連載【都市論の潮流はどこへ 第2回】/中島直人/聞き手:松田達/Series : Where the urban theory goes? 02 / Naoto Nakajima Interview “Urban theory in the first half of the 20th century — The cross section of the 1910’s (2/3) : Camillo Sitte, Werner Hegemann and Le Corbusier” / Speaker : Naoto Nakajima / Interviewer : Tatsu Matsuda

松田達
松田達
Mar 26, 2018 · 39 min read

都市計画創成期におけるドイツとイギリスの関係

松田: スペインからフランスへの都市計画概念の伝播の話が出たので、次にドイツからイギリスへの影響関係を考えてみたいと思います。アングロサクソン圏で、ドイツ語を読める人は当時も決して多くなかったと思うので、ドイツからイギリスに都市計画の情報が伝わっていった大きなきっかけは、やはり視覚的に情報が伝わる、ベルリン都市計画展ではなかったかと思います。

中島:そうですね。それが、1910年。

松田:ええ。まさに、メルクマールの年ですね。

図1:Thomas Coglan Horsfall, “The Improvement of the Dwellings and Surroundings of the People: The Example of Germany, Manchester”, The University press, 1904(トーマス・コグラン・ホースフォール『居住の改良と人類の環境―イグザンプル・オブ・ジャーマニー』)

中島:その前にホースフォールという人が『居住の改良と人類の環境―イグザンプル・オブ・ジャーマニー』★1(図1)という、 副題でよく知られた有名な本を書いています。これが1904年。ドイツでの都市計画がどういうことをやっているかということをイギリスに紹介した本です。このホースフォールという人は、イギリスの都市計画の人ですけど、親ドイツ派で、おそらくドイツ語が出来た人です。必ずしもこの本で当時のドイツの都市計画が全部知られたわけではないんですけど、当時のイギリスのドイツに対する見方を代表する本だとして知られています。やはりイギリス人は、ドイツ流のかなりテクニカルな、社会技術化する都市計画というものに感銘を受けて、圧倒的に勉強していたということが、多分1910年の前の段階ですでにあったということですね。

松田:なるほど。

中島:ホースフォールについては『プランニング・パースペクティヴズ』にも論文があります★2。ホースフォールの関心は都市拡張の仕組みとか制度にも及んでいたと思いますが、一方で、カミロ・ジッテをどういう風にイギリス人たちが受容したかということになると、これは完全にレイモンド・アンウィンの話になりますね。カミロ・ジッテは都市のシステムではなく、アーバンデザイン的なスケールでイギリスのタウンプランニングに影響を与えています。

図2:Camillo Sitte, “Der Städtebau nach seinen künstlerischen Grundsätzen”, Wien, 1889(カミロ・ジッテ『芸術的原則に基づいた都市計画』, 邦訳:カミロ・ジッテ著, 大石敏雄訳『広場の造形』鹿島出版会, 1983)

松田:そこで気になってくるのは、当時の言語的な問題です。言語をまたいだ時に、当初の意図とは異なったかたちで物事が伝わるということが、当時も起こっています。例えばカミロ・ジッテが1889年に出した『芸術的原則に基づいた都市計画』(図2)は、1902年にジュネーブの建築家カミーユ・マルタンがフランス語に翻訳して出版していますが、この翻訳にはいろいろ問題があって、内容が大きく改変されたり、オリジナルにはなかった「通り」の章が付け加えられたりもしました。それによってフランス語圏では、中世主義的な側面が強調されたジッテが伝わっていったし、青年期のル・コルビュジエ、シャルル=エドゥアール・ジャンヌレも、ジッテをやや曲解して受容していました。

図3:George R. Collins and Christiane C. Collins, “Camillo Sitte and the Birth of Modern City Planning”, London, Phaidon Press, 1965(ジョージ・R・コリンズ、クリスティアーヌ・C・コリンズ『カミロ・ジッテと近代都市計画の誕生』)

中島:ええ、コリンズ夫妻の名著『カミロ・ジッテと近代都市計画の誕生』★3(図3)がそのあたりの状況について明らかにしていますね。

松田:で、ジッテの本には英語版が・・・

中島:なかったわけですよね。まさにコリンズが、英語版がなかったことをいっています。多分そういう意味では、カミロ・ジッテの主張すべてをイギリスが受容したというより、アンウィンのフィルターを通じて見たってことですよね。

松田:アンウィンはドイツ語を読めたんでしょうかね?

図4:Raymond Unwin, “Town Planning in Practice: an introduction to the art of designing cities and suburbs”, London, T. F. Unwin, 1909(レイモンド・アンウィン『実践の都市計画―都市と郊外のデザインにおける美学の紹介』)

中島:いやあ、どうでしょうか。でも読んだんじゃないでしょうか?アンウィンの『実践の都市計画―都市と郊外のデザインにおける美学の紹介』★4(図4)は1909年だったと思いますが、この中にカミロ・ジッテの図版はかなり載っています。まあ図版なので、ドイツ語の本は読んでいなかった可能性もありますけど。

松田: アンウィンがジッテを実際にどのように受容していたのか、これは気になるところですね。

中島:ちなみに、日本の石川栄耀も自分の教科書でカミロ・ジッテの図版を掲載していますが、これもあくまでアンウィンを経由してです。カミロ・ジッテはアンウィンよりも世代が少し上で、1900年くらいに亡くなっていますよね。

松田:ジッテが亡くなったのは1903年ですね。

中島:没後に『都市計画(デア・シュテッテバウ)』★5(図5)という雑誌が出ましたよね?

