中島直人インタビュー「 20世紀前半の都市論―1910年代の断面図 (1/3)イギリス、ドイツ、スペイン、フランス」

連載【都市論の潮流はどこへ 第1回】/中島直人/聞き手:松田達/Series : Where the urban theory goes? 01 / Naoto Nakajima Interview “Urban theory in the first half of the 20th century — The cross section of the 1910's (1/3) : Britain, Germany, Spain and France” / Speaker : Naoto Nakajima / Interviewer : Tatsu Matsuda

松田達 / Tatsu Matsuda
建築討論
44 min readMar 2, 2018

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1910年代の欧米都市計画の見取り図

松田:今日の大きな枠組みを整理しておきたいと思います。建築討論委員会のなかの都市論小委員会では、これから「都市論の潮流はどこへ」という連載をはじめていきます。その最初の数回で、20世紀の都市論を前半と後半に分けて振り返った上で、残りの数回で21世紀の都市論を考えていこうとしています。第1回目の本日は、20世紀前半、特に1910年代を焦点に、中島直人さんに当時の都市論の状況についてインタビューをさせて頂ければと思っています。

まずは見取り図なものを提示してみたいと思います(図1)。都市計画の概念は、中島さんはよくよくご存知だと思いますが、国ごとに扱いがかなり異なっていて、「Town Planning(イギリス)」「urbanisme(フランス)」など、それに該当する言葉も違っています。さて、ここで1910年代あたりの時期に焦点を当てて世界各国を見直してみると、当時の都市論、もしかしたら都市論というか、都市計画論かもしれないですが、その状況が見えてくるんじゃないかと思っています。スペインだけ、少し都市計画の概念が出てくる時期が早いので多少ずれてはいますが、欧米と日本の全体をみた時に、おおよそ1910年代に大きな動きが起こっていると思います。特に1910年は、ベルリンの都市計画展とロンドンの都市計画会議の両方が開催され、都市計画にとってメルクマールとなる年だったと思います。

図1:都市計画概念の言語による違いを示した図(松田作成, 2018)
図2:Jon A. Peterson, “The Birth of City Planning in the United States, 1840–1917”, Johns Hopkins University Press, 2003(邦訳:ジョン・A. ピーターソン著, 兼田敏之訳『アメリカ都市計画の誕生』鹿島出版会, 2011)

各国の状況のおさらいから入っていきたいと思います。アメリカではその直前の1909年に、第1回のアメリカ都市計画会議が行われ、アメリカでも都市計画という概念が、City Planningという言葉で現れてきて、その直前まで主流であったCity Beautifulという概念から、微妙に重要となる概念の変遷があったと思います。この辺りは、特に中島さんのご専門だと思うのでお伺いしたいところなんですね。あと、ジョン・ピーターソンがこのあたりの状況を詳しく書いていますが★1(図2)、実はピーターソンの本は日本語版(図3)だとそこで切れているので・・・

中島:そうそう、全訳ではないんですよ。

図3:ジョン・A. ピーターソン著, 兼田敏之訳『アメリカ都市計画の誕生』鹿島出版会, 2011

松田:その後の事情が、もうちょっと知りたいなというのが実はあります。で、ヴェルナー・ヘーゲマンが面白いのは、当時そのアメリカとヨーロッパをつなぐ役割をしていたというところで、そういう人はヘーゲマンの他にもいますが、やはりベルリン都市計画展に「ボストン1915」での内容とか、いろいろな最新情報を持ち込んだのが大きいんじゃないかと思うんですね。ちなみに、ベルリン都市計画展でちょっと気になるのは、パトリック・ゲデスが来ていなかったところなんですね。ゲデスは当時、自分が都市計画展を行いたかったはずなので、なぜそこに来ていなかったのか、結構驚きではあります。ベルリン都市計画展には、基本的に世界中の多くの都市、建築関係者が集まっていて、都市計画の人的交流が大幅に促進されたのが1910年だといえます。

スペインは、イルデフォンソ・セルダが活躍した後、もう半世紀近く経っているので、そのころの状況で目立った変化はないのではと思います。フランスに関して言うと、ミュゼ・ソシアルが1894年にできて、またフランス都市計画家協会が出来るのが1911年ですね。当時の帝国主義による植民地拡大とも連動しながら、都市計画を学問的に成立させていこうという時期だったと思います。そのため世界的にも、都市計画は「美的な都市計画」から、学問的あるいは「科学的な都市計画」へという移り変わりがその頃にあったように思います。

