[x-Music Lab 22秋]病理とイメージとコミュニケーションの阻害について

那須亮介
x-Music Lab
Published in
9 min readFeb 3, 2023

総合政策学部三年 那須亮介

コンセプト

前回の「[15–50](https://www.notion.so/Ryosuke-Nasu-0f1653c893894a208843180b6d13cb95)」から興味の範囲が、「言葉や文字の剥奪」・「不可能なコミュニケーション」・「メディアの力」というところへ広がった。今回もコミュニケーションができず、言葉を失った人々がテーマとなる。

今回の作品のきっかけになった著作は内海健「気分障害のハードコア」である。

精神科医である筆者はうつ病や統合失調症の患者において、「問診」を中心に診察することに注意を喚起している。問診とは、相手を定番の質問で査定して、そこから情報を得てただ診断基準に当てはめるだけの「タスク」に成り下がっていると指摘する。特に、このタスクが統合失調症の患者相手だと悪い結果を引き起こす。

統合失調症の症状として、「自分は誰かに監視されている」や「自分の考えが漏れてしまってる」というものがある。ラカンは言葉や構造の世界である象徴界が壊れた時、それらのイメージは現実界になだれ込む。そしてそれは音という「自己」と分離不可能な表象でやってくる。

さて、このような症状が出ている患者に対し、「あなたは誰かに見張られていると考えていますね?」と「問診」するのは、その妄想を強く肯定する材料にしかならない。そして患者はそこで得た傷を言語化することはなく、自分の世界に閉じ籠り、深い諦めの中へと沈んでいく。彼は誰ともコミュニケーションを取ることはできない。

このような時、内海は「患者を感じる」ということが大事だと主張する。つまり、こちらから相手の情報を聴取するのではなく、ベクトルを反転させる。「他者になって他者の気持ちを考える」ことを重要視する(他者を自分の側から解ろうとするのは「同情」である)精神科医は、患者という他者が受け止めているものをとりあえず受け入れていることから、始めるべきだと内海は主張する。

この作品では、統合失調症の症状が出ている(と思われる)男が出てくる。しかし、目指すところは「統合失調症の症状を見せる」ことではなく、「統合失調症の認知構造自体を作品として提示」することである。つまり、当事者と観察者の中間地点のアートを目指す。

また、「カメラというメディアの暴力性」、「言葉を文字が奪う」などをコンセプトとしたが一度内容を見ることにする。

内容

暗い部屋に男がいる。男は誰かからの電話に出る。「先生」とその男は電話相手を呼んでいる。しかし、それはおそらく医者だろう。なぜなら、この作品では日本語と英語字幕が同時に出てくる。先生は「doctor」と訳されている。

男は自分が元気であると先生に向かって話す。しかし、どんどん内容が支離滅裂になっていく。葬儀のバイトで彼は「自分が三人いた」と主張する。そしてそれに対して、自分で腹を抱えて笑っている。

ひとしきり笑い終わった後、彼は先生に感謝の言葉を述べる。そしてこれからの明るい展望について語る。しかし、ここから字幕が対となって表れなくなる。日本語字幕はそのまま、男の発言を追っているが英語字幕はまるで別の内容を書いているように見える。そして、急に部屋に笑い声が響き渡る。男は周りを見渡す。しかし、何も見つからない。

男は、その笑い声を「大丈夫」だと言い、話を続ける。しかし、支離滅裂さはどんどん増していく。英語の字幕も同じように乱雑になっていき、小さい笑い声は止むことはない。

そして、男は電話の「先生」からの反応がないことに気づく。呼びかけても応答しない。そして、さっきより大きな笑い声が再度響く。

男はさっきと同じように周囲を見渡そうとする。そして、今度は何かを見つけた。男は視線をじっとこちらに向けている。まるでそれが何かとても重要なことのように。

男はこちらを見たまま「先生」「今までありがとうございました」と言う。

次の瞬間、遮光カーテンとベランダが開いている映像が出てくる。部屋に光が入り込んでくるが、男の姿はどこにも見えない。そしてそのまま映像は終わる。

最後に、映像の中で日本語と対になっていなかった部分の字幕を書く(英訳 藤家大希)

**I’ve always wanted to end my life**

(僕は自分の人生が早く終わって欲しいと思っていた)
**But my life hasn’t even started yet**

(でも人生は始まってすらいない)
**So far my words seems positive, don’t they?**

(なんかここまで聞くとポジティブな感じするね)
**Actually it’s just that my life is already over**

(子供の時、よく先生が僕だけ出席をとり忘れたりしてたよ)
**When i was a kid, my teachers often forgot to take my attendance**