図5:Begründet von Theodor Goecke und Camillo Sitte, “Der Städtebau”, Vol. 1, Berlin, Ernst Wasmuth, 1904(テオドール・ゲッケ、カミロ・ジッテ創刊『都市計画』誌創刊号)

松田:ええ。共同者のテオドール・ゲッケと創刊を準備していたところでジッテが亡くなり、翌年1904年に創刊されますね。あと、1907年にはヨーゼフ・ブリックスとフェリックス・ゲンツマーがベルリン工科大学で最初の都市計画セミナーを開いているので、この頃のドイツでは、都市計画を学問として教える空気が、ヨーロッパのなかでいち早くできていたのでしょうね。

中島:その辺は、多分イギリスが同時代的に受け入れていたんでしょうね。

松田:そう思います。ドイツに学べという意識は高かったのだと思います。ゲデスが、国立住宅改良評議会★6が企画したドイツ都市計画の調査旅行に参加するのも1909年ですからね。一方、当時イギリスからドイツを訪れた人は、逆にドイツのなかにイギリスからの影響も見ていたのではないかと思います。例えば、ドイツは田園都市の影響を早い段階でかなり強く受けていて、例えばル・コルビュジエが1910年にドイツを旅している時には、兄が住んでいたドイツの小さな田園都市・・・

中島:ヘレラウですね。

松田:ええ、出来たばかりのヘレラウに行っています。自給自足じゃないので田園郊外になるかもしれませんが、もうそこにはある程度、田園都市の縮小版が出来ている。ドイツとイギリスは、互いにジッテの思想と田園都市を交換していたように思いますね。

中島:そうかもしれないですね。いや、そうだと思いますね。まあ、やっぱりヨーロッパって近いですからね。

松田:そうですね。

中島:言語的なところさえ超えれば、いくらでもって感じはして。確かにそのなかで、1910年のベルリン都市計画展やロンドン都市計画会議は面白いですね。ロンドンとベルリンだと、確かベルリンのほうが早いんですよね。

松田:ベルリンが5月から6月にかけてで、ロンドンが10月ですよね。ちなみにヴェルナー・ヘーゲマンはベルリン都市計画展をまとめた後、9月にデュッセルドルフでも都市計画展を開催しています。ただ、デュッセルドルフの時は、もうベルリンで見た人が多いのと、次のロンドンがすぐなので、ほとんどロンドンに人が流れたらしいです。

図6:ジュール・ゲランによるシカゴ・プランのイラスト。ダニエル・H・バーナムとエドワード・H・ベネット『シカゴ・プラン』(1909)に掲載された。(出典:英語版Wikipedia「Burnham Plan of Chicago」より

中島:確かダニエル・バーナムのシカゴ・プラン(図6)は、デュッセルドルフで初めて本物が行ったとか、そういうのがありませんでしたっけ?

松田:ジュール・ゲランが描いたイラストのオリジナルはそうですね。ベルリンの時は安全性とコストが心配されて、大判の写真でしか展示できなかったのですが、デュッセルドルフではアメリカ以外ではじめてオリジナルのイラストが公開され、さらにロンドンに回って、多くの人に見られることになりましたね★7。

中島:そうそう。その3つの展覧会が立て続けに行われた1910年というのは、やはりすごく大きいですよね。交流が行われたことはもちろん、いろいろな都市での取り組みが一堂に会したということですね。

松田:都市計画史のなかで、これだけ重要なイベントが連続する時ってなかなかなかったですよね。

中島:そうですよね。で、ついでに言うと後に建築史の先生になる土屋純一が1910年のロンドン会議に参加して、『建築雑誌』上、はじめて都市計画についての報告を書くんですよね。まあまだ「都市計画」という用語は使用していなかったのですが。

ロンドン都市計画会議が変えた「都市計画」の意味

松田:ベルリン都市計画展については、クリスティアーヌ・クラーゼ・コリンズが、その位置づけや、来ていた人物、またその後の影響関係などを分析したりしていますが★8、ロンドン都市計画会議の都市計画史的な影響についてはどのように考えられているでしょうか?

中島:日本への、ではなくて世界へのですか?

