やせいのきょうしつ(5)

Mao Kusaka
にじだより
Published in
7 min readNov 30, 2019

春学期(2019年3月~7月)は、藤沢市の公立小学校に週2回通い、給食の時間を中心にフィールドワークをおこなってきた。秋学期は、学習支援プログラム「きずなレッジ」に、同じく週に2回「ボランティア」として参加している。

サカイさんと話す

10月11日、「きずなレッジ」を運営するNPO職員のサカイさんにお話を伺うことになった。

初日に子どもたちがよじ登ってくるなか案内してくださった方であり、その子どもたちとのあたたかい関わり方が、私がフィールドワークを始めるきっかけになった。彼女は見る度に忙しそうで、業務と業務の間にお時間をとっていただく形となった。今回は、度々感じていた運営者とシニアボランティア間にある緊張感の背景を聞く。特に印象的だったのは、子どもたちの「居方」について意見の対立が昔からあるということだった。シニアボランティアの方々は、『学習支援』というからには宿題や受験勉強をみなければならない。遊ぶのは状況にそぐわない」と語られる一方で、運営のサカイさんからすれば、「自分の目に入る範囲で遊んでくれるだけで安心。知らない場所で犯罪や非行に走ることの方がこわい」とのことだった。このことから、子どもたちの時間の過ごし方についての考え方はそれぞれ異なるらしいということを知った。

子どもたちは、大きく分けて左の部屋で宿題や受験勉強しに来る子と、右のようにサカイさんや他の子どもとおしゃべりしたりゲームや卓球しに遊びに来たりする子の二手にわかれる。

最近は、私自身も教室の外へ出て駐車場や講堂といった場所で子どもたちと遊ぶこともある。どちらかといえば私も、「きずなレッジ」へ遊びにくるだけの子どもたちの存在に疑問に感じることもあった。しかし、サカイさんが「きずなレッジ」が子どもたちにとっての居場所となっていくのを7年間に渡ってみることができたと語る姿が、私が再びこの場所と子どもたちをとらえなすきっかけとなった。きずなレッジには、週に1回の夜間の学校に通う子や不登校の子どもたちもいる。だからこそ、ここで友達ができたり、遊ぶということは彼らにとっての「学校」のようになりつつある様子があるのだろう、とサカイさんは語る。

着目する点での気づき

「現行の公教育の中で様々な工夫をしながら生き抜く子どもたちを照らしたい」という思いから藤沢市の公立小学校、学習支援プログラム「きずなレッジ」でのフィールドワークをおこなってきた。また、本プロジェクトを進めるなかで、私が日常的に子どもたちと関わり、場作りをするきっかけとなった2017年2月からアルバイトとして働くプログラミング教室も比較して考察していく必要があると考えた。したがって、本プログラミング教室を含めた3つの場所を対象のフィールドとして扱うことになった。

10月11日のサカイさんとのお話を皮切りに、それらの場所での出来事をふり返ってみると、子どもたちに焦点をおいて観察しているようで、学校教員やNPO運営者、シニアボランティアなど学習環境をつくるおとなたちの行動や状況、関わり合いの記述が多いことに気がついた。また同時にサカイさんとの会話から、いままでに私が「公立校」や「公教育」とよんでいた学習環境は、「おとなの都合で自由と秩序が混在し、それらがせめぎあう場所」とも言えるのではないかというヒントを得た。それに伴って、①月謝や時間割の有無など、それぞれのフィールドの一般的な状況を改めて把握する ②そこで私が好き好んでいる条件や状態を発見する という2つの課題が浮上した。そのため、以下のように今までの出来事を整理してみることにした。

3つのフィールドから100個の<事件>を

はじめに、私が通うそれぞれのフィールドの性質を改めて理解するために、基本的な情報を整理したものが下図である。

それとなく、「きずなレッジ」とプログラミング教室での授業形式や教材の扱いは似ている気がするのに、後者に不自然さを日常的に感じるのはなぜなのだろう。

次に、日々フィールドに通う中で出会った印象的な事象を<事件>として取り上げ、これまでの雑多な記録を系統立てて整理した。3つのフィールドでは、違う媒体や方法で記録を行ってきた。したがって、今回はそれらを同じフォーマットに落とし込むことを試みる。

3月7日小学校で起こった「バナナパン事件」を例にプロットする

取り上げた100個の<事件>は、それぞれ「事件名」「事件の内容」「(時系列的な)事件の流れ」「きっかけ」「誰(先生、おとな、子ども、私)がなにをしたか」「事件が起こった場所」の8項目にわけることにした。これによって場所や人など、ある事柄を主軸と定め、3つの異なるフィールドの人々が繰り広げる様々な行為を、以下のようにひとまず整理することが可能になった。

緑の点は、事件が起こった場所を示す。その他の場所としては、教室と同じくらい運動場での件数が挙がった。入ることの多かった4組での事件が1番多いが、それと同時に教室の後ろでの事件率も高いことが図からわかる。
私が長い時間を過ごしている場所に多い可能性もある。また、個人情報の規制が厳しい現代において、プログラミング教室での生徒たちと「一緒に帰る」ということはほとんどない。したがって、「帰り道」での事件は一度もなかった。
同じ先生に対する私の反応でも、学校ではハラハラしている自分に対して、きずなレッジでは肯定的にとらえていた。 同じような事例がないか、つぶさに振り返る必要がある。

整理してみた時点での考察として次のように考えた。まず、「きずなレッジ」での事象は分類しづらいものが多かった。その理由として、フィールドいる人々にとっての「なんてことのない日常」のような状態的なものが<事件>としてあげがちであったため、事の発端がわかりづらいということが言えるだろう。それと同時に、OB・OGや浪人生、中退生などの存在が、「子ども」「大人」の境目がわかりにくくしていたことも原因としてあげられる。また<事件>全体の記述・分類分けを通して、私自身がいたからこそ起こった一人称的な事件もあれば、私なしに始まる三人称的な事件も混ざっているという気づきもあった。

今後について

「きずなレッジ」での記録を見直すと、やや強引かつ乱暴に、しかし楽しげにシニアボランティアや子どもたちが関わり合う様子を始め、老若男女関係なしにはしゃぎながら帰路についたり、勉強の合間にテニスボールで卓球したりと、半ば「学習環境」らしからぬ場所とそこで育つ子どもたちに、今尚惹かれている自分がいることに気がつく。

しかし研究が終盤に差し掛かり、アウトプットについて思いを巡らせると、その予測不可能でカオスな環境や関わり合い、ハプニングに魅力を感じていたからこそ、自分や誰かの手で「つくることができる」「再現できる」メソッドやケーススタディのようなものを制作することは、矛盾であるように感じるのだ。再現することが困難だからこそ、自分の制作物をみて「こんな学習環境の形容の仕方があるのか」と思っていただけるような作品をつくれるように、残された時間を有効に活用しながら理想のメディアを選んでいきたい。

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