[x-Music Lab 22秋]保阪明奈

Minna Hosaka
x-Music Lab
Published in
Feb 2, 2023

1 音楽の定義

音楽であるものは、①音として認識されたもの、かつ、②楽しめるものであり、自分にとってもう一度聴きたくなるような、何か心のフックに引っかかったものだと考える。 一方、音楽でないものは、①無意識的である、あるいは、②楽しめないもので、もう一度聴きたいと思わないような、心のフックに引っかからないものだと考える。

Rhythm Roulette: Mura Masaの動画は私にとって音楽である。

その根拠として、①音として認識されたもの、かつ、②楽しめるものであり、自分にとってもう一度聴きたくなるような、何か心のフックに引っかかったものであるからだ。この動画から聞こえる音として、

・独り言

・パソコンのクリック音

・音楽を再生したり止めたりする作業

・何度もループし、確認しながら音を加工、編集する作業

などがあるが、彼の独り言がメロディや歌詞のように口ずさみたくなり、六分間のこの動画を何度も耳がこの音を欲している。その曲を作るプロセス自体が、音楽的であり、私にとって楽しめる。

2 Xな演奏

これからの時代に栄える「未知の音楽(x-Music)」は「食」である。根本的に、「音楽」と「食」による快・不快とその欲求は同じだと考えた。そこで、「音楽」と「食」音楽と食を対比させて考察する。

フードシステム学は、農と食の分離という問題意識から始まった、食を体系的に捉える学問である。かつては、食と農業は隣り合わせの関係にあり、小規模なコミュニティ単位で農作物を育て、食べ物を共有していた。しかし、人々の行動が近代化することによって、食材が料理となって我々の体内へと運ばれるまでに、いろんな主体が介在するようになり、農と食が乖離した。より具体的に言えば、食材を加工し開発する人、料理人、運搬業者などがある。では、どの主体が最終的な「料理」を作るのか。食べる人が直前に塩をかけて味変をするかもしれない。このように、主体はいくらでも介在することができ、立場の曖昧さがある。

音楽も同様である。作曲者から鑑賞者まで音楽が届くまでの過程に多くの主体が介在する。

まず前提として、音は人によって生まれるのではなく、音は常に存在している。人は音に支配されている。音は、多くの人とモノを媒介して、音楽となる。つまり、音楽となる過程まで、作曲者、演奏者、鑑賞者、というざっくり3つの立場が間に存在する。今や近代化した世界では、その立場を明確に線引きし、それぞれの役割を果たしながら、一方向に、作曲者、演奏者、鑑賞者へと流れていく。

しかし、立場をなくすのでもなく、立場を設けるのでもなく、その”立場”間を行き来すること試みた。つまり、前提に音があり、自分のアイデンティティがその中で形成されていく。自分が未知数となり、その未知数が音楽の中の新たな「立場」となる。

菊地拓馬、斎藤理貴との「Xな演奏」で、私たちは作曲者でもあり、演奏者でもあり、鑑賞者でもあるが、それは明確な立場としての「作曲者」、「演奏者」、「鑑賞者」ではない。私たちは曖昧な枠組みとして存在し、その枠組みはまだ確固たる名称のない、未知なるものである。明確な立場を持たない曖昧さであるから、自由に相互干渉しうる関係性である。演奏とは音が音楽となる間の部分である。その主体は問わない。

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