松田:ええ、世界的な影響ですね。

中島:1910年のロンドン都市計画会議は、そもそも1909年に都市計画法がイギリスで出来て、その記念として開いた会議なんですよね。ポジティブに見るのかネガティブに見るのかそれぞれありますが、あの会議はやっぱり都市計画というものを、ある種、建築家が主導するんだっていうことをはっきり言おうとした会議なんですね。最近、秋本福雄先生が昨年の都市計画学会で、ロンドン都市計画会議に関して土屋純一の再評価をする興味深い論文を発表されて、私もこの会議のそうした性格を再認識しました★9。

これまでは公衆衛生だったり、ハウジング、つまり住宅政策とか、様々なものが都市計画の中にあってそれらを取り込みながら、田園都市運動になったり、IFHP(国際住宅・都市計画連合)★10へと発展していったりしたんですが、ロンドン都市計画会議はRIBA(英国王立建築家協会)が開催した会議で、そういう多分野乗り入れの議論はしませんという立場を明確にしたものでした。例えば、貧困地区の改良とか、そういうことではなくて、あくまで都市を拡張していく時の住宅地をどうフィジカルにつくっていくのか、それが都市計画なんだっていうことを宣言した会議なんですね。だから、ある意味では都市計画というものをすごく狭く解釈したもので、先ほどのドイツの話ともつながるかもしれませんが、建設技術とか建築技術のなかだけで捉えるものにした、という会議なんです。その歴史的な意義をどう考えるかはなかなか難しいのですが。

松田:主催が王立建築家協会ですからね。

図7:渡辺俊一『「都市計画」の誕生』, 柏書房, 1993

中島:ええ。まあ狭くしているというか、いろいろとごちゃごちゃしていたものを、すっきりさせるということだったようなんですね。それ以前には、渡辺俊一先生が『「都市計画」の誕生』(図7)のなかでロンドン都市計画会議に出席した土屋のことを書いていて、当時のヨーロッパではいわゆる都市計画が土地利用というか都市全体のコントロールになってきていて、そういう潮流のなかで開かれた会議に出たのに、土屋は建築的な観点からしか見ていなかったんじゃないかということを指摘していました★11。でも、秋本先生によれば、実際にはあの会議自体が建築的なことを強調した会議であったので、ちゃんと会議の中身を見れば、土屋のレポートは間違っていないということなんですね★12。

松田:その場合の「建築的な」というのは、何に対する「建築的な」ということなのでしょうか?社会学とかそういうものに対してでしょうか?

中島:公衆衛生とか土地利用コントロールとかに対して、アーバンデザイン的、あるいは設計的な都市計画のようなものを指しています。イギリスでは、例えばアンウィンとかがそちらの側になります。

松田:もう少しお聞きしたいのですが、いまの「建築的な」という中には、都市計画関係者は含まれるのでしょうか?

中島:都市計画は含まれるんです。都市計画は含まれるんだけど、渡辺先生がいうような、ドイツ的な自治体による都市総体のコントロールのようなことがメインではなくて、やはり当時の建築家がどういう風に都市に設計的に関われるかとか、住宅地をどうデザインするかということが、結局1910年の会議ではメインだったらしいんですよね。当時の論文集には、例えば衛生的な分野も入っていたらしいんですけど、実際の会議での報告では一切そういう分野の発表はなかったようです。だから、そういう意味では1910年の会議は、都市計画の領域をはっきりさせる、明確にするという意図のものでもあったということですね。

松田:ということは当時の対立軸を挙げるとするなら、社会的な制度として都市を改善していこうとする福祉的な都市改良と、物理的な対象として都市を建築的にデザインしていこうとする都市設計という、二つの方向性による軸が・・・

中島:あったかもしれないですね。さっきのゲデスの話もそうだと思うんですけど、都市計画つまりタウンプランニングというのは、建築的なものとの関係のなかでもかなりあったけど、もっと広いものがやっぱりあったんじゃないかなということですね。もともと郊外の特定の地区をフィジカルに、具体的にデザインしていく方向性のものだし、それを記念している1910年の会議は、やはり建築的なところに焦点があたるわけですね。

松田:興味深いですね。

ヴェルナー・ヘーゲマンと1910年前後のアメリカ

中島:だからそういう目で見ると、同じ1910年のベルリン都市計画展というのがどういうものだったのかということは、まだ検証する余地があるかなと思っています。

松田:ベルリン都市計画展の話でいうと、その統括を任されたヘーゲマンは、直前にアメリカで行われた都市改良的な側面を持つ二つの展覧会に影響されて、展覧会を組み立てていました。ひとつはベンジャミン・C・マーシュを代表とする人口過密委員会が企画した展覧会、もうひとつはヘーゲマン自身が企画側で関わり、ボストンの都市改良を目的とした「ボストン1915」展です。いずれも前年の1909年に開催されていて、その内容の一部はベルリンに行っています。ヘーゲマンは建築家ではないし、これまで経済学を中心に学んできたという経緯を考えても、やはり都市改良的な側面は強く持っていたのではないかと思います。

中島:そういう側面はあると思いますし、しかもそれがまさにアメリカの状況になってきますが、アメリカは1900年代というのがすごく大事で、シティ・ビューティフルから、シティ・エフィシエントないしシティ・プラクティカルに変わってくるという状況がありました。効率的都市とか実用的都市を目指すようになるわけですね。1909年に始まるアメリカ全国都市計画会議というのは、それまでボザールとか建築的なところの出身の人たちが活躍していたシティ・ビューティフル的な都市計画に対して、やっぱり違う都市計画をつくろうという意図で始まった会議なんです。だから、美の問題は絶対にやりたくないと最初にわざわざ言っているんですよね。多分、人口過密委員会もそうなんですけど、都市の社会的調査を行って、美的な部分だけではないものを捉えて、都市計画をつくっていこうという動きが、当時の潮流としてあったんですよね。ヘーゲマンは、まさにその時代にアメリカにいっているわけですね。