イギリスは、ゲデスとエベネザー・ハワードが出てきて、特に市政学と田園都市という二つの流れが起こってきたことが大きいと思っています。イギリスでは1909年に、またフランスでは1919年に都市計画法が制定されていますね。だから1910年代というのは、ちょうど都市計画が世界的に整備されてきた時期かと思います。また日本も若干遅れながら、でもかなり近い年代で欧米の動きを都市計画に取り入れているんですよね。実際、日本の旧都市計画法が制定されたのも1919年です。このあたりの動きについても、ぜひお伺いしたいと思っています。

フランソワーズ・ショエによる急進派・文化派の整理

中島:松田さんと、こういう風に会話として話していくってことでいいんですよね。

松田:はい。

中島:最初に見取り図が確かに大事だなと思っています。この話を聞いたときに、こういう見取り図を描いた人たちがかつて何人かいるので、そのことを思い出しましたんですけど、一人はやはりショエの話ですよね。

松田:フランソワーズ・ショエ。

図4:フランソワーズ・ショエ著, 彦坂裕訳『近代都市-19世紀のプランニング』井上書院, 1983

中島:ええ。で、ショエで日本語の本になっているのはこれ、彦坂裕さんが訳した『近代都市-19世紀のプランニング』(図4)と、あとアナールに載った論文を福井憲彦さんが訳している「都市を見る目―都市計画における歴史と方法」★2ですね。彦坂さんが訳された本の方は、あまり理論的なことは書いてないんですけど、福井さんが訳された方は、理論的なことが書いてあって。やはりショエの整理というのが大事だと思います。ショエが扱っているのは、1910年代じゃなくて、その前の19世紀の時代です。先ほどの都市論で、松田さんが「都市計画論かもしれない」という風におっしゃったけれども、多分この19世紀後半から20世紀の1910年代までの都市論の一番の特徴は、都市論の中心が都市計画論だということなんですね。まさに「都市計画」「アーバニズム」「ユルバニスム」「タウンプランニング」という用語と概念が出来てきたこと、それをショエは同じ問題意識を持つ現象、この時代の都市論の特徴として捉え、「ユルバニスム」と総称して取り上げているわけなんですね。彼女にとって「ユルバニスム」というのは、「秩序」をある種理論化し、科学的にモデル化してそれを適用するという考え方です。それは実はこの時代に初めて出来たもので、この本ではそれがどういう風に出来たのかということを明確に書いてあります。3段階で、秩序化といういわゆるオースマンの・・・

松田:確か、整序化(régularisation)でしょうか。

中島:整序化ですね。その整序化とプレユルバニスムとユルバニスムという流れの構図は、多分1910年代を語る時に頭にないといけないことです。整序化は、とにかく中世以来の都市をどのように秩序付けるのかということですね。彼女はパリとロンドンを比較していますけど、パリのような城壁都市のなかである種無秩序に人口が増加し過密状態が生み出されていくという状況と、ロンドンのようにどんどん広がっていくという状態の二つがあって、そこにはまず秩序を与えなくちゃいけないということで、オースマンように様々な事業を行うというのが整序化ですね。整序化の段階の次に来るのが、プレユルバニスムと彼女が呼んでいる段階で、そこでは「秩序とは何か?」ということを、まともに議論して、秩序そのものを組み立てようとした。オースマンももちろん秩序を組み立てようとしたんだけれども、意識的に「秩序とは何か?」ということは問わず、自明のものとしてやるわけですね。

ショエは、このプレユルバニスムを急進派と文化派という二つの方向性に分類していますね。急進派は、社会改良主義者のうち、オーウェンとかの理想的都市みたいなもので、実践にいく部分もあるけど、基本的には都市を大きく変えることがない、ある種の理論家的な側面の、でもとにかく新しい都市像を考えるっていう話です。もうひとつの文化派といっているのが、端的に言えば、ウィリアム・モリスとか、ジョン・ラスキン、そしてカミロ・ジッテにつながっていくような、歴史的なところにある種の根拠を持つような、現在の秩序に対して、かつてあった秩序のようなもの、つまり中世の全体性を捉えながら、それを現代に持ってこようというような立場、単純化は出来ないかもしれないけど、その2つのプレユルバニスムがあって、それがそれぞれ(急進派と文化派)のユルバニスムにつながる。

