芸術への入門 — 第9章 芸術と力 —

Japanese translation of “Introduction to Art: Design, Context, and Meaning”

Better Late Than Never
48 min readOct 28, 2018

ノース・ジョージア大学出版部のサイトで公開されている教科書“Introduction to Art: Design, Context, and Meaning”の翻訳です。こちらのページから各章へ移動できます。

第9章 芸術と力

パメラ・J・サチャント(Pamela J. Sachant)、リタ・テキッペ(Rita Tekippe)

9.1 学習成果

この章を終えたとき、あなたは次のことができるようになっているでしょう:

•いくつかの文化において、芸術と芸術家が例外的な力を持っていると考えられている理由とそのあり方を記述する。
•説得の画像とプロパガンダの画像を区別し、それぞれの特徴を特定する。
•力を誇示し、社会に影響を与え、そして変化をもたらすような目的のために画像が使用される理由とそのあり方を認識する。
•画像が支配者の地位と権限を確立し強化する方法を示す。
•芸術家の意図や公衆の反応を含むさまざまな文化や時代において、紛争、勇敢な行動、暴力的な対立の犠牲者の画像の変化を特定する。
•一部の宗教内で実施されている画像の禁止を区別し、記述する。
•抗議者や征服者が過去の、または敗北した文化の画像や記念碑を破壊するかもしれない理由を記述する。

9.2 はじめに

芸術は常に力に関連付けられています。歴史のなかで幾度も、芸術を作った人たちは特別な力を持っていると見られました。彼らは、形状や形態を概念化し、それを現実のものにしました。彼らは、泥、灰、石からまるで生き物のように見える画像や物体を作成することができました。これらの個人はほかの人からは際立っていました。彼らはものを変化させることができ、命を与えることができました。また、作成した画像や物体もまた、力を保持します。それらは目に見えない世界とのコミュニケーションの手段であり、人間の福利と行動に影響を及ぼしていました。そのため、芸術家とその芸術の両方は、それらが日常の、共通の、共有された存在の領域の外側にいるという点で、魔術的であると考えられていました。それらは超自然的で、異常なものでした。

古代ギリシャ人は、芸術家の所有する創造性は、ミューズから、すなわち彼らが執筆し、彫刻し、作曲するように霊感を与える知識と技能の人格化されたものから彼らにもたらされると信じていました。家族を社会組織の最も基本的で不可欠な中心点と強く信じていた古代ローマ人は、そのような導き手となる精神のことをジーニアス、つまり天賦の才と呼び、これはラテン語の動詞 genui の「存在を生じさせる、創作する」という意味から来ています。天才という言葉は、ルネサンス期に芸術と関連付けられるようになりました。その時代にはこの言葉は、しばしば所有の形態として芸術家に訪れたインスピレーションと想像力の意味を持ち、その結果、芸術家は非天才から分離され、それとは対置させられるようになりました。

芸術家の力に加えて、生命をまねたり模倣したりする芸術そのものの力があります。ふたたび、古代ギリシャ人によると、芸術の力は自然を表現する能力にあります。表現がより真に迫り、より現実的で、より自然であれば、芸術作品は真実、美しさ、そして力に近づきます。他の文化、特に表現を避ける文化の中でも、芸術は依然としてかなりの力を持つ美的表現の手段ですが、しかしそれは抽象化された形態においてです。たとえば、イスラム文化では、神のみが生き物を創造する能力を持っているために、宗教的な芸術や建築物には直接の観察に基づく人間の姿や形は使われていません。代わりに、文字で書かれた言葉と人間、動物、植物の形に基づいた精巧な装飾が、複雑なモチーフや模様で表面を飾るために使われます。

力を持つ人々は様々な時代を通じて、具象的であろうと非具象的であろうとその画像や物体の視覚的な力を、彼ら自身、彼らの願いや命令、彼らの成果、そして彼らの支配する権利についてのメッセージを形作り、伝えるために使用してきました。人類の歴史の中でつい最近になるまで、識字能力の技能を発展させるだけの手段を持つ人はほとんどいませんでしたが、世俗的および宗教的役割を担う指導者たちは、臣民と信者の間で視覚的な識字能力、つまり主題、象徴、および様式という共通「言語」を通じて画像を「読み」、理解する能力を育んできました。確立された権力に抗する手段として美術を使いたいと望む人たちもまた、彼らのメッセージを視覚的に伝えるために同じ「語彙」を伝統的に使っています。特に戦争時や抑圧の時代に、芸術は抗議し、記録し、代替案を提供し、歴史的記録となる人々や出来事について他人に伝えるための道具として使用されてきました。

9.3 プロパガンダ、説得、政治および力

プロパガンダという言葉は悪い評判を得ています。プロパガンダという言葉のラテン語の由来は、「流布するまたは広める」を意味する propagare です。今日使用されているように、この言葉は見解、信念、行動に影響を及ぼすために、情報 — しばしば偏見のある、誤解を招く、時にその意図が隠された情報 — を宣伝することを主に指しています。もともと、この言葉は今日一般的であるように政治に関連してはいませんでしたし、嘘や悪意を意味するものでもありませんでした。プロパガンダは単に考え方や指示などを公に伝える手段でした。そのような場合、私たちは今では、説得という言葉を使用する可能性が高いです。説得という言葉は、より中立的な意味合いを持ち、強制ではなく納得を示唆をします。たとえば、広告は、消費者が選択や購入をするよう説得 — あるいは誘惑 — しようとします。しかしながら、多くの人にとってプロパガンダと説得の間には微妙な差があります。それらは、どのようにして届けられるかというよりも、目的や意図(良い、悪い、中立的)によって隔てられます。ガース・ジャウエット(Garth Jowett)とビクトリア・オドンネル(Victoria O’Donnell)は、この2つの言葉の間の微妙ですが重要な違いについて説明しています。

