建築家・光嶋裕介さんインタビュー

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フレーズクレーズ
14 min readNov 20, 2015
凱風館 (C)山岸剛

内田樹さんの住宅兼合気道の道場である『凱風館』の設計で一躍注目を集めるとともに、緻密かつ幻想的なドローイングでも非常に高く評価されている若手建築家、光嶋裕介さん。彼に、設計に対する姿勢や書籍『建築武者修行』などについてうかがった。 (学芸カフェ2013年9月号より再構成/掲載)

— — — -まずは『凱風館』についてうかがいます。それまで一度しか会ったことがなかった内田樹さんから、当時まだ「建築家一年生」の状態だった光嶋さんに依頼があったときは、とても驚かれたことと思います。

光嶋: もちろん、大きな驚きでした。一度、山本浩二画伯に連れられてお会いしただけなんです。内田先生のことは著作を愛読していたので、知ってはいましたが、実際にお会いしてみると、父親の年齢であるにもかかわらず「かっこいいなぁ、自分も将来、こういう風な大人になりたいなぁ」と瞬時に思える存在でした。すぐさま、「内田先生」と自然と呼んでいる自分がいました。出逢ったその日に、内田さんから「道場を建てたい」という話題が出たからびっくりです。それまでまわりのひとにいつも「何か設計させて」と散々言いまくっていましたが、全然実らなかった。しかし、このときばかりは向こうからそういう話題が出たんです。建築家であることを猛アピールしました。「敷地が決まったら連絡するから」、と言ってもらって名刺を交換し、年末には年賀状のやりとりをさせてもらいました。最初は正直、社交辞令かと思いました。

じつは、2008年にドイツから帰国してすぐの頃は、新しい人脈をつくるべく、打算的に動きまわっていたこともありました。建築家というのは、他人から仕事を依頼されないと成立しない仕事ですから、とにかく必死で、「このひとと会えば仕事になるかも」といった感じで、かなり前のめりだった時期がありました。人脈を広げることこそが建築をつくるための最短の道だと考えていた時期でしたが、打算的に動いても何の結果にも繋がらないことを痛感しました。やはりひととひととの自然なご縁、尊敬と共有に基づいた素直なご縁が最も大切だなあ、と。

凱風館
(C)鈴木研一
みんなの家。建築家一年生の初仕事』 光嶋裕介 (著), 内田樹(ゲスト) (著), 井上雄彦(ゲスト) (著), 山岸剛 (写真)
出版社: アルテスパブリッシング; 四六版 (2012/7/10)

— — — 『凱風館』の現場では、『みんなの家』で書かれているように、とても明確で高い意識をもつクライアント、そして施工側も熟練した大御所の職人たちがいました。当時は初めての現場ということで客観的に比べることが難しかったと思いますが、他でもいくつか物件を経験されたいま振り返ってみると、いかがですか?

光嶋: 何から何まで初めての現場でしたし、現場の方々は経験豊かな方ばかりで、「お前は、いままでに何も建てたことないやん」と言われてしまえばおしまいの状況ですから、とにかくひとの話を聞きました。ドイツの設計事務所での仕事はともかく、自分の責任ですべての決断をするという立場での初めての経験のなかで、「こうしなさい」と指示をするのではなく、まずは、いい建築をつくりたいという熱意を伝えるしか手だてはなかった。オーケストラの音楽でいえば、最高のバイオリニスト、ピアニストたちがいるわけですから。

最初の仕事というのは後々の仕事の基準にもなりますから、今ではその最初が凱風館だったというのは大きいと感じています。大きな一歩をスタートに、今は1から2、2から3という具合にステップアップし、どんどん高いハードルを越えていきたいと思っています。凱風館で目一杯やりたいことをやらせてもらえたのは、タッグを組んだ仲間たちが強者ばかりだったからであり、そこでのハードな交渉の経験はいまでも僕にとって大きな財産です。建物の設計だけでなく、たとえば書籍をつくる過程でも、編集者やデザイナーとの対話を経て、ひととひとの関係が凝縮され一冊の本が出来上がります。まさに「ものづくり」という共通点があり、当時の経験は、僕のなかで糧となっています。

— — — 内田樹さんからの設計依頼のエピソードは、まだ設計経験があまりない若手建築家たちにも勇気を与えてくれますね。一方、光嶋さんの著書などから、ただのラッキーだったわけではなく、光嶋さんの建築や芸術全般への強い情熱があったからこその結果だと感じます。

