「ちのかたち」の理論的可能性とその実践の射程(その1)

[201811特集:建築批評 藤村龍至 / RFA《すばる保育園》]/ The theoretical target of “the Form of Knowledge” and the scope of its practice Vol.1

木内 俊克
建築討論
12 min readOct 31, 2018

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つながりと囲い込みの重ね合わせ

RFA設計の《すばる保育園》は、福岡県小郡市のほぼ中心、有明海に流れ込む筑後川水系の支流として市を南北に縦断する宝満川沿いを縁取る田園地帯と、さらにその西側丘陵のふもとに広がる住宅地の境界線付近に位置する。小郡市は、福岡平野と筑紫平野の結節点となる交通の要所にあたり、古くは街道沿いの宿場町として、70年代に入ってからは福岡、久留米へのアクセス性を前提とした住宅機能の強まりにより市街地が形成されたという。さらに1977年来、小郡・筑紫野ニュータウン計画により、田園地帯の西側丘陵のふもとには一体的に住宅地が開発された。そのニュータウンと宝満川沿いの田園地帯を区切り、川と平行して南北に市を縦断し久留米までつながる県道88号線沿いには、ドライブイン型のコンビニ、カーディーラー、飲食チェーン店、AEON、同系列ホームセンター、ケーズデンキなどが並ぶ。いわゆる郊外的な風景がそこにはある。すばる保育園はこの県道88号線により区切られた市街地側から田園地帯側に出島状に飛び出した神社/鎮守の森の塊りの、そのさらに突端に建設された。

保育園を訪問すると、そのアプローチにおいてまず最初に了解されることは、立地上、周囲の主要な環境である、神社/鎮守の森、田園風景、宝満川の河川、川向いの花立山、さらその背景の山脈といった一連の景観要素とのつながりを当然求めながらも、施設としては明確に完結し、内に囲い込むような構えをもつという点だ。一見対立的な身振りが共存している(写真1)。同保育園理事長及び園長は、保育園側の設計者への要請として、外部空間は自然の気候をそのままに経験し学ぶこと自体を目的とする場であり、周囲の自然とのつながりが求められるが、対比的に内部空間では100%制御された、安全・安心・安息を要求したことを語っている。ドーム屋根部下の横連窓以外には一切開口部が設けられていない、田園側から見た保育園立面は、その閉じた施設としての印象を強めている。部外者には要塞のような取り付きようのなさだ。しかし施設の日常的な利用者である園児や園のスタッフにとっては逆に、その内に戻れば堅牢に自分たちの過ごす環境を守ってくれるあたたかみさえ感じさせるのもその外壁だ。環境との連続を図りながらも、一方で囲い込む要求への率直な応答として、壁はあくまで安全・安心・安息を内部に切り取る為に立てるという潔さ、あいまいさのない論理が部分の部分としての性能を担保するという態度表明とも読み取れる。誤解をおそれずに言えば、それは周囲に広がる風景に点在するAEONやケーズデンキの外壁のあり方に見られるきわめて明快な(だからこそ暴力的にもなりうる)内部空間の切り取りのみに特化した作法が、建築の部分として召喚され、巧みに統合されているとも読める。RC現場打ちで一体的につくられた外観はこの印象をさらに強めているようでもある。

周辺環境へのつながりを志向しながら、そこに対極とも思える囲い込む構えを重ね合わせていくこうした操作について、我々はそこに何を見ることができるだろうか。

批判的工学主義とその実装手段としての超線形設計プロセスの射程

ここで藤村の設計論に目を向けてみよう。藤村は、すばる保育園のオープンとほぼ時を同じくし、『ちのかたち―建築的思考のプロトタイプとその応用』(2018、TOTO出版)において、自らの建築設計方法論についてこうまとめている。

「「ちのかたち」としての建築とは、機能主義における形態と機能の因果関係が揺らぐ現代社会で確かな拡張的推論の手法としての「超線形設計プロセス」を用いることで機能主義、反機能主義のいずれとも異なる「工学主義」の立場を取ることを指す・・・工学を半ば肯定しつつ、半ば批判的に使用する態度・・・私はそのような態度を「批判的工学主義」と呼ぼうとしている」(『ちのかたち』P413–415)

もう少し細かく読み込んでみる。同ステートメントの前段の議論によれば、「工学主義」とは「設計対象となる建築に関わるすべての環境を構成する要素による、『すべての人ともののための建築』を実現する」為に、「手続きを明快に」し、トレースや反復が可能な開かれた設計のシステムを追及することであるという。ただし、「福島第一原子力発電所の事故」に言及し、「工学を無批判に用いることはしばしば、私たちに大きく方向を誤らせる」事実についても指摘し、措定したシステムのチェックと更新を批判的に継続していくことが同時に求められることを喚起する。

