地域文化の正体は?

Hiroshi Tamura // Re:public Inc.
11 min readFeb 7, 2019

--

<お知らせ> 佐賀の伝統工芸品をはじめとした地域資源を、もののつかい手の視点から再編集した展覧会「ニューノーマル展」、絶賛開催中です!(2019年2月11日(祝)まで)佐賀県主催、当社と八女の地域文化商社・うなぎの寝床、福岡のデザインファーム・テツシンデザインの3社共同で企画・運営するこの催しを通じて、僕らが構想する新たなコミュティ起業のエコシステム(生態系)のあり方を感じ取っていただけたらと密かに願っています。最終日の2/11はコミュニティデザイナーの山崎亮さんをお招きしたクロージングトーク。「21世紀のアーツ・アンド・クラフツ運動のあり方とは?」を裏テーマに、佐賀の人とものとの関わりを語り合う趣向です。当日飛び入り参加歓迎ですので、是非、お時間お繰り合わせの上、佐賀県庁 県民ホールにお越しください!

地域文化を生み育て、あるいは編集することを通じて地域の魅力を高めていく事業の担い手を、前回の記事で「コミュニティ起業家」と呼んだ。では、ここでいう「地域文化」とは何を指すのか。今回はそれを掘り下げてみたい。

少し回り道になるが、僕の学生時代の話から(もう20年以上前の話で、個人的にはなかったことにして闇に葬りたいと思っていた記憶なのですが…)。僕は大学4年間、体育会(東大では「運動会」と呼ばれている)ヨット部に所属して、1年のうち200日くらいは湘南近辺で合宿する生活を送っていた。僕が大学生だったのは1990年から94年までで、ちょうどその間にバブル経済が弾けたタイミング。金融機関や不動産業はすでにてんやわんやの状態だったと思うが、街にはバブルの余韻が色濃く残っていた。湘南には浮かれた感じのカフェバーやイタ飯屋やサーフショップが次々とできて、露出多めの女性が夜な夜な浜辺に繰り出す何とも言えないエピキュリアンな空気が街を包んでいた。夜明けから日没の間はつぎはぎだらけのウェットスーツでひたすらディンギーの練習を繰り返し、夜は廃屋寸前の合宿所で雑魚寝する、はっきり言って巷の経済活動とは何の縁もなかった僕らですら、その空気にじんわりとした高揚感を覚えていた。

そんな時代を象徴するクリエイティブ集団がホイチョイ・プロダクションだった。ホイチョイは1987年に『私をスキーにつれてって』(馬場康夫・監督)で、松任谷由実・主題歌、原田知世・主演というトレンディ映画のスタンダードを築き、その後、『彼女が水着に着替えたら』(1989年公開、原田知世・主演、織田裕二・共演、サザンオールスターズ・主題歌)、『波の数だけ抱きしめて』(1991年公開、中山美穂・主演、織田裕二・共演、松任谷由実・主題歌)と、「ホイチョイ3部作」と後に呼ばれる作品を次々と世に送り出した。恥ずかしながら、僕は同時代のホイチョイファンで、今でも映画で使われていた音楽を聴くと何だかセンチメンタルな気持ちが沸き起こってくる。3作目の『波の数だけ抱きしめて』は湘南を舞台にしていて、かつちょうど僕が現役のヨット部員だったタイミングで制作・公開され、織田裕二のライバル役・別所哲也が博報堂の社員という設定で登場する。博報堂社員が企画書なるものを書いて、何だかウキウキするような仕事を実現していくストーリーに感化され、「こんな楽しそうなことを仕事でできるんなら最高じゃない?!」と広告代理店への憧れが湧き起こった。そして、新卒で博報堂に入ってみたら…。そんな時代はもう終わっていたことにすぐに気づいたのだけれど。