光嶋: 僕にとって建築の世界の扉を開けてくれたのは、師匠の石山修武さんです。18~24歳までの6年間、早稲田大学の研究室でも、石山さんの自邸兼事務所である世田谷村でも、一番間近で建築という世界の複雑な魅力を学ばせてもらいました。そして、建築を設計することは、生半可なことじゃできないぞ、ということを教わった。貪欲に色々なことを多面的に吸収しないといけない。若い自我を捨て、ひととの対話を生む論理的思考法を叩き込まれました。世の中には、さまざまなクライアントがいるわけで、誰とでもオープンな対話ができなればならない。たとえばクラシックが好きなクライアントに対して、「いや、ぼく、ジャズは好きだけどクラシックは分からないんで…」などとは言ってられません。学生時代から社会性に対して広い視野を求められ、外に向かって自分を磨くこと、知らないことに対する知的好奇心が大事だと痛感しました。

たとえば、昔はダンスやバレエには関心が一切なかったんですが、ベルリンで生活するようになって実際に見てみたらすごく感激したんです。演劇も同じ。そういった経験や知識は統合されて、自分が建築を設計するうえで何かしらの影響があると信じています。グレン・グールドを聴きこんでいるからこういう設計ができる、といったような直接的なものではないですが、たとえばドローイングを描くときに、クラシックだったり、ジャズだったり、あるいは、ダフト・パンクを聴くことによって絵の雰囲気が変わる、ということはあると思います。場所の空気が音楽によって心情を変化させるとでも言えるでしょうか。そういう意味では感受性のセンサー、ボタンをたくさん持ちたいと常々考えています。さっき「ご縁」と言いましたが、これはボタンを押されたときに瞬時に健全な反応がどれだけできるか、という風に言い換えることができると思います。そういう自分のトータルな身体感覚を上げるよう、磨きつづけたいものですね。

レッドブル・ジャパン・本社オフィス
会議室を小屋にし、路地や縁側がある、外部のような内部をもつ開放的なオフィスの提案
(C)山岸剛

— — — 新刊の『建築武者修行 ―放課後のベルリン』についてうかがいます。コルビュジエ、ミース、ガウディなど、各地の建築を訪ね歩いた経験が描かれています。

光嶋: 『みんなの家。』(アルテスパブリッシング)は、ぼくの処女作のドキュメントですが、『建築武者修行 ―放課後のベルリン』(イースト・プレス)では学生時代より歩み続けたヨーロッパのひとり旅や4年間のベルリン生活の話であり、建築家として独立するまでの修行時代の話を書きました。その意味では、いくぶんマニフェストの意味合いも込めたつもりです。実際の十年に及ぶ旅の経験を言葉とスケッチで伝えるシンプルな構図ですが、言語化するにあたっては、非文節的な体験をひとつの芯が通った物語として書かなければなりません。そうやって抽出された経験の断片を再考し、編集していく過程において、自分でもまったく思いも寄らなかったことが思いついたり、不思議な点と点が結びついていく新鮮な発見がたくさんありました。非言語的な体験を言語化する作業は、とてもクリエイティブなものだと感じました。

誰しも建築に住んでいるという意味で「建築」には、素人は存在しない。そういう広い意味での「建築」という回路でいろいろなひとと接続したい。それは、建築の魅力を少しでもまだ見ぬ新しい読者に伝えたいからであり、より多くのひとにこの本を届けたい。

建築武者修行 ―放課後のベルリン』 光嶋 裕介 (著)
出版社: イースト・プレス (2013/9/7)

— — — NHK WORLDで放映されている「J-Architect」(毎月の最終木曜日に放映)のナビゲーターも務めておられます。海外で放送されるため、すべて英語でつくられた番組ですね(ネットストリーミングで日本でも視聴可能)。

光嶋: 2013年9月26日は青木淳さん、10月は坂茂さん、といった感じで、世界的に活躍されている建築家の方々を取り上げています。彼らの最新作を見ながら直接インタビューができるというのは、ぼくみたいな駆け出しの建築家にとっては、非常に刺激的な経験です。そういう現場からの雰囲気が伝わればいいですね。各国のモニターからも、総じていい評価のようです。

もちろん慣れない撮影の現場では苦労もあります。最初のころは「表情がこわばってますよ」とよく言われたりしましたが、そりゃあ、こわばりますよね。「カメラ目線で」と言われても、レンズのどこを見ていいか分からなかったですし。試行錯誤の連続ではありますが、プロのナビゲーターになるわけでもないので、気楽に自分のできるベストを尽くし、あとの部分は一流の作り手の方々にお任せしています。この番組でのぼくの役割は、日本人建築家のつくる建築の魅力を世界の視聴者に英語で発信することにあるのです。

— — — 著書『幻想都市風景』(羽鳥書店)では、緻密で幻想的なドローイングを発表されています。継続的に描いておられますが、建築設計と絵を描くことの関係はどのようなものですか?