(子供の時、よく先生が僕だけ出席をとり忘れたりしてたよ)
**I couldn’t find myself in group photos**

(集合写真で自分の顔を見つけられないでいたよ)
**You know, I am always writing sentences that no one reads**

(僕は誰も読んでない文章をずっと書いてるんだ)
**I think I should have a put period earlier**

(本当はもっと前にピリオドを打たなきゃいけなかったんだ)
**But the thing is, I have to make a big stain**

(僕は大きな染みを作らなきゃいけないんだ)
**Do you know how?**

(その方法、わかる?)
**loading…**

(考え中…)
**Well, I know**

(僕はわかった)

(ある種の)解説

まず、イメージとしてあったのが「シットコム」と言うスタイルのテレビ番組である。シチュエーションが固定されたコメディのジャンルの一部であり、観客の笑い声が作品に混じって聞こえることもある。欧米圏で人気がある。

この映像の字幕において、正確に言葉を起こしているのは日本語の方である。しかし、その日本語の字幕ははっきり言って誰も読まない。なぜなら彼の言葉は自閉し、意味をなしていないからだ。イメージだけがくっつき、内容が破綻している(シニフィアンがシニフィエを凌駕してしまっている)このような人間の言葉は唾棄される。コミュニケーションの外側に置かれる(彼が笑っている時、誰も笑っていない。おそらく「先生」も)

代わりに、英語の字幕のタイミングで笑い声が聞こえる。つまり、彼の言葉を忠実に再現した文字より、恣意的な英語の文字のタイミングで何者かは笑うのである(本当は英語がグローバルスタンダードなため彼の日本語より、英語の方が受け入れられるというイメージだったのだが統合失調者にとっては母国語話者同士だろうとコミュニケーションは不可能なのだ。それゆえ、本来英語圏の人間の笑い声だったものは加工されて人種の特定が難しいようにされている。それゆえ何者も敵になる)

彼は、自分の言葉を奪われ、何者かが恣意的に埋め込んだ字幕の文字に従って存在が消えていく。それではなぜ、彼はその映像に映ったものに対して従ってしまうのか。

精神科医の春日武彦は、統合失調症の症状で全てを記録していた患者を例に挙げている。被害妄想に取り憑かれ、家族が自分のものを全て盗もうとしていると思い込んでいる患者は部屋中にビデオカメラを設置し、その動きを観察し続けていた。多くの患者は、自分の妄想・病理に苦しんでいる。そしてそれからの脱出を願っている。そのために、確固たる「エビデンス」としてビデオカメラの映像を信頼している。

「もし、このカメラに映っていなければ家族は私のものをとっていないと信じられる」と思いたいがために。しかし、統合失調症は病理が主体の患者と完全に結びついてしまう。それゆえ、「今日は取らなかったけど、明日は取るかもしれない」となってしまい、その行動は無限に繰り返される。つまり、悪い結果だけを採択する装置になってしまっている。

もしこの男が、自分の姿を写した映像を見つけた場合どうなるのか。深い諦めの中で、己の言葉が誰にも受け止められず空回りし、笑わせようとして笑われず、予期せぬところで笑われている自分を見つける。バラエティのような笑い声も、それを付け足した声だとは思わず、実際に「笑われている」という事実だけを強化する材料にしかなるまい。

象徴界が破綻し全てを現実界で受け止める混沌としたイメージの世界に生きる彼らにとって、クリアなイメージを提出する公正な存在であるカメラはもはや「神」に等しいものである。しかしながら、そのイメージをどのように受け止めるかまでは誰も気に留めることはない。正しく記録するが故の暴力性を誰も指摘しない。この映像の字幕や声が彼の妄想だとしても、それを指摘することも止めることは誰にもできない。彼自身にもできない。

最後に

コンセプトをまとめることに苦労した。多くの直感やイメージだけがあって苦しかったが、藤家くんの対話やアドバイスにより一応完成することができた。私のコミュニケーションの不器用さによって応援をうまい具合に頼むことができないまま映像制作をやってしまったがもちろん藤家くんがいなければ作品が完成しなかったことは言うまでもない。

また、英訳において藤家くんとさらに保坂明奈さんにも協力してもらった。大いに感謝します。

参考文献

気分障害のハード・コア―「うつ」と「マニー」のゆくえ

著 内海 健 金剛出版 (2020年)

生き延びるためのラカン

著 斎藤環 筑摩書房 (2012年)

屋根裏に誰かいるんですよ。 都市伝説の精神病理

著 春日武彦 河出書房新社(1999年)

精神病理学から読むラカンの理論

著 鈴木國文 『思想』2017年11月号より

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