プロパガンダとは、プロパガンダ流布者にとって望ましい目的を促進するような反応を得るために、知覚を形作り、認知を操作し、行動を導く、意図的で体系的な試みである。説得とは、双方向性であり、説得する者と説得される者の両方の必要性を満たすよう試みる。[1]

[1] Garth Jowett and Victoria O’Donnell, Propaganda and Persuasion, 6th ed. (California: Sage Publications, 2014), 7(「大衆操作 : 宗教から戦争まで」(原著第2版の翻訳)ガース・S.ジャウエット、ビクトリア・オドンネル共著、松尾光晏訳、1993年)

ダレイオス1世(在位紀元前522–486年)は、今日のイランにあるペルセポリスにアパダナを建設したとき、説得とプロパガンダを心に抱いていました。(図9.1)ダレイオス1世は、アケメネス帝国(紀元前550–330年頃)の最初の王であり、この地に建てられた王の建造物を建てましたが、その建設は続くペルシャ王たちによって約百年の間続けられることになりました。アパダナは紀元前515年に建設が始まり、30年後にダレイオス1世の息子であるクセルクセス1世(Xerxes I)によって完成されました。アパダナとは、柱で支えられた屋根を持つ石造りの建物である多柱式ホールを意味します。そこにはもともと72の柱があり、そのうち13本が今も立っています。柱はそれぞれ62フィート(約19メートル)の高さがあり、200×200フィート(61×61メートル)、つまり4000平方フィート(3720平方メートル)の大ホール内にありました。言うまでもなく、そのような比類なき大きさの建物は、そこに近づく人々にとって圧倒的な光景でした。この高い構造物は、色とりどりに明るく塗られるとともに、基台の上に建てられ、その後ろにはクウ・エ・ラフマット(Kuh-e Rahmat)すなわち慈悲の山がそびえており、東側の植生のまばらな平原からは数マイル離れたところからでも見ることができたでしょう。

図9.1 | アパダナ宮殿、イランのペルセポリス(The Apadana Palace, Persepolis, Iran), Author: User “Happolati”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

ダレイオス1世にとって、アパダナとペルセポリス — ペルシャ人の都市 — は、全体としてプロパガンダの声明でした。この多柱式ホールと都市は人に畏敬の念を抱かせ、おじけづかせるものでした。それらは鑑賞者に対してはっきりと王が巨大な力と莫大な資源を持っていたことを知らせます。王の間に入ると、鑑賞者は、計り知れないほどの重さのある天井を支える現代の6階建ての建物に相当する高さの柱の形でもって、彼の強さに囲まれました。このような力の中で、訪問者はどれほど小さくて無力であったことでしょうか。しかし、西はエジプトから東は今日のパキスタンであるインダス渓谷まで帝国の版図を広げたダレイオス1世は、支配と恐怖によっては効果的に統治することができないことを知っていました。そのため、彼は説得の要素もペルセポリスに含めました。

建物の華麗な荘厳さに加えて、そこには豪華で優れたフレスコ画、光沢のあるれんが造り、浮き彫りの彫刻が施されています。アパダナが建設された基台へとつながる2つの階段が北側と東側にありますが、ダレイオスの生前には北階段のみが完成しました。その階段と両側の基台の壁は、浮き彫りで覆われています。そこには、ペルシャ王の間に近づくにつれて、均一の、規則正しい人物の列が描かれています。(図9.2)彼らはアケメネス帝国の23カ国の代表者であり、新年の祭りの際に贈り物を携えて王に敬意を表すためにやってきました。彼らに付き従うのは、ペルシャ人の高官、続いて武器を持つ兵士、馬、そして戦車です。ペルシャ生まれの人と外国生まれの使節団は、浮き彫り彫刻のこのようなフリーズ、つまり列の中で一緒に示されています。(図9.3)彼らは、彼らの民族性に対応する顔の特徴、およびどの地域から来たのかを示す髪、衣服、アクセサリーを帯びています。その贈り物さえも、自国の物品や動物です。外国人をペルシャ人の服従者として表すのではなく、彼らはお互いに交流し、時に会話をしているように見えます。

図9.2 | アパダナの階段、ペルセポリス、イラン(Apadana staircase, Persepholis, Iran), Author: User “Fabienkhan”, Source: Wikimedia Commons, License: Copyright, Special Permissions Granted
図9.3 | ペルセポリスの浮き彫り(Reliefs at Persepholis), Author: User “Ziegler175”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

階段の浮き彫りは、壮大な建物全体とは対照的に、説得の一形態と見ることができます。臣下を味方に引き込み、彼らの信頼、忠誠、協力を得ることは、強制と服従によって彼らの意志を捻じ曲げるよりも、王の利益にかなうものでした。彼が遠く離れた敵を倒す力を持っていることはすでに実証されているため、ダレイオス1世は、使節団が彼の大広間へ向かって階段を上ってくる際に、忠実な臣下に向けた敬意を文字通り展示することができました。

より最近の歴史では、ジャック-ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David、1748–1825年、フランス)は、1801年から1805年にかけて「アルプスを越えるナポレオン(Napoleon Crossing the Alps)」の5つのバージョンを描きました。(図9.4)ダヴィッドはパリで生まれ育ち、1766年に18歳で美術学校(École des Beaux-Arts)に入学しました。そこでの8年間の学業である程度の成功を収めた後、ダヴィッドは1774年に、イタリアへの旅行を含む権威ある政府奨学金であるローマ賞を獲得しました。彼は1775年から1780年にかけてローマに住み、古典時代の過去からルネサンスを経て、そして現在に至るまでの偉大な巨匠たちの芸術を学びました。しかし彼は、同時代のいくつかの哲学的、芸術的理想、イタリアで出会った新古典主義の思想家や画家たちに最も感銘を受けました。

図9.4 | アルプスを越えるナポレオン(Napoleon Crossing the Alps), Artist: ジャック-ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David), Author: User “Garoutcha”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

