10/4 Crémaillère(引越し祝い)、世界はほんとうに拡大したのか

amayadori
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Published in
Oct 5, 2021

19区の家は小鳥の巣のように小さかった。
6人も入れば身動きするたびに肩や膝が触れ合うのでじっとしているうちに足がしびれてしまう。椅子や机がじゃまになるからぜんぶ取り払って、床に大きな敷物を広げ、おうちピクニックと称していた。
今の家は広くなったので気兼ねなく人が呼べる。郊外だし、最寄りのメトロからかなり歩かなければならないからちょっと遠出させることにはなってしまうのだけれど。
友達とは一対一で会うのが好きだけれど、そうでなければ30人くらいいっぺんにその場に集ってもらって、自然と友達同士が盛り上がって仲良くなってくれるようなものを見るのも好きだ。ほらね、気が合うと思っていたよ。ということもあれば以外なところが繋がったりする、そういうのを何となく眺めているのが好き。

ちょうど引越してきてから1年が経ったので引越しパーティを催すことにした。
本当は一年前、引越しですぐに開催したかったのだけれど、パリは11月から二度目のconfinement(ロックダウン)に入ってしまった。その後もうまくタイミングをつくれず今になった。
ただお酒を飲むだけじゃなく、音楽家やダンサーやも呼んで、その人たちが繋がるような場所になるといいなあと思ったのだけれど、うまくいったかどうか。

50人くらいの人がちゃんとお腹いっぱいになるようにと給食センターの人みたいに食品を買い込んで、数日かけて仕込みをして当日に挑んだのだけれど、あわあわあっちにいったりこっちにいったりしているうちに半分も予定のものが出せなかった。
でも、まあいい。
みんな楽しくしてくれたかな。
今うちの2つの冷蔵庫と2つの冷凍庫には食品がいっぱい余っていて、しばらくは料理をしなくても済む。

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あるひとの日記を読みながら、なにか特別なことがなくても、どんな小さなことでも虫眼鏡で見るようにして日記にしていた時期のことを思い出す。題材は何だってよかった。警備員のバイトをしながら田舎道に一日中立っていて、袖口にちいさなノートを忍ばせて目に入るものをなんでも書き付けていた。車も人もほとんどこないのに立っていなくてはならなくて、だから私は小さな声で歌の練習をしたり空想をしたり、目の前の道にほこりが巻き上がればそのことを書き、飛び交う鳥を見て、遠い消防車のサイレンを聞いた。
なんにもない、ということはいつもなくて、目の前のいまのことに入り込んだらそれはちゃんとふくらんだ。
今もほんとうはそうなんだけど、つい面白いことがないかな、ためになる読み物がないかなと携帯を開いてしまう。
インターネットからひろえることは、果たしていま目の前にあることよりもほんとうに面白いのか、そんなことを考えていたら今日はFacebookとInstagramがしばらく停止していたのだった。
小さな余暇だ。
ほんとうにSNSがなくなったら、わたしはきっとほっとするだろう。

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今日読んだもの

十月四日(月) — 小萩 海 — g.o.a.t

天道虫の赤ちゃんは天道を見ることができなかった(下)|イリナ・グリゴレ]— 水牛のように

第65回[岸田國士戯曲賞]に寄せて|柳美里

わたしたちは文学作品を読むことによって、自分の身に起きているのではないかと薄々気づいていることをより一層はっきりとした形で探究することが出来る。文学作品を読むことによってしか呼び覚まされない問題や感覚も存在する

劇団側は観客動員数を増やしていきたいので、「ファン」や「推し」を囲い込み、サークル化していく。そのサークルの存在は、芝居や劇団にとっては重要だろうが、文学者としては邪魔でしかない。劇作家は、そのサークルの中に入ってはいけない。お仲間になってはいけない。徒党を組んではいけない。徒党を組む人というのは、限りなく貧相だ。貧相な文学者は、貧相な作品しか書けない、とわたしは思う。

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