そういう実践的でない理論や、理論家のそういう考え方が、次第に脱政治化、脱理論化し、技術になっていく状態をユルバニスムと呼んでいて、それがプレユルバニスムの二つの潮流を受け継ぎながら、ひとつはジッテや、ゲデス、あるいはレイモンド・アンウィンとか、ああいうアングロサクソン的な、基本的には歴史的文脈のなかである都市像を描く、文化派のユルバニスムとなる。急進派は、おそらくそれが最終的にはコルビュジエになって来ますよね。

図5:Françoise Choay, “L’urbanisme, utopies et réalités”, Éditions du Seuil, 1965(フランソワーズ・ショエ『ユルバニスム、ユートピアと現実』)

松田:ショエは、1965年の『ユルバニスム、ユートピアと現実』★3(図5)のなかで、おそらく最初にこの分類を出していましたが、この分類方法は気になっていました。ロバート・オーウェン、トニー・ガルニエ、ル・コルビュジエら、実際、計画をつくる側と、ラスキン、モリス、ジッテ、ゲデスという実際にはつくらない側に分かれているように一見みえるんですね。建築家と建築家ではない人のような。でもアンウィンなど、そうではない分類がされている人もいる。二極に分類されているわけですが、時々、分類の根拠がよくわからないと思える人もいました。またプレユルバニスムとユルバニスムの境界線がどこに設定しているのかも、もう少し厳密なところが知りたいと思いました。

中島:文化派と急進派というのは、実は歴史に対する意識の違いで、文化派は歴史に根差すというか、ある種、歴史の中に都市像を見出す人たちで、急進派っていうのは、近代というものをかなり意識的に捉えて、その核心に過去との断絶を置く人ですね。機能や効率や衛生といったところで科学的に組み立てていく都市像ですが、そういう意味ではピュアな理想都市から始まって、CIAMとかにつながっていくような流れだと。プレユルバニスムの段階では、ラスキンにせよモリスにせよオーウェンにせよ、基本的には実践家ではないっていうと語弊がありますが、都市の思想家であり、社会改良家ではあるけど具体的に何かの都市のプランをつくるとかそういうわけではない、その段階は共通していて、それが次第に1900年、まさに20世紀に入るときに各国で明確にユルバニスムになっていく。まあ、その技術化してくるということですね、端的にいえば。

松田:ええ、分かります。要するに、近代以前との連続性を取るか、断絶を取るかという違いが、文化派と急進派の分かれ目ということですね。

中島:はい、そういうことだと思います。その構図の中で、必ずしも完全に二つに分かれてるっていうことではなくて、おそらくその態度が両方交わったりするということだと思うんですけど。このような大きな見取り図が、ショエの理論としてはありますね。

アンソニー・サトクリフによる19世紀以降の都市計画の整理

中島:ショエの仕事が今回の都市論の話をする際のフレームワークを与えてくれると思う一方で、もうひとつ、多分大事なのがアンソニー・サトクリフの『計画された都市を目指して―ドイツ、イギリス、アメリカ、フランス 1780–1914』★4(図6)ですね。松田さん、読んだことはありますか?

松田:持っています。

図6:Anthony Sutcliffe, “Towards the Planned City — Germany, Britain, the United States and France, 1780–1914”, Blackwell, 1981(アンソニー・サトクリフ『計画された都市を目指して―ドイツ、イギリス、アメリカ、フランス 1780–1914』)