彼はフランスに戻るとすぐに、この新しい様式の作品を発表し始めました。新古典主義の様式(1765–1830年頃)の作品は、そのくすんだ、感情的な色調、家族の忠誠心と愛国的な義務の物語、細かいディテール、そして鋭い焦点のために、軽薄で感傷的な主題と繊細なパステルの色合いを持つ、当時一般的であったロココ様式(1700–1770年頃)とは著しい対照をなしていました。1780年代を通して、社会的な断絶と政治的な混乱が1789年のフランス革命に向かって高まっていったため、ダヴィッドが描く古典と現代の歴史からの自己犠牲的で、禁欲的な英雄たちは、ますますリベルテ・エガリテ・フラタニテ、すなわち自由、平等、博愛(普遍的な兄弟愛)に対する大衆の望みを反映するようになりました。

革命の余波の中で、1790年代の移り変わりの早い時代には、ダヴィッドはまず短命であった共和国の有力者となり、その後失脚して投獄されました。しかしながら、1799年に第一統領となったナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte)が、1800年にダヴィッドに肖像画を描くよう委託すると、ダヴィッドの公的な地位への帰還が達成されました。

委託は次のようにされました:1800年の春、ナポレオンは、オーストリア人が占領した土地を取り戻そうという試みの中で、すでにイタリアのジェノヴァにいるフランス軍を支援するために、軍を率いて南に向かっていました。彼は6月9日のマレンゴの戦いで軍を指揮しました。この勝利により、フランス革命の11年後にフランスとスペインは外交関係を再構築し、その機会を記念する贈り物の正式な交換の一環として、スペイン王のカルロス4世はマドリッドの王宮にナポレオンの肖像画をかけることを申し出ました。ナポレオンはこれを知ると、ダヴィッドにさらに3つのバージョンを依頼しました(そして、この画家は独自に5つ目を制作し、死ぬまで手元に残していました)。

それは、ナポレオンが指定した乗馬の肖像画でした。すなわち、馬の背にまたがり、アルプスのグラン・サン・ベルナール峠を越えて、予備軍を南のイタリアへと率いる彼を描いています。ダヴィッドは、ナポレオンのことを、活気のある後ろ足で立った馬にまたがる、落ち着いた決断力のあるリーダーとして示し、ナポレオン以前にアルプスを越えた彼の英雄であるハンニバルやカール大帝と似せています。彼らの名前はこの絵画の左の前景にある岩の上に、ナポレオンの名前とともに刻まれています。しかしながら実際には、そのようなことは決して起こりませんでした。ナポレオンは、兵士たちが通過した数日後の天気の良い日に、ラバの背に乗って、アルプスを越えたのです。

ナポレオンがダヴィッドに描くように求めていたのは、プロパガンダの作品でした。そして、この芸術家は素晴らしい成功を収めました。風が彼の周りに外套を打ち付け、大きく目を見開いた馬の手綱を片方の手でしっかりと握るとともに、もう片方の手で峰の上への道を指し示し、そして彼の完璧に落ち着きはらった外見をもって鑑賞者の視線をくぎ付けにすることにより、ダヴィッドは、ナポレオンのことを、民衆を勝利に導き、時代を通じて英雄として記憶されるであろうリーダーとして示しています。それは、ナポレオンが語られることを望んでいた物語でした。偉大なる人間についての時代を超えた理想であり、彼の身体に似せた一時的で些細なものではありません。ナポレオンの主張として帰されているように、「歴史とは、過去の出来事のうち人々が同意することを決めたものである」。

9.4 戦争の画像

芸術が考え方や感情に表現力豊かな形を与える可能性を考慮すると、芸術がしばしば人間の出来事の最も劇的なものである戦争についての幅広いメッセージを提示するために使われてきたことは驚くようなことではありません。すべての形態の芸術は、戦争を支持または反対する理由を表明し、その意味、影響、および効果についての省察を示して、戦争を記録するために使用されてきました。もちろん、より広いスケールでは、すべての人間活動は、人々が互いに批判し、考え方、理想、行動を非難し、文化的、社会的、または個人的価値観を表現する理念を促進または反対する機会なのかもしれません。私たちは、これらの問題に関わる多くの作品をさまざまな方法で検討していきます。

9.4.1 歴史的/ドキュメンタリー的

最も初期の時代から、芸術家たちは戦争と征服の問題と、それらが起きた文化に対するその含意に応えてきました。多くの場合、芸術は勝利の瞬間を記し、勝利を通じて確立された指導者の支配権の確証として征服を解釈するために作成されてきているようです。ナルメルのパレットの場合もそうでした。(図9.5)この両面パレットには、エジプトの王ナルメル(Egyptian King Narmer)(メネスとも呼ばれる)による敵の征服 — 神々の用心深い保護の下で — と、王とその従者たちが10人の敗北し断頭された死体に向かって行進する姿の浮き彫り彫刻の描写があります。第一の面では、ナルメルは上エジプトの王冠を身に着け、その裏側では、彼は下エジプトの王冠を身に着けており、1人の支配者の下で2つの地域が統一されたことを象徴しています(紀元前3100–3050年頃)。彼は敵と味方の男性の両方よりもはるかに大きく描かれており、この人物の相対的重要性を示しています。ナルメルは、文字通り強力で尊敬すべき指導者である、力強く、しっかりとした勇敢な戦士として描かれています。

図9.5 | ナルメルのパレット(Narmer Palette), Author: User “Nicolas Perrault III”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