光嶋: ぼくのなかには、すべてにおいて明確な繋がりがあります。一言で言うと、「建築家としてやっている」という原点ですね。先のテレビのMCも、文章を書くことも、すべてにおいて根底にあるのは、自分が「建築家である」という立ち位置を変えることなくすべての仕事をしているということです。凱風館での現場では、強者たちが集まったという話をしましたが、そういう場において、「こういう建築をつくりたい」という目指すべき方向をみんなで共有するためには、自分のなかの熱意が大切だと思っています。クライアントや職人さんなど、皆がそうやって同じ方向を向いてくれれば、現場でのいろいろな壁を乗り越えられるものです。

ぼくにとって絵を描くことの本質は、そうした建築に対する熱意や向かうべき場所を自分のなかにしっかりと確認し、根付くための創造の作業なんです。現場での共同作業には複数で束になって解決する大きな課題がありますが、先の熱意や情熱というものは、中心にいる者がしっかりとチームメンバーの全員に伝達しないといけない。ぼくにとってはドローイングがそうした自分の原点と向き合う時間であり、自由な感覚を養うための基礎トレーニングのようなものです。野球選手の素振りみたいなものでしょうか。静まり返った深夜の静寂の時間に、白紙の紙と向き合って、自分と対話するのです。

幻想都市風景』 光嶋 裕介 (著)
出版社: 羽鳥書店 (2012/6/15)

— — — 子どもの頃は、どのように過ごしましたか。
光嶋: 男3兄弟の次男としてやんちゃに育ちました。子どもの頃は、野球ばかりしていて、たまに絵を描くと親に「上手、上手」とよく褒められたものです。すぐその気になっていましたが、実家にある子どもの頃の絵をいま見ると、大した絵ではないんです。褒めることの力は偉大だと感じましたね。今は大学でも教えているので、学生たちの学びを駆動させることと、褒めることの効果とバランスの大切さを強く実感しています。

アメリカ、イギリス、カナダに住んでいた頃から、父親に連れられて家族でよく美術館に行きました。立派な絵画を実際に見ることで、本物のエネルギー、時間を越えてきた作品に憧れるようになりました。それが更には、都市に対しても時間の積層したような表情が魅力的に見え始めました。

早稲田大学の附属高校に通ったことで、大学受験がなかったことも大きかったと、今にしてみれば思います。油絵を描いたり、音楽のバンド活動をやったりと、新しいことにどんどんチャレンジしていきました。受験がないせいで、将来の可能性について悩みながらも、じっくり考えることができました。頼りにしていた美術の先生に「建築は芸術の最高峰や。ひとの命を守る大切な存在だからね」という風に教えてもらったんです。そして、大学で建築を選択し、先に述べた石山さんが建築世界への扉を開いてくれました。

— — — 最後の質問ですが、これからどんな建築をつくっていきたいですか?

光嶋: 僕は名建築を旅することで建築世界の魅力を教えられました。そして、魅力的な建築というのは、ある特定の場所に、そこのひとびとたちのために堂々と建っていました。そうした建築は、愛着をもって、生きられていくものです。建築設計の世界には、ひとつの絶対的な正解があるわけではありませんが、建築家は自分の責任でもって最良の選択をし、ひとつの答えを提示せねばなりません。そのためには、考えつづける必要があります。その場所に根付いた、丁寧につくられた建築は、その建築に携わったひとびとの思いを宿し、いい歳のとり方をするものです。僕は、自分の感性を磨きながら、土地やクライアントから届く最良のシグナルに反応し、それを建築という形にすることで、「みんな」に喜ばれる建築をつくり、それがあわよくば、時間を超えて文化として残っていくような本物の建築を、いつかつくりたいと思っています。念じれば叶うはず。そんな風にして、いつか豪快な予告ホームランを打ちたい。

(学芸カフェ2013年9月号より再構成/掲載)

(聞き手/牧尾晴喜)

光嶋裕介
建築家。1979年、米ニュージャージー州生まれ。
8歳までアメリカで育ち、ミドルネームは「ブライアン」。帰国後奈良の小学校を卒業するとまた父の転勤でカナダ、トロントへ。その二年後には、英国のマンチェスターへ。
2002年、早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、同大大学院へ。石山修武研究室に所属。石山さんの自邸兼事務所である「世田谷村」で朝から晩まで図面を描き、模型をつくる。2004年、大学院卒業とともにヨーロッパへ。ドイツの建築設計事務所で勤務。
2008年に帰国し、事務所を開設。内装設計やコンペに励み、ドローイングや銅版画を描く日々。2011年、思想家の内田樹さんの自宅兼道場(合気道)である凱風館【がいふうかん】が神戸に完成。若手建築家の登竜門である、SDレビュー2011に入選。 神戸大学で客員准教授。大阪市立大学などで非常勤講師。

(*プロフィールはインタビュー当時のものです。)

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