中島:持っていますよね。ショエがいうところのユルバニスムがどう出来てくるかという具体的なプロセスを解き明かしたという点で、サトクリフの本は結構画期的だったなというふうに思っています。何年でしたっけ、多分、70年代ですよね。いや、1981年か。1981年の時点で書いているんですけど、やっぱりここでのポイントは、その19世紀的な状況についての理解ですね。ナポレオン戦争が終わって、ヨーロッパがどういう気分になって、どういう状態にあったかっていう前提の中で、当時各国に近代国家が出来てくると同時に、ある種のヨーロッパの一体性というか、ヨーロッパ的なものの再構築がはじまる。これは面白いんですけど、その各国間の交流のようなものが始まる時代なんですね。その前提のもと19世紀をかたちづくった場として、展覧会と会議の二つを挙げています。都市計画の国際会議はまさに1910年代くらいから盛んになるのですけど、衛生とかいろんな分野でのヨーロッパの専門家を超えた交流みたいな会議が、19世紀半ばから起きてきます。

松田:かなり早くからあったんですね。

中島:ええ、ピースムーブメントって呼んでいますけど、19世紀の戦争の後の平和の運動のなかで、展覧会、会議という二つのファクターがあって、都市計画も各国のそれぞれの状況の中から、いろんな言葉や概念が、国際会議的なるものと展覧会的なものによって総覧されたりミックスされたり拡散されたりしながら、出来上がっていったのが、まさに第一次世界大戦が始まる1914年までの時代だったってことですよね。

松田:サトクリフの本が面白いのは、1780年くらいから取り上げているところですよね。

中島:そうなんです、早いんですよ。で、取り上げているのは4つの国、ドイツ、イギリス、アメリカ、フランスなんですね。まあスペインはないわけですけど。やっぱりこの見取り図はなるほどなというところがあって、都市論、都市計画論がどうやって形成されていくかというときの着眼点は会議と展覧会なんですね。

松田:展覧会と同時期にソーシャルミュージアムのようなものも出来てきていて、この動きも一体的になっているわけですよね。

中島:そうですね。いろんなものを集めてくるという部分と、あとは人物ですよね。展覧会と国際会議という視点のもとで、サトクリフはコスモポリタンな人々のリストを提示しています。ヴェルナー・ヘーゲマン、パトリック・アバークロンビー、トーマス・アダムス、パトリック・ゲデスです。この4人はそれぞれ役割がちょっと違うわけですけど、当時のヨーロッパのなかで、あるいはアメリカとの関係を含めてかき混ぜながら、1910年代の最大の特徴である「都市計画」というものを打ち立てたっていうことですよね。ヘーゲマンはもちろんドイツとアメリカの交流を促進し、アバークロンビーはリヴァプール大学でタウンプランニングレビューを出していくんですよね。アバークロンビーは1909年か1910年からその初代編集長として、いわば世界最初の「タウンプランニング」の雑誌をつくっていく。トーマス・アダムスは何といっても田園都市運動をアメリカ大陸に持っていき、カナダ、アメリカでやっていくと。で、それではゲデスの役割はということになるわけですね。

パトリック・ゲデスの両義性とイギリスの都市計画黎明期

中島:ゲデスについては松田さんのほうが詳しいかと思いますが。

松田:いえいえ。

中島:ゲデスがどのようにコスモポリタン化していくっていうか、グローバルな人物として捉えるかっていうのもいろいろな観点がありえますね。多分、ゲデスは一番解釈が難しい人だと私は前々から思っていて、近代都市計画の父の一人で、明らかに文化派であるわけですよね。しかし、ある種科学的手法で都市調査を行い、そこから都市を組み立てていくという側面があって、それは別に過去の都市の姿をもとにしているということでもない可能性があって。だから進化論に基づく急進派でもありますよね・・・

松田:モデルをダーウィンとかに求める。

中島:そうしたモデルがあるんですよね。文化派のカミロ・ジッテとか、あるいはその影響を受けているアンウィンとか、ああいう人たちの実際描く都市像とは違う。ゲデスはあまり都市像を描かないということもあって、過去に対する態度っていう意味ではゲデスはどっちでも取れるというか・・・

松田:両義的な・・・

中島:そうそう、だからCIAMの人たちもゲデスを都市の分析という意味で自分たちの祖に位置づけようとしたし、一方でゲデスを起源に求めることは他の分野からもいくらでも可能だったと思います。