戦いの中にいる支配者の壮大な芸術的描写は、常に彼らの評判を形成し、彼らの善良で賢明な支配者のイメージを強化するために使用されてきました。軍事的な成功は、正しかろうとそうでなかろうと、政治的な手腕と同一視されてきました。強力なペルシャ王ダレイオス3世(Persian King Darius III、在位紀元前336–330年)とのイッソスの戦い(紀元前333年)におけるアレクサンドロス大王(Alexander the Great、在位紀元前336–323年)の勇敢な偉業はギリシャの絵画に描かれましたが、それはもはや存在しません。しかし、ギリシャの芸術の多くのように、それはローマ人によって複製されたため、私たちはイタリアのポンペイにあるファウヌスの家のために作られたモザイク画でこの激動の戦いを見ることができます。(図9.6)この巨大な描写は、破損しており今では不完全ですが、これら2人の有名な戦士たちの劇的な出会いについて、生き生きとした、ともすれば騒々しいほどの記述を与えてくれます。アレクサンドロスは栗毛の馬の左に見え、逃げ出したダレイオスを見開いた目でじっと見つめています。ダレイオスは相手のほうを振り返りながら慈悲を請うように片方の腕を伸ばしており、戦車の御者はあわただしい動きで王の馬を鞭打っています。

図9.6 | アレクサンドロスのモザイク画(Alexander Mosaic), Author: User “Berthold Werner”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

私たちは、これらの説明がどの程度事実の記録に基づいたドキュメンタリーであるのかを考慮するべきであり、そして私たちが意図的なプロパガンダであると見定めらることができるものについても考慮するべきです。多くの時代で、戦争における英雄と英雄的行為の賛美は、政治的・愛国的な観点からだけでなく、学術的な場面での芸術の訓練の一環として促進された価値観(少なくとも19世紀半ばに美術界で反学術的な反乱が始まるまで、最も成功した芸術家の間で支配的だった価値観)でもあったために、おそらく最優先とされてきました。

ジョン・トランブルによる「バンカーヒルの戦いにおけるウォーレン将軍の死(Death of General Warren at the Battle of Bunker Hill)」で証明されているように、戦争におけるアメリカ人のヒロイズムは確実にこのような観点から構想されました。(図9.7)第8章:芸術とアイデンティティーで議論したように、トランブルはジョージ・ワシントン将軍の補佐官でした。ウォーレンの死をボストンで目の当たりにした後、トランブルはウォーレンの家族によってこの出来事を不朽のものにするための依頼を受けました。バンカーヒルの戦いは、1775年、アメリカ革命戦争の最初の年に行われました。植民者たちは敗北したものの、イギリス軍ははるかに多い犠牲者数に衝撃を与えられ、植民地の若い軍隊の士気は高まりました。トランブルは彼の絵画で、植民地軍が後退する中での将軍の悲劇的な死と、ウォーレンを銃剣で突こうとする1人の部下の兵士を止めるイギリス軍少佐ジョン・スモール(John Small)の慈悲心に焦点を当てました。そうすることで、トランブルはアメリカ人のヒロイズムを称賛しながら、敵の名誉ある行動を認めています。18世紀における会戦の際の行動規範で期待されたことです。

図9.7 | 1775年6月17日のバンカーヒルの戦いにおけるウォーレン将軍の死(The Death of General Warren at the Battle of Bunker’s Hill, June 17, 1775), Artist: ジョン・トランブル(John Trumbull), Author: Boston Museum of Fine Arts, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

トランブルの戦闘場面の描写は非常に美化されています。ウォーレン将軍の死の歴史的に正確な描写は、当時の鑑賞者によって期待もされていなければ望まれてもいませんでした。アメリカ革命戦争と合衆国初代大統領の象徴的なシンボルの絵画である、エマヌエル・ロイツェ(Emanuel Leutze、1816–1868年、ドイツ生まれ、米国に居住)による巨大なタブロー「デラウェア川を渡るワシントン(Washington Crossing the Delaware)」の正確さについても、多くの疑問が提出されています。(図9.8)ロイツェは、1776年にトレントンの戦いが起こってから75年後の1851年にこの作品を制作しました。その光景の起きたままの再構築を試みることからは遠く離れて、ロイツェは彼の作品が、劇的に描写された、崇高で霊感を与えるような出来事の記憶を呼び起こすものとなることを意図していました。

図9.8 | デラウェア川を渡るワシントン(Washington Crossing the Delaware), Artist: エマヌエル・ロイツェ(Emanuel Leutze), Author: Google Cultural Institute, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

1898年にフレデリック・レミントン(Frederic Remington、1861–1909、米国)が「ラフ・ライダーズの突撃(Charge of the Rough Riders)」を描いた時までには、戦争とその描写は大きく異なっていました。レミントンは私たちに、より現実的な、つかの間の、乱闘騒ぎであるような、争いの気迫を伝えてくれます。(図9.9)ここでの含意は、強化された英雄的なものではなく、この出来事に対する鑑賞者の感覚をより親密にすることです。そして、ジョン・シンガー・サージェント(John Singer Sargent、1856–1925年、米国、イングランドに居住)による「ガス(Gassed)」で第一次世界大戦を表した時にいたっては、私たちは全く異なる方向性を見ます。(図9.10)ここでは、私たちは、戦争の致命的な側面に対するサージェントの個人的な応答と、有毒なマスタード・ガスによって物理的に攻撃され、弱体化、嘔吐、そして昏倒といった悪影響を呈している個人にとっての後遺症に関与します。

図9.9 | サン・フアン・ヒルにおけるラフ・ライダーズの突撃(Charge of the Rough Riders at San Juan Hill), Artist: フレデリック・レミントン(Frederic Remington), Author: User “Julius Morton”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain
図9.10 | ガス(Gassed), Artist: ジョン・シンガー・サージェント(John Singer Sargent), Author: User “DcoetzeeBot”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

この解釈の変化は、部分的には、私たちが探求してきたような19世紀の美術における写実主義への変化によるものです。また、実際の状態を記録する潜在能力が高められてきた写真の登場と進化によって、それらは強められました。しかし写真は、その効果を絵画のように操作することができるので、常に鑑賞者に偽りのない真実を提示するわけでは、決してありませんでした。それにもかかわらず、戦争とその影響についての異なる見解の可能性は、写真の到来とともにもたらされました。

