データの永続性

電子的な記録媒体への不安

つい先日、北朝鮮が水爆実験に成功したとの発表をおこなった。その真偽はさておき、隣国がポーズであれ核兵器の開発を続けていることは脅威であることは間違いない。発射すれば数時間のうちに凄まじい破壊力を持った兵器が東京に落ちてくる。

しかし、この文章で言いたいことは、核の脅威とかそういったものでなく、実際に核戦争が始まり、世界中のデータセンターがなくなってしまった場合に、今この世の中にあるデータの何割がなくなってしまうのかを考えてみると恐ろしい、という話である。ここで核戦争などという物騒な話ではなく、もっと一般的になんらかの脅威や天変地異で電子的な記録媒体がなくなってしまったとして、例えば1000年先の考古学者が現代を調査しようとしてどれほどの情報が得られるのかを考えると、たいへん興味深い。

たとえば、いまから1000年前というとちょうど西暦1000年頃で、日本は平安時代のまっただ中。貴族の時代であるこの時代にはすでに多くの文学作品が残されていて、源氏物語、枕草子、今昔物語集、蜻蛉日記、土佐日記など、多くの人びとが中学、高校のころにその一編を読んだことがあると思う。それらは現代語訳され今の時代にも受け継がれている。

こういった文章が1000年を経ても残されている一つの理由は、紙と墨というその記録媒体によるものだろう。もちろん、その時代に手に入る記録媒体がそれしかなかったわけだが、「記録し保存する」という点において大変優れていることは、先のような事実から明らかであろう。

一方で現代は多くの記録がパソコンやスマートフォンといった端末を通じて、ハードディスクやテープといった電子記憶装置に保存されている。電子記憶装置に保存される際には0と1のバイナリデータの形となるため、それがなにを表すかは記録方式の仕様に依存する。その記録方式の仕様は、データの書き込みと呼び出しを行う端末の仕様に依存する。さらにセキュリティのために暗号化なども行い、意味のある形として取り出すには復号化を行う必要がある。一つの記録を呼び出すためには多くの媒体や端末を必要とし、その一つが欠けてもいけない。

もちろん、木簡や紙といった物理的な記録媒体も、多くが経年劣化によりそこに書かれたデータを読み出すことが困難であったり、そもそも物理的に記録媒体として存在できなくなってしまっている。しかし、いまこうしてここに記している文章が、意味ある形で1000年後に存在し続けられる確率は、同じものを紙に記した場合よりも少ないのではないか。

今日は、そんなことを考えながら、書き初めを行った。