21世紀を生きる僕たちは、教育をどのように進歩させるのか?

Tetsuya Sawada
6 min readJan 9, 2019

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ディスカッション用に近代教育史から21世紀までの流れをざっくりとまとめている。この後、日本の教育思想史とアートと歴史的出来事を絡めた資料にする予定。

学習指導要領を変更し、学校を社会に開き、アクティブ・ラーニングなどの学習者中心主義の教育導入を進めるなど国をあげた教育改革が進められているが、これはこの図のデューイ(20世紀初頭)からの課題にようやく重い腰をあげて向き合っている、とも言える。

なお、デューイからの課題と僕が呼ぶ、彼が批判した従来の教育=19世紀以前の教育の課題とは例えばこのようなものだ。

「倫理的側面からみるならば、こんにちの学校の悲劇的な弱点は、社会的精神の諸条件がとりわけ欠けている環境の中で、社会的秩序の未来の成員を準備することにつとめていることである。」27P

「しかるに、学校はこれまで生活の日常の諸条件および諸動機から甚だしく切離され、孤立させられていて、子どもたちが訓練を受けるために差し向けられる当のこの場所が、およそこの世で、経験を――その名に値いするあらゆる訓練の母である経験を得ることが最も困難な場所となっている。」30P

「しかしながら、根本的な統一が欠けていることは、次の事実に徴してあきらかである。すなわち、ある学科は依然として訓練に役立つものと考えられ、他の学科は依然として教養に役立つものと考えられていることである。たとえば、算術の或る部分は訓練に、他の部分は実用に役立つものである、文学は教養に、文法は訓練に、また地理は一部分は実用に、他の部分は教養に役立つものと考えられている、など。ここでは教育の統一などということはかげもなく、諸々の学科は勝手な方向をむいてばらばらである。」88P (いずれもジョン・デューイ『学校と社会』より)

ここに指摘されている課題は、一言一句なんら改編することなく、そのまま現状の学校にあてはまるようにも思える。21世紀になった今も19世紀のシステムがそのまま実装され続けているということに驚きを隠せない。

デューイは19世紀以前の産物である学校・教室・先生と生徒というシステムを前提としながら、学習者を中心におき学校と社会を接続させていくことを求めた。20世紀を代表する教育思想家であるイリイチやフレイレはそのシステムそのものが支配と抑制の象徴であると批判し、脱学校というコンセプトを掲げた。フレイレは先生と生徒という関係性をも批判の対象とした。

デューイ、イリイチ、フレイレに至るまでにも、ロックやルソーらから連綿と続く市民教育、教育の民主化といった流れが今日の教育のあり方の土台となっている。

思想が生まれ、それらが社会に実装されていくには時間がかかるものだ。たとえ今ようやくデューイが掲げた思想をようやくアクティブ・ラーニングという錦を掲げて教育の現場をアップデートしていくことは決して無駄ではない。

それでもなお、僕らは今、21世紀を生きている。これら先人達が連綿と受け継いできた土台に立つ僕らは、どんな教育を社会に生み出していくなのか?どのように教育を進歩させることができるのだろうか?少なくとも教育=公教育=学校教育という構図に陥っている状態ではその命題に応えることはできないだろう。

「今を生きる僕らは、どのように教育を進歩させることができるだろうか?」この命題に対して、僕自身、その解を模索しながら常々教育のような、はたまた教育とは呼べないような営みを生み出し続けている。未だ僕の中にこの問いへの明快な解があるわけではない。しかし、その解を探るために、いくつか個人的に今後意識していきたいアプローチについて書き記しておきたい。

一つ目のアプローチがLONG LIFE LEARNING:人生100年時代の教育だ。これから僕らは人生100年時代を迎える。この長寿命時代は、これまでに人類が遭遇したことのない環境変化であり、そんな中で教育が果たす役割はますます大きなものになると僕は考えている。

多くの場合、教育というものは子供に対して行われるものというのはこれまでの社会通念だったのではないだろうか。教育は、社会に適応する「準備期間」に施されるものと見なされてきた。典型的なのが公教育だ。成人・社会人になるまでに、公教育という一定期間の準備期間が設けられ、晴れて準備期間を卒業し、社会に出て自立する。

このような教育=準備期間という構造は、人生100年時代に大きな変化を迎えるだろう。単純に人生100年を生きる上で必要な知識や考え方や能力を幼少期から18才や22才までといった「短時間」で全てを身につけ切ることはできない。かといって、準備期間を伸ばせばいいというものでもなく、学び、社会で活動し(働き)、また学ぶ、そんな学習と社会的活動とを何度も行き来するような生き方が一般的になっていくだろう。

そんな中、教育が一人一人の人生の中で果たす役割はますます大きくなっていくのではないか。そして、教育を行う主体が学校ばかりであるとは限らない。LONG LIFE LEARNING(人生100年時代の学び)は、いったい、誰が、どのように、どこで学ぶことを意味するのか。

二つ目のアプローチがVALUE OF PLACE=教育の場所性だ。印刷技術が生まれ、教育の民主化が本格的に始まって以降、産業革命、IT革命を経て、人類は生まれ育つ場所に左右されない教育環境構築を進めてきた。そして、テクノロジーが発達し、ほぼほぼ地球上のどこにいても学ぶことができるようになった21世紀、これからは、むしろ教育の「場所性」が重要になっていくと思う。

山村にいても離島にいても世界と繋がることができるからこそ、自分が地球の中のどこにいて、どのようなことが大切にされてきて、それが何故なのかを理解することが結果的に世界を知ることに繋がっていく。だからこそ、どこで暮らし、学ぶのかはとても重要な要素になる。「場所を問わない」のはインターネットにアクセスする条件の話であり、人の生活・生存を左右する環境はその場所の地形・気候に左右されている。文化はグローバルの中に育つのではなく、各ローカルに根付いている。むしろ世界と繋がり合うことで、「場所を問われる」ようになっていく。

だからこそ、今、僕らは「場所」の持つ価値に着目し、その場所ならではの教育を再考していくことが求められているのではないだろうか。

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Tetsuya Sawada

ミテモ株式会社 代表取締役。野良教育屋。