中島直人氏(東京大学工学部都市工学科中島直人研究室にて)

松田:ヘーゲマンは、1904年から1905年にかけてが最初の長期アメリカ滞在で、ペンシルヴェニア大学ウォートン校で経済学者サイモン・パッテンの元で学んでいます。同じパッテンのもとでは過去にジョン・ノレンやマーシュも学んでいました。次の滞在が1908年から1910年にかけてで、フィラデルフィアで地方住宅調査官として働いた後、1909年にボストンに移っています。その途中で、ワシントンD.C.の全国都市計画会議に立ち寄ったというわけですね。

中島:1904年と1908年ですか。この辺はシティ・ビューティフル運動に関しても、行ったり来たりでより戻しがあったりして複雑なんですよね。このあたりは私もかつて調べたことがあるのでですが、1905年とか1906年あたりが、シティ・ビューティフルに対する攻撃が一番激しかった頃ですね。だから1909年にバーナムがシカゴプランをつくって、シティ・ビューティフルの代表だとか言われますが、あの時代ってよく考えると・・・

松田:もうシティ・ビューティフル運動の終わりですよね。

中島:そうなんです、あだ花とは言わないけど、もう最後なんですよ。時代としては、もっと機能を重視して都市計画をつくっていこうという時に、シカゴプランが出来上がってくる。そのころの都市計画はしばらく美の問題を取り扱っていません。だけど1910年代半ばになると、やっぱり機能の方に行き過ぎたねということがあって、また美について議論をしはじめていく。

松田:またピーターソンの本にある通りですが、1900年前後に生まれた都市美運動は、様々な経緯の上で1910年前後にはより機能的で総合的な都市計画へと変質してきているわけですね。フレデリック・ロウ・オルムステッド・ジュニア、チャールズ・マルフォード・ロビンソン、ジョン・ノレンらがその立役者になっていく。バーナムは世代的に二回りほど上で、シカゴプランの頃にはもう巨匠になっている。だから都市美的なプロジェクトの集大成としてシカゴプランをまとめるわけですね。ベンジャミン・マーシュはこれら全体と対立する立場で、人口過密の問題を取り上げながら、社会福祉的な観点から貧困の問題を都市計画の最大の課題として取り上げようとする。だから、第一回アメリカ全国都市計画会議の際に、オルムステッド・ジュニアと主導権争いをして負けていきますが、それによってアメリカの都市計画は、より包括的で総合的な都市計画(コンプリヘンジヴ・プランニング)として、脱皮をしながらまとめられていくわけですね。

中島:そうですね。あとついでにいうと、もう一人、重要な人物として、エンジニア出身で『現代都市計画』★12という本の著者で、その本が翻訳されたことで日本人にも親しみのあるネルソン・ルイスという人がいます。日本では、ルイスが「リューイス」とか「レービス」と表記されていました。が、彼の息子のハロルドも都市計画家で、父親の『現代都市計画』を改訂して出版し、それもまた戦後に翻訳されたということで、親子二代にわたって、日本の都市計画に影響を与えた人です。父のルイスは都市計画のこの第一回の会議のメンバーなんですけど。

松田:ネルソン・ルイスはどのような位置づけの人と考えたらよいでしょうか?

中島:エンジニアですね。交通とかのエンジニアからはじまっている人です。

松田:この人は、オルムステッド・ジュニアとマーシュが第一回会議の方向性を争っている時に、オルムステッド・ジュニアから会議の主導を任せられた人物でもありますよね★13。非常にバランスがよかった人という認識があります。

中島:ネルソン・ルイスは、建築とは別の都市計画というものがあるんだという、それをやった人ですね。単に絵を描いて都市計画にするという人ではなくて、法律家だったり、エンジニアも含めて、いろいろな人が関わるという前提の上で、都市計画を考えるという人ですね。だからやはりこの頃、都市計画というのは揺れ動いていたし、この時代に都市計画を確立しようとなると、最初はいろいろなものを排除しようという論理のほうが大きいわけですね。まず何かを打ち立てて、それではまずいのではないかということでそれを広げていくのですが、1910年頃にそれを絞ろうとする動きがある。松田さんがおっしゃるように、この時代に基盤が確立されていく。でも、それに対して都市計画って他にもあるのではないかという議論が、アメリカやイギリスではつねに起こっていたのではないかと思います。

松田:ヘーゲマンがベルリン都市計画展を統括したときには、まだ28歳と非常に若かったんですが、その時にアメリカの人口過密委員会や「ボストン1915」の情報も持っていっている一方、建築的な都市計画についても欧米各国から集めてきてそれらをアッセンブルしているので、おそらくヘーゲマンは、貧困を解消しようとする社会福祉的な都市計画の立場と、建築家的な美や機能を問題にする都市計画の立場と、両方の立場に理解があって、それを展覧会に入れたと思うんですね。

