というキーワードは、現代社会、とりわけ情報化社会にも当てはまる要素であるように思われる。人々があらゆる情報にアクセスできることをウリにする情報化社会だが、その前提として「人々」が皆情報獲得用プラットフォーム、すなわちインターネットに接続できるという条件が暗に存在する。また、実際にアクセスされるサイトも大筋では限られており、日本全国、誰に聞いても大抵、Facebookかtwitter、instagramのうちいずれかを利用していると答えるだろう。そのさまは、日本全国どこに行ってもフードコートと価格抑えめのファッション系テナント(ユニクロ、GU、H&Mなど)があるという、SCの構造によく似ている。

イオンモール旭川駅前店 photo by ユノ

また、そもそも「多様性」とは、何かしらの画一的な前提条件を念頭に置いた表現であると感じる。例えば「生物多様性」というときは、生物種が減り画一化していくことへの危機感が背景として意識される。

現代社会において、個々人の生き方の多様性を否定することは難しい。さりとて、そうした「生き方の多様性」もまた、ある一定の画一的な側面があればこそ存在し得る概念なのではなかろうか。SMはそうした「生き方の多様性」を担保する「共通認識」として存在しているように思われる。情報化社会と併せると、それは「プラットフォームの画一化」と言えるかもしれない。あらゆる人々がそこに同時にアクセスし、たとえ距離が離れていても「似たような」環境を享受できる。またそこでは、職場や学校で求められるような行儀の良い振る舞いを求められない。その意味で、SMは三次元版googleと言えるかもしれない。

3,書評

SCの成立及び展開した状況を追うことで、戦後日本社会の様相が判明するのではないか、という若林氏の仮説に興味をもち、この本を手に取った。

たしかに戦後の社会を追ってはいるが、当時の社会情勢と絡めて語るというよりは、ただ淡々とショッピングモールの歴史を辿っているという印象を受けた。歓工場が当時の日本で流行った理由、元々五街道をはじめ街道が 広く整備されていたにもかかわらず、戦後道沿いより線路沿いの百貨店の方が人を集めた理由等、歴史を深掘りしていくと、SMが現在の形に落ち着いた理由がより鮮明に詳らかになったのではなかろうか。

また、本著は複数著者による共著のメリットがよく出ている。個々人の切り口は違えども、皆少しずつ重なる部分があり全体としてみると現在のSMの姿がより深く理解できる形になっている。本レポートの「要約」部を著者別ではなく、いくつかの論点を組み合わせた一つのストーリーとして編み直して書くことが可能であった点が、それを何よりも物語っている。「商店街vs SM」「地域の画一化を招くSM」などといった感情的なテーマで語られることの多いSMの姿を研究者らしくつぶさに観察し、多角的に、それでいてわかりやすく論じたという点が特に意義深い。どのような意見をもつ人であっても、SMに関心のある人であれば読んで損はない本だと言えるだろう。

4,現代への示唆・個人的意見

前述した「均一(均質)な多様性」の議論に見られる通り、本著は『モール化する社会』の議論に力点が置かれている印象だが、書名にあるもう一つのテーマ「モール化する都市」あるいは「都市化するモール」という観点から本著を捉え直すと、今後の日本の都市・地域が向かう方向に関してのヒントが得られる。個人的に興味深く感じたのは空きテナントの使われ方である。SMで空きテナントが出た際、そこが「休憩所」として整えられてマッサージチェアが置かれたり、ガチャガチャが並べられたりする。本著の中ではそれを興味深い事象としつつも、SMの「破れやほころび」という表現で示している。しかし、この空間の使われ方は、都市に置き換えて考えるとノスタルジックに語られがちな「原っぱになった空き地」に近い。

商業が集積する空間に生じたほころびと聞くと、私は商店街の店舗が無くなった箇所が駐車場になっていく現象を思い起こす。商店街利用者でも、そうしてできた駐車場を利用するケースはそう多くはない。だが、SMの空きテナント空間は「よりお客さまを長くSMに滞在させる」意図をもって整えられる。結果、場所によっては地域の高齢者の方々の井戸端会議の舞台になったり、小学生が放課後みんなで集まってゲーム等をする空間になったりしている。そんな、「移動の途中でちょっと寄り道して楽しむ、いつか無くなるであろうことが目に見えてわかる仮設の空間」である点が原っぱになった空き地と共通の部分だ。

また、私が考える「パッチ・ワーク地域」の観点から考えると、企業に利用者の振る舞いが強制される(=「組織的手入れ」が強い)テナントショップに比べ、空きテナント空間は利用者が空間の利用法を工夫する余地がある。人口も組織の規模も縮小傾向にある日本では、都市でもSM内でも「空き地」が増えていくであろうことは想像に難くない。それは「組織的手入れ」の力から解き放たれた、様々な用途可能性をもった空間が増えていくことを意味する。無論、その空間が別の「組織的手入れ」の元で活用されていく可能性もある。しかし、組織で管理しきれない広域に点在する空き地の多くは、近隣で生活を営む人々の「個人的手入れ」によって、その時々の人々のキャパシティやモチベーション、ニーズに合う形に変化していくのではなかろうか。SMの空きテナント空間は、特に地域の人々の「ニーズ」ー今ある地域に不足していて、できれば欲しいと思っている空間ーを知るための恰好の場所だと感じる。そしてそこで判明したニーズを、地域の人々がモチベーションーその用途空間を維持するための続ける意識ーを保ちうる程度のキャパシティー空間維持に割ける活動量と意識ーで以って都市・地域に実装できるような仕組みが作られれば、人々が和やかな気持ちで生活することができる社会に近づく。そんな気がしてならない。

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ユノ
What is the city, region and town?

文章を書いたり、写真を撮ったりすることが好きです。