僕は当時、「文化を作る仕事がしたい」と宣言して広告代理店を志望した。それが実現したのかどうかはさておき、ここで思考を深めてみたいのは『波の数だけ抱きしめて』の中で別所哲也が企画し、実現したことが果たして「文化」なのか?ということだ(上述の僕の恥ずかしいエピソードはここに至る前振りですので、もうすっかり忘れていただけますと幸いです!)。当時は「広告文化」なるものが、広告クリエイティブの担い手たちと、資生堂・サントリー・セゾングループなど文化意識が高いオーナー企業とが絡み合いながら成熟し、『広告批評』(2009年休刊)という文芸誌が成立するほどに裾野が広がっていた。80年代を代表するコピーライター・糸井重里や仲畑貴志、秋山晶らはまさにこの文化圏のスターだった。広告代理店の社員の中にも、スターデザイナー、スタープランナーが多数存在し、テレビCMや新聞広告は「作品」として、そういった制作者のクレジット入りで流布され、カンヌ国際広告フェスティバルやクリエイター・オブ・ザ・イヤーなどのアワードで権威づけられる仕組みが整っていた。有名美大・芸大でもっとも優秀な卒業生のトップ10は、電通・博報堂のどちらかに入るのが常識と、まことしやかに言われていた。

それから25年が経った。今、広告をめぐる世界はどうなっているだろうか。広告文化という言葉が使われる場面はあるのだろうか。クリエイティブに生きていきたい人たちの憧れを受け止める場所になっているのだろうか。率直に言って、答は「否」だ。実際、これに異を唱える人は多くはないだろう。おそらく、25年前に広告代理店の社員が企画し、実現したメディアと表現を伴うアイディアは「文化」だった。その後、広告の「科学化」が進み、マーケティングや企業コミュニケーションの手段として効果を評価する時代が訪れたことで、その文化は滅んだように思う。広告表現は目的達成の手段として数値化を求められ、それによって「科学」の一味に加えられたのだ。では、そもそも文化とは何を意味するのか。何故、科学の仲間に入ることが、文化との縁切りを意味するのか。

経営人類学者の山内裕によれば、文化とは常にズラされた概念で、他のものとの対比でそれを位置づけるものであり続けてきたという。例えば18世紀には、しばしばセットで用いられる文明(Civilization)と文化(Culture)について、文明を表すドイツ語・Zivilisationが貴族的な薄ぺらい見掛けだけの洗練さを意味したのに対して、哲学者・カントらの知識人層は文化を表す語・Kulturを対峙させたという。Kulturは重みがあり、実際に何かを達成した上での精神の鍛錬を重視する意味を現すという。つまり、文化とは社会のメインストリームに対抗する概念であり、それ故にメインストリームと合流した時点でその存在意義を失ってしまう儚い性質を持ったものなのだ。

これを踏まえて、地域文化について考察を深めてみよう。地域文化とは文字通り、地域性を伴う文化のことだ。では、この文化が対峙する地域のメインストリームとは何か。歴史・風土・産業などにより地域ごとに大きく異なろう。しかし、「大都市圏 vs. 地域」という現在の日本の社会的構図の下で捉えれば、「過疎化・高齢化が亢進する状況からの回復、もしくはスローダウン」が一般像として浮かび上がってくるのではないか。産業の空洞化と人口減の絶え間ないループによって社会全体が疲弊し、行政はその巻き戻しのための産業誘致や公共事業に躍起になり、経済に於いては磨り減った商機能を契機に大規模ショッピングモールや全国チェーンのロードサイドショップが幅を利かせるようになった。結果として、金太郎飴のようにどこを切っても同じ顔が現れる均質的な地域の風景が形成され、皮肉なことにそういった典型との差異が「地域文化」と呼ばれるようになったのではないか。典型は既存の政治・経済システムに組み込まれている故に相対的にロバスト(頑健)だろう。方や、差異、つまり地域文化はシステムのらち外にあり、時代の風波に晒され続けているのだ。