藤村の述べる「すべての人ともののための建築」はいささか理想主義的とも捉えられるが、理論的な帰結点としてはきわめて明快だ。つまり関係者すべての要請の根拠を、知見=「ち」としてもれなく拾い尽くすことが究極的な目標値になりえ、それを共有できる建築の「かたち」が、「ちのかたち」としての理想形となる。ただしあらゆるシステムは形骸化/陳腐化をまぬがれない以上、ある時点で理想形と思われたシステムも、実践と共にチェックされ、更新されていく批判的な検証が常時行われるべきであるという補足により、実践の論理としても盤石な指針が提示される。こうして導き出される理論的な帰結点は、実際に目指すべきものなのか否かは議論の分かれるところであろう。しかし実践に移してこそ、その本質的な価値が批判的に浮き彫りにされるという枠組みに駆動されている「批判的工学主義」だからこそ、少なくともその帰結点を目指し、価値の所在を明らかにしていく実践には、十分に追及すべき必然性を見ることができるだろう。

さらに藤村は、「批判的工学主義」の設計段階における実装手段として、以下の「超線形設計プロセス」を提示する。

1.知りえた情報や明らかな要求をもとに模型などのメディウムを用いて、とりあえずの形状を与える「プロトタイピング」を行う
2.与えられた形状と文脈の不整合の不一致を取り除いて「規則」を追加する「フィードバック」を行う
3.1-2を繰り返し、得られた規則の束からそもそもの目的を推論し、得られた形の確からしさを上げていく
(『ちのかたち』P411)

藤村は、これら一連の操作を「反復手続きによる比較に基づいた拡張的推論」であるとし、3の推論に伴う創造的な飛躍を、観察にもとづく経験の一般化を行う「帰納」的アプロ―チに近いとして、「帰納的飛躍=Inductive Leap」と呼ぶ。

ここで設計で取り扱う「ち」の対象を、藤村が3つに類型化している「個人的な/集団的な/計算的な『ち』」のうち、「集団的な『ち』」に限定してこの「帰納的飛躍=Inductive Leap」の内実を確認すると、その何たるかがわかりやすい。そして筆者はここに藤村の真骨頂があると考える。

超線形設計プロセスの、「集団的な『ち』」の形成過程で、確認しておかなければいけないポイントがある。それは《鶴ヶ島プロジェクト》から《鶴ヶ島太陽光発電環境教育施設》、《あいちプロジェクト》、《OM TERRACE》にいたるまで、集団的な意思表明の手段として投票が採用されていながらも、提示されたプロトタイプに対するフィードバックプロセスは、決して多数決による低順位案の排除ではなく、案の選択をとおして提出された知見を「規則」に変換してプロトタイプの「かたち」に蓄積する、いわば〈知見の全回収〉に向けられているということだ。つまり、捨て案はなく、仮に0票の案があった場合もそれはなぜ0票であったのかが分析された上で、NGルールという知見として回収される(《鶴ヶ島太陽光発電環境教育施設》)。また、得票数が多いプロトタイプはいわば誰もが思い浮かべる平均値的な知見に対応することが多く、むしろ得票数が少ない案にこそなぜ一部の層の支持が集まったのかを分析することで、より発見的な知見の抽出につながる傾向がある(《あいちプロジェクト》)ということにも注意したい。つまり投票は、暫定的な「かたち」の係留地点であるプロトタイプに何についての尺度かは不明瞭な状態のままポジティブ⇔ネガティブの定量的な評価を付与し、その理由を評価から逆算し拡張的に推論することで創造的な「ち」の飛躍すなわち上述の「帰納的飛躍=Inductive Leap」を得る、その為の踏み台になっているということだ。この反復により、設計対象である建築の部分や層に関わる「ち」にそもそもどんなものが存在し、どのような強度で分布しているのが顕在化される。そして「ち」の所在の多様性、その強度分布の複雑性を失わないよう、いかに「かたち」がそれらの知見を保持し続けられるかの探索がデザインの作業ということになる。ここでの「帰納的飛躍=Inductive Leap」の抽出手続きは、「集団的な『ち』」の運用において、投票という定量化のプロセスにより、きわめて明快に定位される。

では藤村が類型化するその他2つの「ち」の類型においても同様の手続きを想定できるだろうか。藤村が他二類型に与えている「個人的な『ち』」「計算的な『ち』」を、対象となる人やものの規模に関わる記述に揃え、仮に「個人的な『ち』」「ビッグデータ的な『ち』」と言い換えてみると、「個人的な『ち』」についてはインフォーマルな対話により精度をもたせる為の点数評価などの導入が想定され、「ビッグデータ的な『ち』」についても、その答えは自ずと見えてくる。

