[x-Music Lab 21春]自然観を捉える戦術的環境音聴取の可能性

hazuki ota
x-Music Lab
Published in
Jul 27, 2021

慶應義塾大学藤井進也研究会x Music Lab に所属し、日常を舞台に戦術的環境音聴取を行う学部3年の太田遥月です。

目次
・序論
・エコロジカルアート
・自然との関係性の再考
・環境音聴取に問われるもの
・作品制作
・環境音聴取の可能性と展望
・参考文献

序論
エコロジカルな危機(温暖化、異常気象、新型ウイルスなど)の高まりとともに、人間の存在条件が不確かになり、曖昧になるのは結局のところ、私たちを囲い、人間として生きることを可能にしてくれきたはずの人間世界そのものの崩壊の兆候である。エコロジカルな問題を対処するために設定されたSDGsが、「マーケットとしてのエコロジー」化している状況は本質的なサステナビリティの追求抜きに先行するような状況に危機感を覚える。強い人間中心主義的な思想に基づき、人類の繁栄のために地球を計画的にコントロールしようという、近代的とも言える態度。シンポジウムでの言葉を駆使したのみで語られる自然観。その崩壊において私(たち)は、壊れる前には感じることも、考えることものなかった境界の向こうの現実を考えざるをえなくなっている。人間/非人間、文化/自然の二元論的な提案を継続し、主体(人間・文化)による際限な客体(間・自然)の支配と収奪を正当化し続ける姿勢こそ、まさに私が議論していきたいことである。

エコロジカルアート
エコロジーとアートの文脈は1960年代以降、急速に進んだ環境破壊や公害を受けて多く語られ、ヘンリ・ソロー「森の生活」からJohn Cageのフォト・エッチング《ソローによる17のドローイング》、レイチェル・カーソン「沈黙の春」からロバートスミッソンのランドアート《スパイラルジュエッティ》などが生まれている。2000年代には「人新世」という概念が登場し、ピエールユイグ、オラファーエリアソン、カールステンニコライ、上村洋一など様々なアーティストが時代ごとのエコロジーにまつわる作品を発表している。

https://www.wikiart.org/
https://en.wikipedia.org/wiki/Spiral_Jetty

自然との関係性の再考
多くの自然観が語られ作品化されてきた。しかしこれまでのエコロジーをめぐる思想に本質を備え概念を否定しているのが「自然なきエコロジー」の著者ティモシーモートンだ。


ティモシーモートンが試みたのは
エコロジーの概念から「自然」を取り除くこと。
それによりエコロジーの概念を新しく作り直そうとすることである。
つまり、エコロジーは自然環境という容態的な対象といて
捉えるのではなく「とりまくもの」として捉えること
人間に限らないさまざまなものを取り巻き存在させる「とりまくもの」として概念化することが主要課題である。 (筆者あとがき)

私(たち)は環境について語ろうとするとき、多くの場合は「自然」を前景化し中心へと呼び出すものの、そのことによって私たちをとりまく背景としての「自然」は雲散霧消してしまう。しかしながらエコロジーの思想はこの「自然」にこそ接近しなければならないのではないだろうか。ここには人間とは明確に区別された客体としての自然を保護しようとする旧来のエコロジー運動(1960~)や、自然のために人間の死をも受け入れなければならないとする全体主義的な環境至上主義(Deep Ecology)とは異なる視座がある。「自然なきエコロジー」とはつまるところ、意識化に固着することなく無意識を捉える試み、より正確に言うならば、環境を対象化することなく「とりまくもの」として感得する試みのことなのだ。ティモシーはここでDark Ecologyと呼び、前景後景の区別はあるが、知覚の次元においてとりなおされ続けるとりまくものとして、都合の悪いもの、美しくないものも自然として捉えていく必要があると主張している。

ティモシーモートンの主張

「自然的なるものの概念」に対して芸術が流動的かつ非概念的な領域をもたらすからに他ならないが、同時に単なる美的なるものは固定化と概念化の発生源にもなりかねない。この危うい道筋をいかにして通り抜けていけばよいのか。そこでどのように二元論(社会/自然・主客)を解体していくべきなのか、鍵となる手がかりとして私は環境音聴取を挙げ、それに対する考察をここでは述べていく。

