つくる

骨挫傷になったおかげでバイトを休むことができて、その時間で『ハリー・ポッター』を賢者の石から死の秘宝Part 2まで見返した。小学生の頃はホグワーツ魔法学校から手紙が届いたら親にどう説明しようか、魔法使いという避けられない運命を伝える方法を考えていた。しかし、11歳になっても12歳になっても手紙が届くことはなく、小学校の卒業アルバムの好きな芸能人の欄に「エマ・ワトソン」と書いたときには多分諦めていたのだろう。21歳になった今、魔法で膝の骨が治ることはないことは知っているが、もしかしたら当時よりもずっとファンタジーを現実的に考えている。

私の好きなファンタジー作家にチョン・セランがいる。『保健教師アン・ウニョン』ではゼリーの生き物が見える保健室の先生が学校で起こる怪奇現象に立ち向かう。『声を上げます』という短編集では、地球温暖化が進んだ結果巨大ミミズが出現した地球で、ミミズ研究者の母二人を亡くした娘が専門家として解決に乗り出す話がある。どちらも『ハリー・ポッター』のように鮮やかなファンタジーではなくシュールでポップな低温度のファンタジーだが、それでもそこは別の世界であり別のルールを持つ。『声を上げます』では巨大ミミズに対抗できる唯一の専門家である少女が女性だからという理由で会議で聞く耳を持たれない状況が描かれる。それまで散々人類滅亡の話がなされたのにも関わらず、急に差し込まれる現実。「いや今にも世界が滅びるって言ってるのにまだそんなことが大事なの?」と突っ込んでしまいそうになる。私たちの現実を巨大ミミズの世界を通して見ることで、普段経験する「聞く耳を持たれない」日常をただなぞるのとは異なる実感をもたらすのだ。

ファンタジーの大きな作用は、世界の前提をつくりなおすことだ。私たちは生まれてからずっと一つの世界を生きる。別の世界を知らない場合、自分が抱いている多少の居心地の悪さや自分の意思だと思っているものを疑うことが難しい。だからこそ、ゼリーや巨大ミミズの力によって「なぜあなたはこの世界を選ぶのか」ということを問うのだ。

卒業アルバムに「エマ・ワトソン」と書いた12歳の私はそのまま女子校に入学した。ホグワーツ魔法学校ではなかったものの、それは後々語ることになる別の世界だった。中高時代の友人と女子校について話した時、ある一人が「もし女子校に行ってなければ、男性の望む女性を演じることが本当の自分だと思ってしまっていたと思う」と言った。今思い返すと、女子校はファンタジーのようだ。共学の大学生として私が生きている現在の世界とは様相が大きく異なる。女子校時代の友人と「あの時はああだったよね」と話すことは単に過去に対する回顧だけでなく、そのギャップにどう自身を調節していいのか分からない戸惑いでもある。しかし同時に、「あの時はああだった」と思い出すことは別の世界を手放さない最後の手段でもある。セリーヌ・シアマは映画の中で女性だけの空間を作るが、それも同じように一種のファンタジーだ。今の世界で女性だけで生きれる空間などほとんどない。しかしだからこそ、この世界のオルタナティブを考える方法として、世界をつくりなおす方法として、考えていきたいのだ。

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