邦題をめぐる冒険

野村雅夫 NOMURA Masao
フレーズクレーズ
6 min readNov 22, 2015

その1 裏切りの美学

邦題というものを意識するようになったのはいつ頃だったろう。僕は今、人生の紆余曲折を経て、海外の作品を(音楽をラジオDJとして、映画や文学を翻訳家として)日本に紹介することを生業としている。つまり、仕事柄、常日頃から日本版タイトルを付けたり評価したり、わりと専門的に関わっているわけだが、邦題が時にはその作品の印象を劇的に変えてしまうことすらあると気づいたのは、振り返ってみればこの仕事をするもっとずっと前だった。まずはそこから話を始めたい。

高校2年生の秋、校内の掲示板にある映画のポスターが貼り出された。普通ならありえないことだったのでよく覚えている。折しも、エリック・クラプトンとベイビー・フェイスがタッグを組んだ『チェンジ・ザ・ワールド』が日本でも大流行していた頃で、当時ギターに夢中だった僕は、「あ、クラプトンの新曲が使われてる映画や」と目を輝かせていた。その映画とは『フェノミナン』(1996年)。なぜ校内で宣伝が許されたのか、何か学校の催しと関わりがあったのか、その記憶は定かではないのだが、今もって忘れられないのはこのタイトルについての教師の発言だ。「最近の映画は直訳どころか、英語をそのままカタカナ表記しただけのが多いなあ。『ラスト・エンペラー』とかならまだしも、『フェノミナン』じゃ何の話かすら分からんし、観に行く気もわかんなあ」。言われてみれば、確かにそうだ。直訳すれば、「現象」が第一義だけど、これは「驚異的あるいは不思議なできごと」ぐらいの意味だろう。実際、キャッチコピーは「人生には、説明できない不思議がある」だった。ただ、フェノミナンという、また妙に発音に忠実なこのカナ表記(当時の僕には薬の名前に思えて仕方なかった)からそこまでパッと思い浮かべられる人がどれほどいるというのか。憧れのクラプトンが主題歌を担当しているにも関わらず、果たして僕は劇場へ足を運ぶことはなかった。

次に強く意識したのは音楽だ。イタリアのポップスが「カンツォーネ」として日本でもそう時差なく受容されていた60年代に、『ほほにかかる涙』というヒット曲がある。原題は“Una lacrima sul viso”(ウナ・ラクリマ・スル・ヴィーゾ)。この曲を僕に教えてくれたのは、イタリアの言語文化を学ぶべく通っていた大阪外国語大学の恩師だった。イタリア文学翻訳の第一人者だった彼は、授業でこの原題の意味を学生に問うた。「顔の上の涙」。誰かが答えた。英語にすれば“A Teardrop on The Face”。そう、間違ってない。だのにこの印象の決定的な差は何だ。涙が伝うのは、顔なんて漠然とした場所ではダメで「ほほ」の方がよっぽどしっくり来るし(曲を聴けばわかるだろうが「ほっぺた」もダメだ)、「ほほ」と来れば前置詞を強引に動詞にしてでも、つまり「かかる」とした方が日本語だとその詩情がより伝わる。似た意味の動詞でも、「ほほを伝う」と「ほほにかかる」ではニュアンスが違う。優れた邦題に求められるは、作品の内容を深く理解・解釈した上で、あくまで日本語としてそれに見合う表現に落とし込む作業だ。恩師がこの例で教えてくれたのは、そういうことだったように思う。

なにせ学期末のテストでは「天高く馬肥ゆる秋」をイタリア語に訳しなさいという難問で僕らをのけぞらせた人だったから、授業は一筋縄ではいかなかった。もし時間旅行が叶うなら当時の僕に平手打ちを食らわして「将来タメになるから先生から学べるだけ学んでおけ」と怒鳴りつけたいような、そんなぼんくら学生ではあったのだが、彼が教えてくれた表現で、今でも信条として心に深く留めているイタリア語のフレーズがひとつある。

“Traduttore, traditore”(トラドゥットーレ トラディトーレ)

「翻訳家は裏切り者」

なかなかにセンセーショナルで驚かれるかもしれない。ところが、少なくとも芸術作品の翻訳に限って言えば、ずばり本質を突いている。何でも直訳で済むなら機械翻訳で事足りて話は早いが、そうは問屋がおろさない(このフレーズを、カナをなぞって原語通り発音してもらえれば分かるだろうが、パスタソースの名前のようなこの2つの単語は、頭とお尻いずれでも韻を踏んでいるのに、その言葉遊びを日本語でまったく再現できていない時点で、直訳ではすべてを伝えきれないことの証左になっている)。仕方なく翻訳家は意訳を試みる。ところが、それはそれでどうしたって多かれ少なかれ原語を裏切る羽目になる。問題はその方法だ。意訳を名訳の高みへと押し上げるのは、無粋な裏切りではなく、華麗なる裏切り。イタリアで生まれたこの言い回しは、翻訳という行為の困難と奥深さを同時に伝えてくれる。これはなるほど言い得て妙だと、誰かが訳したタイトルを受動的に味わっている分には良かったが、今度は僕が能動的な体験として裏切り方に思い悩むようになって程なく、先生はあっさり永眠してしまわれた。あとは自分で探求しろということか。

かくして、僕の邦題をめぐる冒険が始まり、今もなお試行錯誤は続いている。そんな僕の邦題の「受容」と供給、ささやかな裏切りの遍歴をこのシリーズではお伝えしていきたい。

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野村雅夫 NOMURA Masao
フレーズクレーズ

ラジオDJ/翻訳家。Ciao! MUSICA (FM802)。897 Selectors(InterFM897)。音力 ONCHIKA(ytv)。イタリア文化を紹介する京都ドーナッツクラブ代表で、映画や小説の翻訳も行う。訳書『1日3時間しか働かない国』『罪のスガタ』『見えないものたちの踊り』など。