中島:そうですね。

松田:当時のドイツでは、都市のモデルをジッテの中世主義に求めるか、堂々とした古典主義に求めるかという対立がありましたが、ヘーゲマンが面白いのは、そのなかでジッテ自身に中世主義と古典主義の両面があることを読み取り、その両方を評価するみたいな立場をとっていくところですね。それは他の人とはかなり異なっているわけですね。

中島:あると思います。そうかもしれないですね。

松田:ヘーゲマンはモダニズムに対してもそうで、歴史的なことも評価すれば、革新的なことも評価するという・・・

中島:そうですね。だからヘーゲマンはコレクターというか、いろいろなものを集めて編集するような・・・

松田:ああ、そうですね。

図8:Werner Hegemann, Elbert Peets, “The American Vitruvius, an architects’ handbook on civic design”, New York, 1922 (reprint 1988: New York, Braunschweig, Wiesbaden)(ヴェルナー・ヘーゲマン『アメリカのウィトルウィウス―建築家のためのシヴィックデザインのハンドブック』)

中島:そういう意味では、自分の立場はこれだということではなくて、世界を理解したいという気持ちの方が大きい。その辺が展覧会の使い方として上手いですよね。『アメリカのウィトルウィウス―建築家のためのシヴィックデザインのハンドブック』★14(図8)でも、いろいろなものをコレクションしているわけで。

松田:確かに、そうですね。そういえばもうひとつお聞きしたかったのが、へーゲマンについて調べようとしたら、日本では中島さん以外にほとんど言及している人がいなかったということなんです。なぜ、ヘーゲマンは日本でこれだけ知られていないのでしょう?

中島:ひとつには、やはりコリンズ夫妻の仕事がほとんど日本で翻訳されなかったからですよね。 先にも言及しましたが、1960年代に出した『カミロ・ジッテ―近代都市計画の誕生』、あの邦訳があれば、多分へーゲマンも知られるはずだったんですけど、翻訳が出ませんでしたからね。

松田:確かに、そのとおりですね。

ヘーゲマンとル・コルビュジエの知られざる関係

松田:ところで、クリスティアーヌ・コリンズはヘーゲマンのアメリカ時代について書いた論文のなかで、ヘーゲマンが生前ル・コルビュジエよりも国際的にずっと知られていたということを書いていますよね★15。

中島:同時代的には、と書いてありますよね。

松田:ええ。いまから考えるとこれは驚くべきことですね。1920年代後半くらいになると、コルビュジエはもう相当有名だったので。ヘーゲマンがその後、忘れられていったのは、モダニズムに対してあまり肯定的な評価をしなかった、あるいは両義的な評価をしたため、モダニズムを正とする歴史からは、外れていったからではないかと思います。ヘーゲマンはわりと早く1936年に亡くなったこともあって、歴史的な位置づけが曖昧なまま、忘れられていってしまったんですよね。ただ、最近になって、先ほどの『アメリカのウィトルウィウス』などが再版されたりするんですね。

中島:これは1980年代に再版されたんですけど、クリスティアーヌ・コリンズに加えて、新古典主義的志向で影響力をもった建築家のレオン・クリエ、私もお世話になったイェール大学のアラン・プラッタス先生が復刻版のイントロダクションを書いています。プラッタス先生は専門はアーバンデザインですが、この前亡くなった美術史・建築史家のヴィンセント・スカーリーのお弟子さんの一人です。つまりヘーゲマンの『アメリカのウィトルウィウス』は、イェール大学のスカーリーらが理論的中心となって展開された、モダニズムに対する批判的な運動、とりわけ1990年代以降、アメリカのアーバンデザインの主流となるニューアーバニズム運動へとつながっていく流れのなかで、再発見され、価値づけられたのです。

松田:そうなんですか。再版された文脈があったんですね。

中島:あります。でもアメリカでも当然モダニズムの全盛期には、この本は歴史的なことを扱った本としては知られていたでしょうけど、それ以上の何ものでもないって感じだったんでしょうね。

松田:この本はアメリカで1922年に出版されていて、タイトルもそうですが、図版の非常に多いハンドブックになっていて、ヨーロッパとアメリカの情報を集めた教科書のようにも見えるわけですよね。コルビュジエもほしいといって、ヘーゲマンに手紙を書いて送ってもらったりしています。

中島:そうなんですか。それは面白いですね。《300万人の現代都市》も同じ1922年なんですよね。かたやコルビュジエは歴史と決別し、白紙に都市像を書いて、かたやヘーゲマンはこれまでの歴史的蓄積を整理してカタログにするという、歴史に対する二つの態度、モダニズムとシヴィックアートが一瞬、交差する瞬間として、1922年のこの二つの出来事を私も授業でよく取り上げています。

図9:”Wasmuths Monatshefte für Baukunst (und Städtebau)”, Juli 1930(出典:ドイツ語版Wikipedia「Wasmuths Monatshefte für Baukunst」より