結論から言ってしまえば、答えは「ビッグデータ的な『ち』」においても超線形設計プロセスは可能なはずで、ただし「最適化」的な手続きにおいてではなく、「学習=ラーニング」的な手続きにおいてのみという条件付きでということになるだろう。

ここで藤村が「計算的な『ち』」と呼び、本論では「ビッグデータ的」と言い換えている系譜に位置付けている、《G House》《G Chair》《Deep Learning Chair》に沿って考えてみる。これらのプロジェクトは、インターネット上で「House」や「Chair」といった単語に紐づく人々のイメージの中にある「かたち」をまず画像として収集し、そのすべてを代表しうる「かたち」を画像群から3次元的に抽出することを試みたものだ。《Deep Learning Chair》はシリーズの中では直近のものであり、ボクセルを用いた深層学習アルゴリズムにより、収集対象にあたるすべての椅子の特徴量を代表する「かたち」を計算により求めている。《G Chair》では抽出画像を既知の概念によりモデル化し(背もたれ、座面、脚、ひじ掛けへの分解)、そのマッシュアップについても随時必要なルールを暫定的に導入してはその平均値や組合せを人間が判断していたものだ。《Deep Learning Chair》はその計算によるバージョンアップの試みだ。

取得される画像は、それぞれ誰が、何の為に、どんな環境で、どのように撮影/作成し、なぜ「House」や「Chair」に紐づけて掲載されているのかという枠組みがまったくランダムであるという点で、構造化されていないデータ群だ。非構造化データと呼ばれるこうしたデータ群は情報産業においてはここ10年来注目され続けてきたもので、2017年に設立されたデジタルアーカイブ学会においても、形式知と相補的かつ循環的に働く暗黙知を生成する場として非構造化データは注目を集めており、形式知と暗黙知の循環こそが新しい知の創造につながることが指摘されている。

ただし、現状の「Deep Learning Chair」のプロジェクトには、超線形設計プロセスにおける発展的な可能性を捉える上で、ひとつクリティカルな視点が欠如しているように思われる。それは、元来比較が想定されていないばかりか形式も厳密には一致しない非構造化データの群を対象にしているからこそ、そこに認識可能な意味を探る行為に「帰納的飛躍=Inductive Leap」が発生しうるはずだという視点だ。

現状の「Deep Learning Chair」の手続きでは、与えられたデータセットから得られるアウトプットを暫定的に一つの典型に落とし込む手続きを取っている為、与えられたデータセットに対し、擬似的に必ず一対一対応の「最適な」典型が与えられるように見えるシステムとなってしまっている。

しかし、本来「学習=ラーニング」(ここでは特に教師なし学習)の中で起こっていることは、「与えられたデータに内在する特徴量を、善し悪しの判断は留保したままパターンとして認識する」作業であり、たとえば与えられたデータ群は典型として認識されうる特徴量から、どれぐらいバラつきのある集団であるのか、あるいは内部に複数の典型をもつ、一見一集団に見える複数集団の集まりであったのかなど、抽出する典型のあり方をプロトティピカルに措定し、そこから透けて見える特徴量の分布に対して意味を汲み取り、拡張的に推論を組み立てていくようなプロセスが設定できるはずだ。またそうすることではじめて、「集団的な『ち』」の運用でいえば、プロトタイプ群への投票が完了し、何についての尺度かが不明瞭なまま点数のみが与えられた状態に等しい段階が準備され、計算的な手続きにおいても「帰納的飛躍=Inductive Leap」を抽出できる、超線形設計プロセスの土俵が導入されるはずなのだ。

そして、「個人的な/集団的な/計算的な(ビッグデータ的な)『ち』」のいずれにおいても超線形設計プロセスの設定可能性を確認した我々は、あらためてその先に、設計対象である建築の部分や層に関わる「ち」の所在の多様性、その強度分布の複雑性が網羅的に抽出される過程をイメージできる。さらにではその「ち」を、いかに「かたち」として保持できるかという探索としてのデザインの作業に、いま一度思いをめぐらせることができる。
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写真1:保育園と背後にある鎮守の森、周辺の郊外地 [photo Takumi Ota]

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木内 俊克
建築討論

きうちとしかつ/1978年生まれ。東京大学建築学専攻修了後、Diller Scofidio+Renfro(2005–2007, New York)、R&Sie(n)(2007–2011, Paris)勤務。2012年木内俊克建築計画事務所設立。代表作に都市の残余空間をパブリックスペース化した『オブジェクトディスコ』。