アメリカ南北戦争は、写真家が見たものをレンズを通して正確に記録するために新しい媒体を使用する場を提供しました。しかし、装置は煩雑で、感光された写真乾板は現場の特別な装備のワゴンの中で現像されなければならなかったため、この工程では依然として戦闘をとらえる仕事はできませんでした。その結果、ほとんどの写真は、実際の出来事の後で、折り重なる死体と荒廃した戦場を写したものとなりました。(図9.11)それにもかかわらず、その光景は、そのようなスケールでの戦争の結果の眺めに触れたことのなかった鑑賞者を粛然とさせました。アレクサンダー・ガードナー(Alexander Gardner、1821–1882年、スコットランド、米国に居住)は、数々の戦場の風景や、リンカーン大統領などの高官の訪問などを含む、野営地や軍の配置の他の多くの詳細を撮影した多くの写真家の1人です。(図9.12)

図9.11 | アメリカ南北戦争のアンティータムの戦場における死体の写真(Photograph of bodies on the battlefield of Antietam during the American Civil War), Photographer: アレクサンダー・ガードナー(Alexander Gardner), Author: User “Shauni”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain
図9.12 | アラン・ピンカートン、エイブラハム・リンカーン大統領、ジョン・A・マクラーナンド少将の写真(Photograph of Allan Pinkerton, President Abraham Lincoln, and Major General John A. McClernand), Photographer: アレクサンダー・ガードナー(Alexander Gardner), Author: User “Bobanny”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

写真によって与えられたより批判的な解釈の可能性は、それまでも標準ではないにしても、時には取りざたされていました。注目すべき例は、芸術家が戦争や不正義の恐怖や不安にさまざまな形で対応し、そのような状況に対する抗議を明らかにする印象的な解釈を生み出したいくつかの時期からもたらされます。1633年、ジャック・カロ(Jacques Callot、1592–1635年、フランス)は、「戦争の惨禍(The Miseries of War)」を劇的に描く一連のパノラマ式の銅版画を制作しました。(図9.13)1814年に描かれたフランシスコ・ゴヤの記念碑的な「1808年5月3日(Third of May, 1808)」は、ナポレオンの軍隊とメディナ・デル・リオ・セコの町の市民との間の遭遇の恐怖と戦慄を示しており、そこでは3500人のスペイン人が命を失いました。(図9.14)ゴヤの同情は、おびえている同胞たちの真っ只中で、射殺部隊に面して恐怖に陥っている白シャツの殉教者のような人物の表現で明らかにされています。

図9.13 | 戦争の惨禍;第11図「絞首刑」(The miseries of war; №11, “The Hanging”), Artist: ジャック・カロ(Jacques Callot), Author: artgallery.nsw.gov.au, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain
図9.14 | 5月3日(The Third of May), Artist: フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco de Goya y Lucientes), Author: Prado in Google Earth, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

同様にオノレ・ドーミエは、1834年の抗議の際の、パリの労働者階級の家への夜間襲撃の不正義を劇的に描きました。ブレフォール家の12人の家族が住んでいた建物の窓から1発の射撃があった後、兵士たちは彼らの住まいに殺到し、彼ら全員を殺しました。6ヵ月後、ドーミエは、家族たちが倒れてどうすることもできないさまを荒涼としたリトグラフで描写しました。(図9.15)ドーミエはその2年前の1832年に、国王ルイ・フィリップ1世(King Louis Phillipe I、在位1830–1848年)を嘲笑するような戯画(漫画的な効果で誇張した特徴や特性を含む肖像画)を作成したために投獄されていました。この芸術家が「トランスノナン街(Rue Transnonain)」(ブレフォール家が住んでいた通りの名前)を作った直後、彼が使用したリトグラフの石板は政府職員によって押収され、すべての複製物は破棄されました。翌年、政治の戯画は完全に禁止されました。これは、ドーミエの作品が持っていると認識された力と、それが権力者にもたらす危険性を示しています。先に言及したように、戦争とその影響についての異なる見解の可能性は、写真の到来とともにもたらされました。1860年代のアメリカ南北戦争は、写真家が見たものをレンズを通して正確に記録するために新しい媒体を使用する場を提供しました。しかし、装置は煩雑で、露光時間はまだ比較的長くゆっくりしたものであったため、この工程では依然として戦闘をとらえる仕事はできませんでした。アレクサンダー・ガードナーの写真部隊は、将軍、大統領、他の多くの野営地や配置の詳細などのほか、多くの戦闘後の光景を撮影しました。(図9.12と図9.13)この時から戦闘と瞬間的な情念を捕捉する可能性は増しており、それ以来、生き生きとした出来事を記録する能力は広く使用されてきました。ブルドーザーで押し流され、まとめて埋められる死体の画像と、ガードナーの写真やそれ以前に描かれた戦場の栄光とを比較してみてください。

図9.15 | トランスノナン街、1834年4月15日、協会月報24号(Rue Transnonain, le 15 Avril, 1834, Plate 24 of l’Association mensuelle), Artist: オノレ・ドーミエ(Honoré Daumier), Source: Met Museum, License: OASC

9.4.2 内省的/反動的および反戦

これまでに描かれた最も強力な反戦の表明の1つは、スペイン内戦中のゲルニカの町の爆撃に続いて1937年に制作されたパブロ・ピカソによるものでした。彼は、1937年のパリの万国博覧会でスペインのパビリオンの壁画を制作するというスペイン共和国政府の委託を受けており、この攻撃を知った後、この象徴的かつ偶像的なモチーフのひどく心が痛む抽象画をデザインし、この出来事の恐怖を表現しました。(1937年パリ万国博覧会でのスペイン共和国のパビリオン(Pavilion of the Spanish Republic at the Paris International Exposition, 1937): https://thespacearchitecture.files.wordpress.com/2013/05/int2.jpg)彼は詳細に関する知識を新聞報道から収集していたため、彼は、爆撃とその影響を知った写真の写実的な黒、灰色、白でイメージを作成することを選びました。彼による形態の劇的な歪みは、ピカソ自身、彼の同胞のスペイン人、そして世界に生み出された深い苦悩と嫌悪感を伝えます。