松田:コルビュジエはその《300万人の現代都市》の内容を1923年にヘーゲマンに送っているんですよね。コルビュジエは、アメリカのスカイスクレーパーをよく知っているはずのヘーゲマンなら理解されることをおそらく期待して、また都市計画についての対話をしようとヘーゲマンに手紙を送ったそうなのですが、数ヶ月経ってヘーゲマンから返ってきた返事は、グリッド型に配置されたスカイスクレーパーに対してかなり否定的なものでした。結局その後、コルビュジエは話を変えて『アメリカのウィトルウィウス』を送ってほしいということを伝え、それから3年ほど二人は文通を行いますが、話題はコルビュジエの作品を『ヴァスムート建築月刊誌』★16(図9)に掲載する可能性についてということに終始します。というのもこの頃ヘーゲマンは、ヴァスムート誌の編者になっていたからです。

ちなみに『ヴァスムート建築月刊誌』は1919年から編集を行っていた建築批評家のハインリッヒ・デ・フリースがヘーゲマンに引き継がせようとしたもので、デ・フリースはテオドール・ゲッケの死後、同じく1919年から『都市計画』誌の編集を引き継いでもいて★17、後にヴァスムート建築月刊誌は『都市計画』誌も合併するので、実質的にヘーゲマンは、ジッテとゲッケが創刊した『都市計画』誌を、引き継いだということになりますね。

コルビュジエは1910年のベルリン都市計画展の後にヘーゲマンがまとめた展覧会についての本を2冊とも買っているので、おそらくヘーゲマンへのリスペクトはかなり強かったと思うんですね。だけど1920年代には、コルビュジエはもうドイツ時代からさらに先に進んで考え方も変わっているので、ヘーゲマンとは都市計画についての考え方が合わないんです。それで今度は建築家と編集者という関係に切り替わっていくというわけですね。ヘーゲマンは1926年にパリのコルビュジエのところに、友人のスティーン・アイラー・ラスムッセンと一緒に訪れます。唯一ヘーゲマンとコルビュジエが出会った機会ですね。コルビュジエもボルドーまで行って、ペサックの集合住宅も案内したというので、相当力を入れて紹介したんだと思います。多分、都市計画についての意見の違いで、多少緊張関係はあっても、お互いにリスペクトしあっていたんでしょうね。

中島:なるほど、面白いですね。

松田:この二人には不思議な関係があると思います。

中島:後世の人から見ると、コルビュジエとへーゲマンってまさに対極にあるような人たちだし、仲が悪いんじゃないかと思うんですけど、コルビュジエのなかには、もともとジッテ的なものもヘーゲマン的なものもあったんですよね。つまりジャンヌレ的なものがコルビュジエのなかにずっとあるまま、ル・コルビュジエになっていく。

松田:そうですね、まさに。

中島:面白いですね。

松田:へーゲマンは、ジッテの中世主義に影響されていたコルビュジエを、古典主義へと開眼させるきっかけを与えますが、1920年代にはコルビュジエはテイラー主義を受け入れながら、もうその立場を乗り越えていたという状況ですね。

中島:ヘーゲマンについては、日本では本当に知られていないですね。多分、当時の都市美運動の人たちの言説のなかにも、ヘーゲマンについてはほとんど出てこないんですよね。ヘーゲマンの『アメリカのウィトルウィウス』自体がどこにも現れてこない。一方、アンウィンの『実践の都市計画』は、1909年の古い本ですけど、当時の日本の都市計画家たちは、誰もがおそらく読んでいましたね。

松田:そういえばゲデスも日本ではほとんど知られていませんでしたね。

中島:都市計画の世界では、そうだと思いますね。

松田:社会学の分野では、何人かの人が同時代にゲデスについて触れていたりしたようです。シカゴ学派の研究のなかで、ゲデスが現れてきたり。ただ、ゲデスとヘーゲマンは20世紀初頭にこれだけ重要な役目をしたにも関わらず、日本には知られていないし、当然ほぼ影響も与えていないわけですね。

中島:それはそうだと思いますね。

松田:後で、日本の話もお伺いさせて下さい。

20世紀初頭のヨーロッパにおける都市論

松田:かなり広範なお話をしてきましたので、いまの段階で、ヨーロッパの1910年代を概括してみた時に、当時の都市論あるいは都市計画論がどういうことだったのかということを、中島さんにお伺いしてみたいのですが。

中島:それはいまの日本に対してということですか?

松田:いまの日本への影響というより、当時の欧米の状況においてという意味でした。これまでの話では、都市論と一言にいっても非常に広く、そのなかで例えば、福祉的な都市改良の立場と、建築的な都市計画の立場が、ひとつの対立項としてあったのではないかと思いますが。

中島:対立項というよりも、おそらく都市改良的な世界というのは、19世紀半ばくらいから広くあって、多分そのなかから都市計画が出てきているんですけど、都市改良という世界がもっと広くあるなかで、都市計画が社会技術として限定したかたちで現れてきたという感じですかね。だからそれを対立としてみることも出来るし、都市計画は都市改良の一部だという風に見る人もいるだろうし、いろいろな見方があるのではないかと思います。でもそれこそが19世紀後半から20世紀前半にかけての、都市論の最大の成果という気はしますね。

松田:ちなみにフランスだと「プランニング」という言葉を、都市論のなかでは、いまでも出来るだけ使わないような傾向がありますね。

中島:それは何故なんでしょうか?その辺を私は聞きたいですね。

図10:Pierre Merlin,‎ Françoise Choay (eds.), “Dictionnaire de l’urbanisme et de l’aménagement”, puf, 1988, 2005, 2010(ピエール・メルラン、フランソワーズ・ショエ監修『ユルバニスムと整備についての事典』)

