[x-Music Lab 22春]
この最終レポートでは新規生ワークショップを通して得られた知見やアイデアをまとめる。
*はじめに*
今学期のワークショップは、その全体を通して、
”音楽の境界や限界に迫る”
”Xな音楽とは何か”
といった挑戦的かつ一貫したテーマが背景としてあったように思います。ワークショップを通して、私は音楽をどのような視点から考察するのか、またそれらはどのように定義されるかという点についての洞察を深めることが出来ました。音楽という抽象的な概念は定義されるにあたり、数学のように最適な回答というものはありません。ですから、私たちはそれぞれ、自分なりの視点から”音楽”の中に存在する共通項を発見し、それを総括できる定義を発見する必要がありました。
*WS1:聴く(Listening)*
初回のワークショップについて、(出題者の意図がどうあれ)私は日常の中に存在する多様な小さな音に意識を向け、その可能性に気づかせる目的で取り入れられているのだと解釈しました。実際に自宅から学校までの道のりの中では普段の無意識の通学の中では気付き得ない音に満ちていました。一方で、音楽の限界について考えた時、果たして日常の中にある音と音楽の音はどう違うのか、どこまでが音楽として定義されるのかという疑問が生じました。また同時に、それらが明確かつ簡潔に定義され得るものではないということも感じました。単純化しすぎた解釈ではありますが、仮に日常の生活にある音を”不規則かつ未統制の騒音”とするのであれば、音楽は”あらかじめ統制された調和的な集合音”と言ったところでしょうか?しかし、一方で4分33秒などの前衛的な作品に置いて名を知られる、ジョン・ケイジは無音のその空間をある種の音楽的表現の一環として楽曲に取り入れました。この作品においては、統制されるべき音がなく、それを調和させることもできません。もちろん彼の音楽に対する感じ方と私の感じ方が同じではないということは明らかですが、ここから分かることは、少なくとも自分以外の誰かにとって、雑音や無音ですら”音楽”になりうるのだ、ということです。
*WS2 :自分の中の音楽の境界を知る*
”境界”という言葉は物質について考える時は、目に見えない抽象的なものについて考察する時よりもはるかに分かりやすいといえます。例えば、地域、国域、領域などは明確な線引きによってその範囲を定義することができるからです。一方で音楽のような具体的な肉体のない抽象的な事象に関してその境界を判断するのは難しいといえます。しかし、だからこそ、”それが音楽であるかどうか”という境界について考える時、その手法は音楽ジャンルが持っているような曖昧な境界線を引くようなものであってはいけません。そこで私は音楽に存在する要素のイメージを『音の高さと音の解像度のイメージ』という二つに分け、具体的な境界を考察できないだろうかと考えました。これは二つの要素に基づいて値を変更していく中での自分の許容範囲を探し出し、限界点を見つけるというものです。そしてその結果考えられた境界線は、主観的な許容範囲に基づいていている一方で、周波数という点に関しては音楽と非音楽の間に明確かつ独自的な境界線を引くものになりました。
*WS3: 境界にある音楽を見つける*
WS2の中で自分の中で考えた音楽の境界線の限界にある音楽を調べる段階になった時、必要になったのは、その境界を単語として言語化するという工程でした。というのも、”〇〇Hzの音とノイズを含む曲”のような音の要素を探す検索はできないからです。調べるためには、境界の音が人に与えるイメージを具体化する必要があります。結果として私は、その境界の音を”ヘリコプター”、そして”耳鳴り”という二つの単語へと落とし込みました。そしてサウンドクラウド上で検索をかけ、ランダムに聞いていく中で自分の境界に近いものを探して行きました。
(↑”ヘリコプター”の検索の結果)
(↑”耳鳴り”の検索の結果)
WS3において自分の設定した境界に存在する音楽を探す以外の意義として、私が意識していたのは、それら境界の音楽に存在する共通項を発見して、自分なりの音楽に総括される限界の”定義”を言語化するということです。調べた音の中に多くあったのは、セラピーやリラクゼーション効果を狙ったものでした。一般的な大衆音楽に比べてに比べてある意味で超越的である分、そのような効果が得られることを期待したものが多いのかもしれません。その意味においては、これらの楽曲は多くが心地よさを残したものであり、不快感の少ないものであったようにも思います。また、セラピーを目的としたものを除けば、内面の知覚を他人と共有しようとしたものもありました。そして、その製作者は自分自身の感覚を限りなく正確に再現できるようにするために、どのように楽曲の音量を調節すれば良いかという指針まで示していました。これらの楽曲に関して共通していたのは、そこに何らかの”目的”があることでした。それは内省的なものであったり、あるいは科学的な効果を狙ったものなど様々ではありますが、全て誰かにとって何らかの意義あるものであったといえます。つまり、その表現における”目的”の存在の有無こそが音楽の定義に重要に関わってくる共通項であったと言えるのです。
音の高さや、音の解像度による音楽の物理的境界の具体化の先にあった音楽的な定義は、楽曲全体を形作る抽象化されたテーマ、いわばそれを成立させている目的と言える極めて抽象的なものでした。
*WS4: Xな演奏をする1*
WS4ではXな個人演奏をしました。今回、私はWS3で引いた音楽の境界線に基づいてその限界を演奏で表現しました。使用したのは下の楽器です。
粒の大きさで音の解像度の大きさをイメージし、同時に音の高さの違いもっ表現しました。また、同時にAbleton Liveを使用して、WS3で定めた音の高さの許容限界の両端を行き来するシンセサイザーの音を鳴らしました。写真の制作した楽器はマラカスのように振って演奏をします。大きいボトルの方は当然大きな音が出やすく、一方で小さい瓶の方は小さな音しか出ません。音のミックスバランスを考えた時、これらはどちらかが過剰である、あるいは不足しているわけにはいきません。よってその音量に合わせた振り方をする必要があります。また同時に、WS3での境界音楽を再現するために、その振るスピードも解像度のレベルに合わせる必要があり、大きい解像度のものはゆっくり、小さいものはできるだけ高速で振る必要がありました。そして、演奏を通してある疑問が生まれました。楽曲作品に”目的が必要”なのであれば、演奏によってリアルタイムに生成される音楽にも”目的”が必要なのではないでしょうか?