環境音聴取に問われるもの
日本の環境音には、大きな二元論(社会/自然・主客)を存在させてしまう実態がある。

「騒音」
都市に流れる環境音(騒音)は公共のものであると同時に、耳を塞ぐ以外に個人が所有せざるを得ない特徴を持つ。しかし日本の都市空間の特徴は視覚情報で溢れ、聴覚文化の衰退をもたらしており、一個人が何を騒音と捉え、何をそうでないかと思考する過程を経る前に、「環境基本法」において公害として定義され、環境アセスメントを行うことが義務付けられている。ここでは音のラウドネス(db)を基準に調査を行い、規制が設けられている。定量的に行政による政策が働いている。

総務省HP[https://www.soumu.go.jp/kouchoi/knowledge/report/kujyou-30_index.html]

「ノイズキャンセリング」
イヤホンやヘッドホンにおけるノイズキャンセリングという技術は音環境(とりまくもの)を個に収束するアプローチと言える。ノイズキャンセリングはあくまで音楽をより純度の高い状態で鑑賞するための技術であることは確かだが、これは逆説的に現代の音環境(とりまくもの)が音楽の聴取領域をも侵していることを示唆している。ノイズキャンセリングという要素を除いても、イヤホンやヘッドホンの普及は音楽鑑賞の幅を広げると共に、音環境(とりまくもの)と個人とを遮断するアプローチの一端となったと考えられる。

こうしたアプローチは確かに現代の都市環境音の増加に対して必要不可欠であるが、一個人が何を騒音と捉え、何をそうでないかと思考する過程を経る前に、定量的に行政による政策が働いてたり、取り巻いている音全てを騒音と認識し、遮断するテクノロジーが存在することは、「とりまくもの」を捉える身体性はない。とりまいている音を受け止めてから音環境を考えていくべきなのではないか。そこで、どのように(行政やノイズキャンセリング)聴取することで、何を聴取してるのかが左右してる現状があるのは、カナダの作曲家Raymond Murray Schaferは「内側からのデザイン」つまり「聴き方を学ぶ」ことが効果的な手法といえるだろう。今期は、環境音聴取に着目し、とりまいている音に耳を傾けるツールや作品を制作した。(思考の経過とともに多少矛盾しているが)詳細は私が執筆しているMediumをご覧いただきたい。

環境音聴取の可能性と展望
「とりまくもの」。それは背景の定まらなさであり、境界を確定できないことを意味する。環境音は(私たち)を取り巻いている音であり日常であり、意味のある音は入り込み、意味のない音は流れ、知覚の次元においてとりなおされ続ける。これをカクテルパーティ現象ともいう。今期の制作活動において、環境音聴取は音が環境とともにあり、あるいは環境が音において現前することは、音とその環境という二項対立(社会/自然・主客)が崩壊する瞬間を聴かせることとになるうると確信した。二項対立の崩壊を聴くには、自らが感じることから思考する身体性を持って、外部のカオスな音環境に偶発性を生み、行為する思考のはじまりとした身体性を確立していくアクティビズムになるうる。これらのアクティビズムがコロナ禍の出口がいまだに見えない現在、これからのエコロジーを考え直す契機となれば幸いである。

今後の予定として、コロナの感染状況にもよりますがサウンドウォークを行なっていきたいと考えてます。ご協力してくださる方やご興味がある方はぜひご連絡ください。
また、x-Music Labで2021.08.31–09.01の二日間で展示を行うこととなってます。詳細はこちらに載ってます↓

参考文献
シェーファー , マリー「世界の調律―サウンドスケープとは なにか」 平凡社(1986)

ポーリン・オリヴェロス「ソニックエディテーション」 新水社(1998)

岩宮眞一郎「音の生態学」 コロナ社 (2000)

ティモシーモートン「自然なきエコロジー」 以文社

ティモシーモートン「複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学」

アランリクト「SOUND ART」 フィルムアート社 (2010)

藤森照信 「茶室学講義」 角川ソフィア文庫(2019)

InterCommunication 「アートと社会のエコロジー」 NTT出版(2008)

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