松田:一言でいえば、「プランニング」という言葉が、そもそもアングロサクソン的な概念だという認識が強いからのようなのです。昔、パリ・ユルバニスム研究所★18というところにいた時に、「プランニング」がフランス語に翻訳しにくいことを不思議に思って、指導教員だったロラン・クードロワ=ド=リール先生に聞いて返ってきた答えでした。フランス語だと都市計画の領域は、基本的にユルバニスム(urbanisme)とアメナジュマン(aménagement)という言葉のセットで語られます。アメナジュマンは「整備」という意味で、中心となるユルバニスムという思想に対して、その実現のための実践的な行動とでもいえるかと思います。まあ「改良」とも訳せなくはないので、先ほどの都市計画と都市改良という組み合わせに近いところもあるかもしれません。ピエール・メルランとフランソワーズ・ショエが監修した、定番の都市計画用語事典の名前も『ユルバニスムと整備についての事典』★19(図10)です。でもどちらの用語にも「計画する」という概念は入っていないわけですね。

フランスでは「ユルバニスム」という言葉と概念を大事にしていて、それがイギリスのタウンプランニング、アメリカのシティプランニング、あるいはドイツのシュテッテバウとは異なる起源であることを、かなり強く認識しています。だから本来的に「都市計画」とは訳しにくいんですね。CIAMのなかでも、フランス語圏の建築家たちは、ユルバニスムという言葉にかなりこだわっていたそうです。

もう少し敷衍して線を引くならば、ゲルマン=アングロ・サクソン的な都市感に対する、ラテン諸語圏的な感覚の違いが、背景にあるのではないかと思います。おそらく「計画する」というと、それこそ白紙の上にゼロからつくるという印象が強いと思うのですが、ラテン諸語圏では都市は所与のものとしてあって、そのなかでどう考えていくかという印象が強いのかなと言う気がします。セルダのウルバニザシオンも、やはり「計画」ではないわけですよね。

もうひとつ「プランニング」は、物理的な何かをつくるという印象が強いと思うのですが、やはりラテン諸語圏ではプラクティカルに都市をつくるということが、もっとも重要なわけではないというスタンスが、ずっとあったと思うんですね。要するに都市は物理的な存在だけではないということですね。それこそ「タウンプランニング」に対して「シヴィックス」から都市にアプローチしようとするゲデスとも共鳴する点がある気がします。

中島:おっしゃる通りだと思いますね。

松田:ただ1920年代以降くらいになると、フランスとイギリスは都市計画に関してはあまり接点が見当たらなくなりますね。フランスの動きそのものがやや切り離されたような感じで、例えば日本から見ると、フランスの都市計画の動きはほとんどル・コルビュジエに集約されて見えてしまっていたのではないかと思います。例えばマルセル・ポエトとかガストン・バルデも重要な人なんですが、基本的にフランス語圏だけでしか知られていないんですよね。

中島:イギリスとフランスもそうですけど、ドイツとフランスも基本的には仲が悪いじゃないですか。カミロ・ジッテの本に関してもフランス語訳は全然正確じゃなかった。そういう意味では没交渉だったというわけですね。

松田:第一次世界大戦も大きいと思うんですよね。1914年から18年ですね。

中島:そうですよね。

松田:ドイツは敗戦もあって、第一次世界大戦以降、都市計画はしばらく停滞していたような状況だったと思うんです。

中島:1914年まではドイツの影響は非常に大きかったんですけど、そのあとはなくなっていくんですよね。

松田:そうですよね。コルビュジエも1917年にパリに移住しますが、それ以前に影響を受けたドイツを選択しなかった理由のひとつは、戦争だったはずです。

中島:ただ、日本はずっとドイツから勉強しますね。

松田:確かに。

中島:それがまた次の段階が来るんですよ。多分、アムステルダム会議とかになってくるわけです。

松田:アムステルダム会議っていつでしたっけ?

中島:1924年ですね。20年代になるとリージョナル・プランニングの話が出てくるんですね。IFHPの過去の会議だと、1923年のヨーテボリから始まっていますね。ここでもリージョナル・プランニングの話が出ています。

松田:ヨーテボリの国際都市計画会議といえば、その英語版カタログをヘーゲマンが編集していたところでもありますね。

中島:あ、そうですか。

松田:この会議も重要だったんですよね。

中島:そうですね。IFHPはもともと田園都市のエベネザー・ハワードが設立した団体から出来ているので、もちろんハワード的な流れの中でのリージョナル・プランニングです。ただドイツでは、いわゆるドイツ流のゴットフリート・フェーダーも含めた、非常に機械的な、国土から都市までを含む大きなものになっていきますね。

松田:ドイツ語圏だとIFHPの会議は、ウィーンで1926年、ベルリンでは1931年に行われていますね。

中島:ええ。この辺だと日本人も参加していて、そのなかでドイツも復活してくるんですけど、1930年代になるとナチスが台頭してきていて、圧倒的な国土計画のようなものが現れてくる。少なくとも日本はその影響を受けますよね。ただ、やはり1914年からしばらくは、ドイツの都市計画における影響力は弱くなったといえますね。