図7:パトリック・ゲデス著, 西村一朗訳『進化する都市』鹿島出版会, 1982, 2015

松田:まさにそうだと思います。ゲデスは単純な位置づけは非常に難しいと思いますし、田園都市の祖としての位置づけが明快なハワードと比べて、歴史上あまり表に現れてこないのもそのような解釈の難しさがあったからだと思います。多少、気になってくるのはハワードとの関係と、またイギリスでタウンプランニングという概念や法律が整備されてくる時に、ゲデスが打ち立てようとしたシヴィックス(市政学)がそこに与えた影響です。ゲデスはスコットランド出身で、学生のときはロンドンで学んでいましたが、その後の拠点はスコットランドで、いわば周辺的なところから活動を続けていきます。ただ、1900年ごろから結構ロンドンでも活動しているので、ハワードとの接触はあるはずですね。それこそイギリスの都市計画の中心地であるロンドンとの距離関係は、ハワードとゲデスの関係を象徴しているようにも思います。ハワードは1850年生まれでゲデスは1854年生まれ。年代は近いのですが、直接の関係はあまり聞いたことがありません。ゲデスはアンウィンとは協働関係にもあり、ずっと連絡を取り合っていて仲が良かったのですが、例えば田園都市については『進化する都市』(図7)のなかでもほとんど言及していないんですね。認めているけれども積極的な発言はしていないという、それは結構不思議な距離感なんですよね。

中島:アンウィンとは一緒に仕事しているのにっていうことですね。

松田:そうですね。

中島:ゲデスっていうのは、あくまでルイス・マンフォードとの関係のなかで都市計画史的に位置づけられているというところが、通常の見方ではあって、そういう意味では実践家というよりも批評家や評論家という位置づけであって、都市計画の制度論とか具体的なプランでのゲデスの活躍っていうのはあまり見えてこないですね。

松田:ちなみに中島さんは、ゲデスの弟子で当時ロンドンの社会学会で活躍していたヴィクトール・ブランフォードや、その夫人の研究もされていますね。

中島:はい、イギリスにおけるシヴィック・ソサイエティ、つまり都市協会の成立に関する研究のなかで、社会学会周辺にも関心を持って調べたことがあります。それはタウンプランニングそのものとは別の文脈ですね。ご存知のようにイギリスのタウンプランニングは実はすごく限定的な領域で、通常の条例、いわゆるバイロー・ハウジングとは違う形で郊外に特別な「タウン」をつくるというのが出発点でした。だから別に都市全体を捉えるものでもなかった。その後、段階的に領域、概念が広がるんですかね。

松田:タウンプランニングアクトという言葉が法律として現れてきて普及していく・・・

中島:そうですね。でもやっぱり基本的には、郊外のいわゆる一律の条例で出来る住宅地に対して、規制を一回外してそこに総合的なちゃんとした街をつくるという仕組みですよね。それがガーデンシティの運動と連携するから上手く行ったわけですけど。で、そういうタウンプランニングに対して、都市の中心部の歴史的市街地や既成市街地を含めて都市全体を語るという態度、運動があったんですよね。それが多分ゲデスを理解するのに重要なところで、ゲデスはタウンプランニングだけではなくて、もう一つの社会運動としてもうひとつのシヴィックスからはじめるわけですね。ある種の市民参加による都市調査を行うわけですが、それは社会学のなかでは、アメリカのシカゴ学派的な社会学とは違っていて、社会改良までセットになった社会学ですよね。それがブランフォード夫妻たちがやっていたことで、イギリスでは都市協会が各地にできて、都市の調査をしたりプランを勝手に立てて行政に提案したりする動きになっていく。それがイギリスではその後のシビックアメニティソサイエティとかまちづくり運動の源流になっていくんですよ。

松田:なるほど。

リヴァプールとアメリカをつなぐ回路

中島:それが戦後になると、シビックアメニティ法とかになって、西村幸夫先生がかつて研究したテーマですが、イギリスの歴史を活かしたまちづくりになっていきます。それで、もう一度、1910年代の話に戻りますが、例えばロンドンはロンドンソサイエティっていうんですけど、リヴァプールもリヴァプール都市組合(ギルド)という名の都市協会ができます。そこに実はパトリック・アバークロンビーがかなり・・・