20世紀の間に、ドキュメンタリー写真は戦争の残酷な出来事を捕捉するだけでなく、大衆の感情に影響を与え、時には意見を支持から怒りへと変えるような視覚的な方法をもって、恐怖そのものの瞬間を広めるために用いられました。第一次世界大戦の時代までに、技術は新聞での写真の複製を可能にしました。これは、平均的な市民が、以前の紛争よりもはるかに大きな戦争の視覚的な報道を手にしたことを意味しました。ドイツの皇帝ヴィルヘルム2世(German Kaiser Wilhelm II、在位1888–1918年)のような何人かの指導者は、戦争に対する国民の支持を強化する手段として写真を使用することに賛成しましたが、安全保障上の懸念を理由に、写真家による現場へのアクセスを制限し、写真を検閲する指導者もいました。第一次世界大戦が始まる少し前に、イギリス陸軍は初めて航空偵察のための写真の可能性を認識し、調査能力と軍隊の機動力を大幅に拡大しました。(図9.16)

図9.16 | 第一次世界大戦の前の空撮写真(Aerial Photography Before the First World War), Artist: F・C・V・ロウズ(軍曹)(Laws F C V (Sgt)), Author: User “Fae”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

第二次世界大戦中には、アメリカの軍隊や政府機関は、スパイ行為や訓練の支援から、残虐行為の記録や、証拠の提供に至る目的のために、写真の使用を大幅に拡大しました。(図9.17および図9.18)ベトナム戦争(米国の関与は1955–1975年)の間、アメリカ軍は非軍人の記者および写真家に前例のないアクセスを与えました。1960年代に戦争が拡大し、アメリカ人の予想よりはるかに長い期間に及んだ時、紛争と戦争で引き裂かれた国が苦しむ画像は世論に影響を与え始めました。(ベトコンの集中砲火を避けるために泥水の用水路の中に身をかがめる女性と子供たち(Women and children crouch in a muddy canal as they take cover from intense Viet Cong fire), ホースト・ファース(Horst Faas): http://media2.s-nbcnews.com/j/streams/2013/october/131016/8c9400532-pb-131016-vietnam-01.nbcnews-ux-2880-1000.jpg) 1972年、ニック・ウト(Nick Ut、1951年生まれ、ベトナム、米国在住)が、ナパーム弾で攻撃された村から逃げてきた子供たちを撮影したとき、潮流が変わり、多くのアメリカ人はもはやベトナム戦争を支持しなくなりました。(ベトナム空軍の飛行機によりチャンバンの村にナパーム弾が投下された後、ベトナムのチャンバン近郊の道路を逃げるファン・ティー・キム・フック(Phan Thị Kim Phúc running down a road near Trảng Bàng, Vietnam, after a napalm bomb was dropped on the village of Trảng Bàng by a plane of the Vietnam Air Force), フィン・コン・ウト(Huynh Cong Ut): https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/d/d4/TrangBang.jpg)

図9.17 | ドイツ・ヴァイマルのブーヘンヴァルト強制収容所の火葬場の中にある反ナチスのドイツ人女性の骨(Bones of anti-Nazi German women in the crematoriums in the German concentration camp at Weimar (Buchenwald), Germany), Photographer: W・シチェルスキー上等兵(Pfc. W. Chichersky), Author: User “Petrusbarbygere”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain
図9.18 | ギルバート諸島で日本の潜水艦の魚雷攻撃によって沈没した米国海軍の空母リスカム・ベイの2人の下士官が、沿岸警備隊の輸送機甲板から海に葬られている。(Two enlisted men of the ill-fated U.S. Navy aircraft carrier LISCOME BAY, torpedoed by a Japanese submarine in the Gilbert Islands, are buried at sea from the deck of a Coast Guard-manned assault transport.), Author: User “W.wolny”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

9.4.3 画像の禁止または破壊:偶像破壊

画像とその使用に対する論争 — 特に神聖な文脈において — にも、長い歴史があります。この話題に関する議論は、時には深く苦々しい論争へと発展します。旧約聖書が偶像の使用を禁じているために、ユダヤ教の宗教は、宗教的表現の一部として絵画的または形象的な芸術を許可したことは一度もないとしばしば考えられています。しかし、より近年の発見では、聖書の記述が、実際には画像全般の広範な禁止ではなく、むしろその当時の偶像崇拝、すなわち偶像の礼拝の実際の危険性に対して狙いを定めて作られたという結論が導かれています。ドゥラ・エウロポスは、ローマ人によって紀元114–257年の間占領されていたシリアの軍事拠点でした。そこでは、駐屯していた兵士たちは明らかに多種多様な宗教を実践していました。この場所には、多神教の神殿、キリスト教の教会、ユダヤ教のシナゴーグ、つまり旧約聖書の物語を描く活気に満ちた人物たちのフレスコ画で飾られた礼拝堂が多数あります。(図9.19)

図9.19 | ドゥラ・エウロポスのシナゴーグのフレスコ画の一部(Part of the fresco at the Dura-Europos synagogue), Author: User “Udimu”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

初期の仏教芸術は、ある者の言葉によると、非偶像的、つまり紀元前5世紀の仏教の創始者である釈迦牟尼仏陀を表すような人物描写を回避することによって特徴付けられていました。しかし、同意しない人もいます。私たちは、釈迦牟尼の死後かなり後の紀元前2世紀になるまでの仏教芸術の例を持っていません。これは、おそらく初期の作品は非永続的な材料のものであり、持ちこたえることができなかったためです。私たちが見ることができるもっとも初期のものでは、仏陀の姿が表されていません。むしろ、私たちは、彼が悟りを得た座と、そこに影を落としていた菩提樹を見ます(図9.20)。仏陀の不在が、彼の姿を示すことの禁止を確証するものかどうかについては、研究者の間で意見が異なります。

