出世と安定観
Published in
Jan 29, 2018
例えば「出世間」と「出世」
世”を”出るのが、仏の出世間
世”に”出るのが、世の出世世俗を超越し、解脱に向かうか
俗事に埋没し、名利に向かうか
(【大注目💡】温度など物理話は「量子論の記事」へ!)
このように、日常語の出世は、
仏教語の出世間に由来している。
縁起や理事、などもそうであるように
我々の心と生活の底流には、
仏教思想という地下水が脈々と流れている。
しかし、悪意さえ感じるほど、
なぜ意味合いが悉くひっくり返っているんだろうか?
我慢は美徳ではなく、
思い上がりや驕り(七慢)
無為は無能にあらず、
あるがままの真空妙有。
有為な若者というのは、
将来性があるのではなく…
そもそもは、我執
どうも、おかしいと思いませんか?
仏様の善行が、全て役立たずの代名詞になり、
凡夫の愚行が、美徳に転じた逆転現象。
鎌倉〜江戸あたりに
仏教が大衆化した頃か
はたまた戦後あたりか?
事の真相を突き止めねばならんな。
言葉が文化を作るのだから、
ここはもう一度覆さねばならない。
「悟り」に回帰するだけではただの虚無。
「儲け」偏重のままでは歪つな結果しか生まない。
「お金がない社会」はまだ現実味が乏しい今、
対極を結ぶ振り子運動から二物衝撃を興し
心と体を結びつけ、心身と真理の一体一如に成り切り、
【儲けながら悟る離れ業】をやってのけようではないか!
PS
▼そして、このジレンマには一定の生解を生み出した!