この劣勢な地域文化を事業機会と捉えることに、どんな可能性があるだろうか。実は、この風波による機能の消失こそが事業を育む資源になっている。そのひとつの例が、福岡市の西隣、糸島市の前原(まえばる)地区にある前原商店街だ。JR筑肥線の筑前前原駅から徒歩で6–7分ほど北に離れた旧唐津街道沿いに形成された歴史ある商店街である。ご多分に漏れず、糸島には巨大なショッピングモールが進出し、幹線道路の国道202号線(唐津街道)沿いには多くのロードサイドショップが立ち並ぶ。商店街は昭和30年代 には3つの映画館を擁するほどの賑わいをみせ、まさに糸島の中心街であったが、昭和50年代以降は急速に衰退し、人通りもまばらなシャッター街と化した。しかしここ数年、古民家カフェ、博多人形の工房、レコード店&カフェバー、ベトナムサンドウィッチ店など個性的な店舗が次々とオープンし、福岡市内からの来訪者も伴い、活気を取り戻しつつある。こういった趣味性の高い店舗は、客筋が狭いため店舗賃料や人件費が高い大都市中心部では経営が成立しづらい。だから、衰退し切り、不動産価値が潰えたと見なされていた前原商店街は格好の立地先になった。明治期に建てられた豪商の家宅を改修して2005年にオープンしたカフェ「古材の森」を皮切りに、地域内外のコミュニティ起業家が参入するようになり、2017–18年の2年間で13店舗が開業するなど、その勢いは加速しつつある。前原商店街はかつて担っていた「地域住民の毎日の買い物の場」という機能は失ったが、「地域文化が集積する街区」という新たな地位を獲得したのだ。

こういった文化形成のあり方は取り立てて珍しいものではない。東西冷戦の雪融けの象徴的な舞台となったベルリン。ベルリンの壁が崩壊した後、持ち主が解らなくなったビルや住居をアーティストたちが不法占拠していき、ベルリンのアンダーグラウンド文化を花開かせた。ベルリンはグラフィティとクラブカルチャーの聖地となり、それを目指して世界中から多くの若者を吸引した。冷戦終結から30年。いまやヨーロッパを代表するスタートアップ都市に君臨するベルリンが、かつての文化をその土台にしているのは紛れもない事実だ。例えば、ベルリンを代表するスタートアップ・SoundCloud。このサービスを支えるインディーズ・コミュニティはベルリンを中心に形成されたもので、これなくして同社は誕生し得なかった。そして、スタートアップ都市としての名声が高まるほどに、ベルリンが誇ってきた文化は消化され、失われていく。文化とは時代の社会的状況のダイナミクスを内包し、それゆえに冷凍保存が利かないものだ。それがメジャーになろうがマイナーのままであろうが、いずれ消えゆく宿命を背負ったものであり、その土地の歴史・風土・技術を付託されがちな地域文化もその例外でない。

では、「地域文化のインキュベーター」たるコミュニティ起業家の採るべき戦略は何か。社会のメインストリームと交わることなく、常に自らの生業をアンダーグラウンドに格納し続けるのも一手だろう。しかし、そうすることで必然的に事業家としての成長機会が損なわれる痛みを喫することになる。これとは真逆の打ち手もある。培う文化を積極的にメインストリームに位置付けていき、それを失わせていくものだ。「失わせる」というと聞こえが悪いので、「出口(エグジット)をつくる」と言い換えてもいい。コミュニティ起業家の「出口戦略(エグジット・ストラテジー)」というと、株式上場や事業売却などベンチャー起業家のそれになぞらえることができるので一般的な理解促進にも役立つ。こういった戦略を意識的に採った事業家の代表例に、力の源ホールディングス(とんこつラーメンチェーン・一風堂の親会社)を挙げたい。福岡の若者街・大名の路地裏からスタートした一風堂は、地元のB級食であったとんこつラーメンを寿司に次ぐ日本を代表する食のアイコンに育て上げた。それにより、とんこつラーメンはもはや若者の熱烈な支持を集めるクールなアイテムではなく、一風堂そのものも福岡の文化を象徴する存在とは言い難いものになった。しかし、力の源ホールディングス(一風堂)の出口戦略によってとんこつラーメン業界という一大外食産業が形成され、「食都」としての福岡の名声は高まった。コミュニティ起業家として、同社は地域の魅力を高めることに大きく貢献したのだ。

こうしたコミュニティ起業家の出口戦略をどう構想し、効果的に進めていくのか。これについては稿を改めて考察を進めたい。

--

--

Hiroshi Tamura // Re:public Inc.

Co-founder of a think and do tank based in Tokyo and Fukuoka that investigates in sustainable innovation ecosystems since 2013.