図9.20 | 仏陀を誘惑するマーラ(Mara’s assault on the Buddha), Author: User “Gurubrahma”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

これとは逆に、普遍的に心にとめられているわけではありませんが、イスラム教における神聖な用途に人物の画像を使用することは一般的に忌避されていることを私たちは知っています。イスラム教の中心的な聖典であるコーランには、はっきりとした禁止はありません。しかしながら、コーランの教えを補完する注釈であるハディースの文章の中には、権威ある記述があります。その根拠は、人間と動物の形態の創造は神のためにとっておかれており、人間の行為であるべきではないということです。したがって、モスクや関連する構造物の装飾は、通常、アラベスクと植物や花のモチーフで飾られた豪華な線形の書き文字で行われます。(図9.21)この書き文字は、通常コーランから引き出されているか、単純なアッラーの称賛です。この種のデザインは、しばしばイスラム教徒の家庭用のあらゆる種類の商品や装飾品にも用いられます。(図9.22)

図9.21 | コルドバのモスク-大聖堂のミフラーブ(Mihrab of Mosque–Cathedral of Córdoba), Author: User “Ingo Mehling”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 4.0
図9.22 | 17世紀のペルシャの椀(Seventeenth-Century Persian Bowl), Author: User “Udimu”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

反画像の議論の劇的な例は、紀元8世紀と9世紀のビザンティンキリスト教教会で起こりました。聖書における禁止の認識に基づいて、すべての宗教的画像に対して攻撃が行われ、邪悪な実践とみなされたものを根絶する努力の中で、既存の作品の多くが破壊されました。画像の使用を擁護する者は、画像は霊的な刺激と宗教的な献身を助長するものになりえるので、問題は画像自体ではなく、不適切な使い方であると主張しました。その不適切な使い方は、異教徒の偶像の崇拝に似たある種の偶像崇拝をもたらします。画像は、その使用を支持する者によれば、神と聖人を理解することに関連する道具として、そしてキリスト教の謎の熟考を前進させる手段としてみなされるべきです。さらに、彼らは、既存の画像を抹消し、絵を傷つけ、彫像を破壊することは、神聖なものを汚し、実質的には彼らが表している聖なるものに対する不敬であると主張しました。

この概念は、9世紀半ばのチュルドフ・ソルターに描写されました。そこでは、偶像の破壊と、嘲笑するローマ兵士により胆汁と酢を飲まされている十字架上のキリストの侮辱とを同一視しています。(図9.23)この論争は843年に解決され、その後は偶像と画像の使用が大きく栄えました。残念なことに、この時に先立って制作された宗教的な芸術作品で、私たちが検証するために生き残ったものはほとんどありません。

図9.23 | 偶像破壊を描いた9世紀のチュルドフ・ソルターの細密画、偶像破壊者のコンスタンディヌーポリ総主教のアントニオス1世とイオアンニス(Miniature from the 9th-century Chludov Psalter with scene of iconoclasm. Iconoclasts John Grammaticus and Anthony I of Constantinople.), Author: User “Shakko”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

画像をめぐる議論の別の出来事は、後の世紀にも起きています。一部のキリスト教徒にとって、それは1517年にドイツのヴィッテンベルクで始まったプロテスタント宗教改革につながる不一致の1つの点でした。ローマカトリック教会の権力濫用と考えられるものに対して抗議する人たちによれば、聖なる人物と聖書の物語の画像の拡散は、信者たちを真の崇拝、つまり聖書の中の神の言葉を読むことから逸脱させるものでした。新しい宗教的実践が広まるにつれて、すべての教会や公共の建物から宗教画や彫刻が広範囲に取り除かれました。(図9.24)ヨーロッパの多くの地域で勃発した宗教戦争(1524–1648年頃)では、画像の破壊は、怒れる群衆による暴力的な抗議の形態のひとつであり、彼らは責任があると考えるあらゆる権力者たちや広まっている実践に対して不満をぶちまけました。非常に多くの教会のポータル(扉)が、この出入口の上にある彫刻の頭を切り落とすことは反教会の感情に合ったものであると考える人々によって傷つけられました。(図9.25)

図9.24 | 教会内の偶像破壊者たち(Iconoclasts in a church), Artist: ディルク・ファン・デーレン(Dirck van Delen), Author: User “BoH”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain
図9.25 | 16世紀のプロテスタント宗教改革の中での偶像破壊、オランダ・ナイメーヘンの聖スティーブンズ教会の浮き彫りの像がベールデンストルム(字義どおりには像の嵐)の中で攻撃され、傷つけられました。(16th-century iconoclasm in the Protestant Reformation. Relief statues in St. Stevenskerk in Nijmegen, the Netherlands, were attacked and defaced in the Beeldenstorm.), Author: User “Ziko”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

歴史を通して、そのような破壊が宗教的な論争に限られているということは決してありません。非常に初期の例から、私たちは、抗議または敗北と優越性の宣言の一種として行われた統治者の画像の意図的な破損がどのようなものであるかを知ることができます。アッシリア王サルゴン2世のこの青銅の頭像の中にあった宝石の瞳を抉り出したことは、貴重な材料の盗難のためかもしれませんが、それはまたこの男性自身を征服したことを意味するのかもしれません。(図9.26)近年では、私たちは、卑劣で独裁的な支配者の象徴的な転覆として、2003年にイラクのバグダッドの公共広場にあるサダム・フセイン(Sadam Hussein)の彫像が劇的に転倒させられるところを目撃しました。(図9.27)彼が地下壕で発見された後に、この捕縛者の頭からシラミが取り除かれている写真が広く公開されたことは、彼に対するさらなる辱めが明確に意図されていました。

