[x-Music Lab 23春]システムへの抵抗とその軌跡

那須亮介
x-Music Lab
Published in
Jul 30, 2023

初めに

私の研究は、一つのプロジェクトを1年間を通して遂行するという形式をとっていない。多数の作品を作りながら、自分が何を研究目標としたいかを考えていた。そして現時点では自分が表現したいものが「システムへの抵抗」だと類推した。つまり、あらかじめ「システムへの抵抗」を目標として、作品を作っていたわけではない。結果としてそうなったということだ。

私の当初の目的は、作曲における「ひらめきの必要性について」だった。自分が作曲をしていく上で、「ひらめき」と呼べるものは実際はほとんどタスクとして処理できるのではないかという考えのもと、周りのフィードバックを貰いながら、一人称研究として日記や作曲中のアイデアを書き留めるというアイデアだった。しかし、先生方から「研究室でやる意義が見えない」「個人の作曲業と研究は別物」と指摘を受け、それに納得した。よって、考えたアイデアは破棄されて、その代わり、毎週作品を作ることになった。

作品群

この様に、成り行きで始まった締切のある生活だがむしろ「ひらめく」ことに関して真摯に近づいている行為の様に思える。毎週作品を作るということは、毎週「ひらめかなくてはいけない」ということだ。嫌でもその事で知見を得ることはできるだろう。

ことばをこわすとどうなる(05/26)

去年の研究では、人間が歩くことを困難にさせるリズムの研究をしてきた。それは私がリズムという定型的なモノに乗っかれる人々に対して違和感を覚えているからだ。どこかでマイノリティへの作品を作るべきだと考えていたのだと思う。

何か作品を作ろうと思った時、入管法についてのニュースがとにかく気になった。ウィシュマ・サンダマリさんが名古屋出入国在留管理局に収容されて亡くなった時、彼女のローマ字で書いた仮放免申請書の画像が流れてきた。それが私の中で結びついた。

正しい日本語を書けないものは日本人ではないのだろう。私は果たして日本人なのだろうか。言葉を使えず、痞えて、「し」も「詩」も「私」も「死」も区別が出来ない聡明ではない人間は日本人なのだろうか。

聡明な人間ならば「日本人に生まれてよかった」と宣言できるだろう。

Void of Tokyo(06/10)

政治的である作品を作ろうと思ったわけではないが、一度触れたのなら中心まで突き進むべきだと思った。最も巨大でこの国の中心にあり、不可思議なものといえば私の場合皇居に他ならなかった 。

ここでは渋谷と皇居をフィールドレコーディングをしている映像作品である。渋谷と皇居は騒がしさも自然の多さも違うが、工事で開けられていく「穴」と皇居の堀が綺麗に落ち窪んでいてまるで「穴」のようであるという点でその二つがつながる。戦後の経済成長とそれを支えた天皇制という空っぽの政治システムを音によって暴き出す。そして、フィールドレコーディングと映像というメディアの決まり事を外そうと思った。男がマイクをむけて風景の映像が重なる時、人はそこに同期を見つける。つまり、音と映像は必ず同じ場所で撮られているモノだと錯覚する。しかし、これは結局編集によって作られたフィクションである。皇居の堀に向かってマイクを向けると無音である。もちろんそんなわけはない。これは編集で消した作り物である。作り物だということを人は時々忘れる。天皇制というシステムが人工的に作られ、今も延命させられているフィクションが我々の国を支えている。

性的不能音楽「Born to be wild」(06/16)

日本の中心まで行くとそこは空虚であった。その空虚さを、この国に漂う空虚さを表現しなくてはいけない。この時は音で勝負したいという気持ちがあった。そのためにダンスミュージックと日本の戦後体制について語るべきだと考えた。

ダンスとは肉体を取り戻す行為であり、また自分の能力を相手に誇示する役割を果たす。つまり闘争のためにダンスが存在している。しかし、戦後日本においてその必要はない。日本に暴力はない(自衛隊は暴力装置だと指摘した議員もいたが)かといって、明確な民主制度があるわけでもない。第二次世界大戦以後、それらの事を「なあなあ」にしてきた、経済国家の日本である。肉体のない仮初の国家だ。それゆえ、この国にダンスという文化が根付いているとは私はあまり思えない 。

ジャズミュージシャンの菊地成孔は「ダンスは薄めたセックスである」と指摘し、哲学者の千葉雅也は「ジャニーズの身体は戦後民主主義の日本が世界のリアリズムからコンドーム一枚隔てられた宙吊りの状態の中で熟成された、憲法九条的な身体だったのではないか」と述べた。