*WS5: Xな演奏をする2*
WS5ではグループで”Xな演奏”とは何かという点を考察しました。WS1~3の中で各自が考えていた音楽の境界とはまた異なる新しい視点から、音楽の可能性について考察することが出来ました。今回、私たちは”朗読とその声の抑揚表現によって変化する音楽”を演奏しました。この演奏の中では、一つの主題に対して解釈の二面性を持たせるという点で概念的かつ直感的な理解を促進するという目的があります。言葉で伝える意味と、音で理解できる感覚的なイメージを同時に捉えてもらうことで、本来伝えたかったテーマの真相を理解してもらうことを可能にしました。
最終発表にて発表した演目テーマは”自然と人間”です。以下にそのコンセプトを示しておきます。
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自然が培ってきた流動的な流れと無意識な人間の暴力性を表現し、人間の視点と自然の視点から、それぞれの認識のすれ違いを語る。呼吸と声量を通して、言葉に埋もれる感情と概念的なイメージを示す。多言語を用いることで演目テーマが提示する国際性を表し、また言語上に存在する音楽的な共通性を認識するとともに、演者が表現しやすい言語を通してテーマ演者の直感的な接続を図る。演者が声を荒げればその分だけ音の変化は大きくなり、対照的に沈黙すればその揺らぎは減少していく。それが自然と人間の感情を象徴的に示し、対比的な強弱が彼らの意識のすれ違いを表現することになる。
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朗読内容となる詩は私たちで書いたものです。日本語と英語で二つの詩を書き、それを同時に朗読するという形を取りました。それぞれ人間と自然の立場で自分たちの思いを語り、それぞれがそれぞれの形で音に影響を与えます。人間が環境を破壊し続け、自然から受けた恩恵を忘れ、自然は徐々にその声を沈めていきます。それらは声の調子を荒げたり、あるいは徐々に小さくすることで音の中にある感情として表現されています。
音の中にはEnvelope Followerが挿入されています。オーディオインターフェースを通してマイクから入力された音を読み取り、その値に応じて他のエフェクトの値を操作しました。
(↑Envelope Follower)
(↑操作される他のエフェクトの例、ここではReverbのPredelayやPhaser-FlangerのRateなどが操作対象になっている)
*詩の日本語版(自然側視点)*
私の皮膚がめくれあがり、丸い玉がその隙間を温かく埋めていく。やがて芽吹く全身が、染み渡るようにして次々とゆっくり広がり、その終わりに一つの流れを生み出す。新たなその感覚は、一つ生まれるたびに二つ生まれ、そして次には四つ生まれた。それらは時に小さく感じられる一方で、互いに重なりあい、また時には消えていくこともあったが、決して裏切ることはなかった。私が彼らに向かって手を靡かせると彼らはそれに呼応するようにして横たわり、新たな脈動を呼んだ。彼らは自らを持続させるために他の流れを奪い、そしてその代わりにそれらの形を変えてもう一度新しい支流を生み出した。そして全てを調和させるように呼吸をし、それらは私の上をゆっくりと巡ってとまり、環を作った。
また皮膚が裂ける。
そしてその隙間は再び埋められ、今度は私が私の子らを助けるようにして彼らの棲家をつくる。私たちの呼気が空拍を埋めるようにして、環状になったあらゆる境界をみたしていく。やがて私の子らはふえ、私は彼らと繋がり、彼らの体を通して流れるようになるのだ。
しばらくそうしていると環はやがて細くつらなり、数多に別れていく。別れた先で、それらはまた互いにより合うようにして繋がっていく。段々とそれらの別れた支流は太くなったり、細くなったり、うねうねと自由に広がっていく。しかし、ひときわ大きくなった支流はやがて誰の流れとも繋がることはなく、ひとりでくるくると私の周りを這いずり回り出す。そのくせ他のもっと細い環をたぐりよせ、自分に編むようにして、ずっ、と飲み込む。飲み込まれた細い彼らは根本を引きちぎられるようにしてあとかたもなく消えていく。彼らは飲み込んだ者たちに、何一つ回帰させることはなく、ただただ飲み込んだ。そして彼らが辿る軌跡の跡は環を枯らし、亡き者にしていく。
私が皮膚を裂く間もなく
私がその隙間を埋めるよりも、腕を靡かせるよりも早く
それは私たちを底なしのくらがりへと沈めていく。
私は時々夢を見る。
ぐるりと回る胎動が再び訪れるように感じたとき、それは私自身の体内を巡るようにして私から離れていく。
*まとめ*
音楽の境界や限界について考えた時、もっとも大切なのは”なんだって音楽だ!”というように思考放棄してしまわないことです。それでは町の騒音から、耳を塞ぎたくなるような不快な高音まで、全てが音楽になってしまいます。これでは音楽を作る意味も聞く意味もありません。音楽の中にある重大な意味を探り、そこに何らかの定義を見出すことで初めて音は音楽という形で世界に生まれ直すことができるのかもしれません。