図9.26 | 青銅製の王の頭像、おそらくアッカドのサルゴンだが、ナラム・シンの可能性もある(Bronze head of a king, most likely Sargon of Akkad but possibly Naram-Sin.), Author: Iraqi Directorate, General of Antiquities, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain
図9.27 | 米国のイラク侵攻ののち、フィルドス広場で引き倒されるサダム・フセインの像(Statue of Saddam Hussein being toppled in Firdos Square after the US invasion of Iraq.), Photographer: アメリカ軍被用者(U.S. military employee), Author: User “Ipankonin”, Source: Wikimedia Commons, License: Public Domain

視覚におけるそのような直接的な象徴主義の力は、文化戦争を戦うためにも用いられています。アフガニスタンで2001年に、タリバンは、アフガニスタン中部のバーミヤン渓谷の崖の側面に刻まれた、6世紀の仏陀の2つの巨大な像を爆破することに着手しました。(図9.28)議論が世界中で巻き起こり、人類の文化遺産の一部と見なされる記念碑を保存するよう嘆願しました。それにもかかわらず、彼らは、彼らの霊的な信念に違反する画像を排除することは義務であると宣言し、彼らの任務を完了しました。

図9.28 | バーミヤンの仏陀立像(左)と、破壊後(右)(The taller Buddha of Bamiyan before (left) and after destruction (right).), Author: User “Tsui”, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY-SA 3.0

より最近にも似たようなシナリオが展開されました。ISISの武装集団が、世界中のキュレーターや芸術愛好家からの嘆願にもかかわらず、イラクのモスル美術館で歴史的、文化的価値のある作品を打ち壊す破壊的なキャンペーンを行いました。(過激派が北部の都市モスルにある美術館で、古代の人工物を壊すために大ハンマーと電動ドリルを使った(Extremists used sledgehammers and power drills to smash ancient artifacts at a museum in the northern city of Mosul): http://i.dailymail.co.uk/i/pix/2015/02/26/261DB11500000578-2970270-image-a-1_1424957194042.jpg)このような抗議は、ユダヤ人の墓石の上に書かれたナチスのシンボルやアメリカの旗を燃やすことのように、象徴的な画像がそれを尊重する人たちにとってのその価値を嘲笑する手段として汚されたり破壊されたりするときには、しばしば小規模に行われることもあります。(冒涜されたユダヤ人の墓石(Desecrated Jewish gravestones): http://cdn.timesofisrael.com/uploads/2012/10/AP100127022968.jpg)(図9.29)このような出来事はすべて、芸術や視覚的な画像が持つことができる様々な力についての私たちの理解を深めています。

図9.29 | アメリカ国旗を燃やすことによる破壊(Desecration of the U.S. Flag by burning), Author: Jennifer Parr, Source: Wikimedia Commons, License: CC BY 2.0

9.5 先へ進む前に

重要な概念

歴史を通して芸術家たちは、彼らの芸術を創造する能力のために、しばしば特別で神秘的な力を持っていると考えられてきました。画像は、個人、政府のシステム、または宗教の形態の力を強化するために使用できます。芸術家は画像を使用して、社会問題に注意を集め、影響を与えることができます。戦争の画像は、支配者の権限と力を正当化し強化するために使用することができます。19世紀から現在にいたるまで、暴力的な紛争は、一部は技術的進歩と戦争の影響に対する社会的態度に起因して、非常に幅広い範囲の画像で描かれています。画像は、宗教的な文書の解釈に基づき、一部の宗教内では禁止されています。画像の破壊は、宗教的、社会的、政治的な信念や抗議の結果である可能性があります。

自分で答えてみよう

1.いくつかの文化の中で芸術や芸術家が例外的な力を持っていると考えられてきた理由とそのあり方を記述してください。

2.プロパガンダと説得とは何ですか?そして、それらの間の違いは何ですか?

3.ダレイオス1世はペルセポリスのアパダナでどのようにして説得とプロパガンダの画像を使用しましたか?

4.支配者たちが権力を強化するためにどのようにして彼らの画像を使っているかを記述してください。

5.革命戦争の時から第一次世界大戦に至るまで、米国ではどのようにして、またなぜ、戦争の画像が変化しましたか?

6.戦争や社会的不公正に抗議することを意図していた芸術作品の例を挙げ、その作品がどのようにしてそれを行ったかを記述してください。

7.ニック・ウトとパブロ・ピカソは、彼らの戦争の描写においてどのようにして、またなぜ個人に焦点を当てたのかを記述してください。

8.一部の宗教内で画像が禁止されているのはなぜですか?具体例を挙げてください。

9.プロテスタント宗教改革の間に宗教的な画像の破壊と忌避を促したものは何ですか?

10.敗北した、あるいは死んだ支配者の画像や、占領された文化の記念碑がなぜ汚されたり破壊されたりすることがあるのかを説明してください。

9.6 重要語句

非偶像的:ある宗教内における人物の画像の忌避。

戯画:漫画的な効果で誇張した特徴や特性を含む肖像画。

ドキュメンタリー:実際の出来事をそのままに芸術的な形や書かれた形で記録する作品。

フリーズ:建物での浮き彫り彫刻や絵画の水平な列。

天才:(ラテン語の genui:存在を生じさせる、創作するに由来)驚くべき知性を持つ人または傑出した創造的能力を持つ人。

ミューズ:知識と芸術、そして執筆、彫刻、作曲するための霊感の人格化。

説得:誰かが選択(しばしば購入)をするように影響を与え、納得させ、誘惑する試み。

プロパガンダ:ある人物や出来事についての特定の視点や一組の考え方を促進する情報(文字で書かれたもの、口頭で伝えられたもの、芸術的なもの)。この言葉は、見解、信念、行動に影響を及ぼすための、偏見のある、誤解を招く、時にその意図が隠された情報を示します。

シナゴーグ:ユダヤ教の礼拝堂。

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