空っぽの日本という議題を引き続き考えたとき、この視点が私の中では重要だった。日本における空虚さを音楽で表すときに私はダンスミュージックを作るべきだと考えた。しかし、それは「間抜けでやる気がなくどこまでも中途半端なダンスミュージック」だ。

今回の曲、「Born to be wild」は去勢されたダンスミュージックである。ここには人を踊らせるものは何もない。キックもなく、低音の歯切れは悪い。甲高く、中性的な(去勢をされたような)ピッチの高い声が「Born to be wild」と情けなく歌う。反語だ。そして情けなくハミングをする。下手くそな口笛も吹く。聞いてるだけでやる気が出なくなる、情けない気持ちになっていく。興奮から限りなく遠い音楽を目指す。

logicのドルビーアトモス機能を使って、バイノーラル効果を施した。各トラックに360度、様々な位置から音が出るようにした。これにより、本来あるべき定位の音を全て移動させて、人間を整理的に踊らせない様な気持ち悪い音楽を目指した。

真空(06/23)(未完成)

この作品は完成しなかった。このぐらいの時期になると一週間で作品を作る身体感覚が身についてきていた。しかし、その「とりあえず作品を作る」ためだけに自分が出来の悪い風刺をやっているような気分になって嫌になった。ニュースを見ていると陰惨なことばかりで、その度にネタは浮かぶが、ネタを探すためにそういうモノに触れることはどこか不誠実で楽をしている気がした。もっと孤独で個人的な表現へ向かう時期に差し掛かっていると思った。

ちなみに「真空」の概略は以下のようなモノだった。

音がする。換気扇の音か、ノイズのような環境音だ。難民の男がいる。アクリル板の向こう側には入管管理職の男がいる。お互いの顔は曇っていてよく見えない。男は淡々と決まりきった質問をする。難民が何を喋っても入管の男は意に介さない。入管の男は「システム」の一部だ。。難民の男の声は不明瞭になる。手話を試みるも、ぼんやりしていて何も見えない。難民の男の息遣いが荒くなる。空気が薄いからだ。板ひとつ向こう側の世界では入管の男は同僚と普通の会話をする。普通の人間でもある入管の男。やがて難民の息が聞こえなくなる。そこは真空の世界だ。生きることを許されない世界である。空気もないということは音もない。非常に静かな世界。もう環境音は聞こえない。難民は、故郷にも日本にも吸う空気はない。何も聞こえず、アクリル板越しに難民が横たわってるのがぼんやり見える。入管の男はペンが机にぶつかる音を鳴らしながら、書類を埋めていく。板の向こうの難民の事は、気にしていない。

The Rhythm of Solitude(07/14)

この作品が、前期の最終作品になることはわかっていたのである程度、まとめになるようなものを作りたいと考えていた。卒プロミーティングで佐野風史から「那須くんのアーティストとしてのステートメントを考えてみたら?」とアドバイスをもらった。そこで僕は「システム」と答えた。ということで僕は「システム」についての作品を作ることにした。

自分の作品を振り返ると何らかの制度に対して反抗していると気づいた(天皇制、戦後日本、入管法)そして、前回からの課題でもっと孤独で個人的な表現に向かわないといけないと決めた。僕の中で最も身近で反抗したいものは「生活リズム」である。

世界には正しいリズムというのがある。それは朝起きて、電車に乗って、学校や会社に行って夜寝るということだ。社会は基本的にそういう人用に作られている。そうでない人は世界に含有されていない。

僕は基本的に昼夜逆転している。外に出る時間にはほとんどの店は閉まっている。僕は信号の点滅を無視する。夜中に車は通らないから。近所に工事現場のポールがいつの間にか置いてあっていつの間にか消えていた。大きな家が更地になっていた。僕の人生において大体の事柄はいつの間にか知らないうちに消えてなくなっている。世界と僕は関係がない。リズムが違うから。風が吹いて草木がゆらめいたり、水面が揺れたりすると敵意を感じる。花鳥風月的なモノには興味がないし、お前らと俺は違う世界にいる。結局、自然とも人間ともあまり喋らない。孤独。そのような表現を目指した。

展望

「作品を作る」ということを念頭に置いていたので、完成度を高めることにプライオリティを置けなかった部分もある。作品を作る感覚は掴んだのであとはその強度を上げることが重要となる。人に深く突き刺さるような作品を作るためには、もう少し骨太にならなくてはいけない。何か手にとるような作品を作ることにも少し興味はある。情報量は多く、巨大な感情を削ぎ落とさずに、それでいて人に伝えられるように努力をしたい。

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