なんのために文章を書くのか
誰かに向けて書かれた文章というのは、おのずと以下の効果を求めている。
1.目にしてもらう
2.読んでもらう
3.伝わる
このうち、最初だけ意識すると、煽ったタイトルつけたりする。
最近多いけどね。
自分の行動を振り返ってみても、「読まずにシェア」することはけっこうあるので、扇情的なタイトルだったり、なにかしら資料価値がありそうだと思えば、気軽に――軽率に、という表現のほうが適切かもしれない――シェアしている。
あるいはけっして読むことのない「あとで読む」とかね。
目にはしたけど、読みはしない。あるいは途中で読むのをやめちゃうということはかなりあって、たぶん目にした文章の大半は読んでない。
読んでもらうというのはそれだけハードルが高いことなんだけど、読んでもらえたからといって書いた人間の意図や気持ちが必ず伝わるというわけでもない。
それは個人ブログのレベルでも起きてるし、プロの編集者がかかわった書籍であってでも起きている。
これはもう「人間は自分の見たいものしか見ないし、聞きたいことしか聞きゃしない」という性質を考えればどうすることもできない部分の話でもあるので、100%伝えられるなんて考えること自体がまちがっている。
だけど伝える努力はすべきだし、少なくとも理解したいと思ってる人だけは伝わるように書かなきゃいけない。
(文章が冗長になるのはわかろうとしない人に対してエクスキューズを散りばめるからで、そこはもう諦めよう)
そして伝わったからといって、それはけっしてゴールじゃない。
その上には
4.動かす
という段階があり、これが理想。
かりに商業的な文章であっても、「動かす」が意味するのはなにも「申し込む」や「買う」だけじゃない。
その文章で提案したり、紹介したり、共有を試みたことによって、その人の振る舞いや日々の習慣が変わったなら、それはまちがいなく動かせている。
「自分の頭で考えよう」という文章を書いたとする。
目にする人はいるだろうか。
そのうち何人くらい読んでくれるだろうか。
どれだけの人に正しく伝わるだろうか。
そして読者の何割が「自分の頭で考える」ようになるだろうか。
けっして簡単なことではないけれど、ハナから諦めるほど絶望的な話でもないと思う。
もちろんすべての人に伝わるとは思わないし、その人の行動が変わるとも思わないけれど(それはそれで危険な状況だから)、ひとりでも多くの人に文章を届け、彼らの行動すら変えてしまうような文章が書けたら、それってほんとうにすごいことだよね。