松田:あの、この段階で一度お聞きしたいんですけど、そもそも「都市論」といったときに、どういった範囲のものを想定されるでしょうか?都市論小委員会の中でも「都市論」とは何だろう?という話が出てきたんですね。重要な論考やその連鎖そのものを考えるのかと。こういう歴史的な流れもそうなんですけど、都市論といっても定義が難しいですよね。ただ、やはりこういう人的な関係とか、出来事の連鎖として考えていくのが一番分かりやすいですかね。

中島:そうですね。やっぱり論は人に結びついていると思うので。

松田:なるほど。まあ、こういう感じで都市論の流れを考えていくのは、そんなに間違ってはいないといえるわけですね。

中島:そうだと思いますね。

(中島直人インタビュー「 20世紀前半の都市論―1910年代の断面図 (2/3):カミロ・ジッテ、ヴェルナー・ヘーゲマン、ル・コルビュジエ」 了)

[2018年1月12日、東京大学都市工学科中島直人研究室にて]

中島直人(なかじま・なおと)
1976年東京都生まれ。東京大学工学部都市工学科准教授。主な著作に 『都市美運動―シヴィックアートの都市計画史』(東京大学出版会)、『都市計画家石川栄耀―都市探求の軌跡』(共著、鹿島出版会)など。


★1 Thomas Coglan Horsfall, The Improvement of the Dwellings and Surroundings of the People: The Example of Germany, Manchester, The University press, 1904

★2 Michael Harrison, “Thomas Coglan Horsfall and ‘the example of Germany’ ”, in Planning Perspectives, Volume 6, 1991, Issue 3, pp.297–314

★3 George R. Collins and Christiane C. Collins, Camillo Sitte and the Birth of Modern City Planning, London, Phaidon Press, 1965

★4 Raymond Unwin, Town Planning in Practice: an introduction to the art of designing cities and suburbs, London, T. F. Unwin, 1909

★5 Begründet von Theodor Goecke und Camillo Sitte, Der Städtebau, Vol. 1: Monatsschrift für die Künstlerische Ausgestaltung der Städte nach Ihren Wirtschaftlichen, Gesundheitlichen und Sozialen Grundsätzen, Berlin, Ernst Wasmuth, 1904

★6 National Housing Reform Council.

★7 Christiane Crasemann Collins, Werner Hegemann and the search for universal urbanism, WW Norton & Company, 2005, pp.38–39, 45

★8 Christiane Crasemann Collins, op.cit.; Christiane Crasemann Collins, “City Planning Exhibitions and Civic Museums: Werner Hegemann and Others” in Werter, Wolker M. and Lames Lawson (eds.), The City after Patrick Geddes, Peter Lang Publishing, 2000など。

★9 秋本福雄「「タウン・プランニング」再考:イギリスの都市計画家は建築的アプローチを捨てたか?」, 『都市計画論文集』, Vol.52, №3, 公益社団法人 日本都市計画学会, 2017, pp.915–920

★10 International Federation for Housing and Planning.

★11 渡辺俊一『「都市計画」の誕生』柏書房, 1993, pp.61–77

★12 秋本、前掲論文。

★13 Nelson P. Lewis ,The Planning of the Modern City, 1916

★14 ジョン・A. ピーターソン著, 兼田敏之訳『アメリカ都市計画の誕生』鹿島出版会, 2011, p.311

★15 Werner Hegemann, Elbert Peets, The American Vitruvius, an architects’ handbook on civic design, New York, 1922 (reprint 1988: New York, Braunschweig, Wiesbaden)

★16 Collins, Christiane Crasemann, “Werner Hegemann (1881–1936): Formative years in America”, Planning Perspectives, 11(1), 1996, p.1

★17 Wasmuths Monatshefte für Baukunst. 1930年よりWasmuths Monatshefte für Baukunst und Städtebauとタイトルが変わっている。

★18 Christiane Crasemann Collins, “Camillo Sitte across the Atlantic: Raymond Unwin, John Nolen, and Werner Hegemann”, in Bohl, Charles and Jean-François Lejeune(eds.), Sitte, Hegemann and the metropolis: modern civic art and international exchanges, Routledge, 2009, p.189

★19 IUP: Institut d’urbanisme de Paris. 2015年にフランス・ユルバニスム研究所(IFU: Institut français d’urbanisme)と統合されて、パリ・ユルバニスム学校(EUP: École d’urbanisme de Paris)となっている。

★20 Pierre Merlin,‎ Françoise Choay (eds.), Dictionnaire de l’urbanisme et de l’aménagement, puf, 1988, 2005, 2010


建築討論

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松田達

Written by

松田達

まつだ・たつ/1975年石川県生まれ。建築家。建築計画・都市計画史。武蔵野大学工学部建築デザイン学科専任講師/1999年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修了。隈研吾建築都市設計事務所を経て、パリ第12大学パリ都市計画研究所にてDEA課程修了。東京大学先端科学技術研究センター助教を経て現職。

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