松田:関与している・・・

図8:中島直人『都市美運動―シヴィックアートの都市計画史』東京大学出版会, 2009

中島:関与してるんですね。アバークロンビーはタウンプランニングの牽引者ですが、一方で都市協会をつくるというのがひとつの流れです。もうひとつ面白い、というか大事なのは、その都市協会の起源をさかのぼっていくと、アメリカのシティビューティフルムーブメント(都市美運動)の影響をかなり受けているんですね。シティビューティフルムーブメントというと、シカゴのコロンビア万国博覧会での新古典主義建築群による壮麗な街並みやフィラデルフィアのグリッドを対角線上に開削したフランクリン・ベンジャミン・パークウェイなどに代表される、図像として明確な、いわゆるボザール流の建築・都市デザイン的なところがぱっと思い浮かぶイメージですが、実はもっと大事なのは、先ほど名前が出たジョン・ピーターソンの本で提示されていることですが、このムーブメントはいろんな都市改良運動の集積であったということなんですね。シティビューティフルムーブメントには3つの源流があったと整理されています。農村美化から始まり、身近な環境や共同施設の整備を中心とした市民運動として展開した都市改良運動、シカゴの博覧会などを契機として芸術家や建築家たちが担った公共空間への彫刻設置や公共建築物の美化を中心とした都市芸術運動、そして、ランドスケープ・アーキテクトが中心となった公園の確保や自然風景地の保全、緑化などに取り組んだ屋外芸術運動という潮流ですね。『都市美運動』(図8)という本にも書いたんですけど、よくよく見ると多様な専門家や市民たちの社会運動なんですよね。そういう運動で都市が出来てくるんですけど、シティビューティフルムーブメントは、デザインというよりも、そうした運動レベルで、実はリヴァプールを経由してイギリスに入ってくるわけですね。

松田:アメリカからリヴァプールなんですね。

中島:そこにいくんです。これは授爵してリーヴァーヒューム伯爵と名乗ることになるウィリアム・リーヴァーという人が大事で、イギリスの石鹸王です。彼がリヴァプール大学のシビックデザイン学科と雑誌『タウンプランニングレビュー』の両方にお金を出したりして、イギリスの都市計画の最初の種を撒いた。いまでもリヴァプール大学ではリーヴァー教授職というのがあるんですが、この初代がアズヘッドで、二代目がアバークロンビーになるんです。リーヴァーがなぜそういうことをやったかというと、イギリスではいわゆるカンパニータウンとか、資本家だけれども社会改良をやるような人たちってたくさんいましたよね。

松田:産業村のオーウェンとか。

中島:ええ、オーウェンとか。リーヴァーは工場を中心としたモデルヴィレッジであるポート・サンライトを建設しています。居住環境改善への強い関心を持っていたのです。そして、リーヴァーは19世紀の終わりか20世紀のはじめにアメリカにいくんですよ。そこでシティビューティフルムーブメントの動きに直接接して、帰ってきてリヴァプールでシビックデザイン学科をつくる。タウンプランニングではなくてシビックデザインだったのも、こういう経緯がある。もともとリヴァプールのほうがロンドンよりも大西洋に開かれていて、アメリカ文化との交流拠点になったわけですね。後のビートルズもそうですけど。そういう中で、シティビューティフルムーブメントの「美しい都市」という概念と市民運動みたいな概念がリヴァプールに入ってくる。もう一人チャールズ・ライリーという建築家がいて、リヴァプール大学の建築学科の先生だったんですけど、ライリーがリーヴァーと手を組んで、1906年にシティビューティフル協会をつくり、1907年にはシティビューティフルカンファレンスを開催するんですね。それが20世紀初頭。こういうアメリカからの逆輸入みたいなものがあるんですよ。その中でシビックデザイン学科には初代にアズヘッドがいて、その下に全然学歴はないんだけれどもアバークロンビーが助手として入ってくる。そこでアメリカのシティビューティフルムーブメントを意識したデザイン重視の都市計画をはじめていく。もう少し詳しくいうと、イギリスのアーツ&クラフツ運動とボザール流の都市デザインが、アメリカのシティビューティフルムーブメントを媒体として、イギリスのリヴァプールで合流するということだったのです。

松田:ボザールということは、フランスからの流れとの合流でもあったわけですね。そのリヴァプール大学のシビックデザイン学科が出来たのはいつ頃なんでしょうか。

中島:1909年だったかと。

松田:あ、やっぱり早いんですね。

中島:イギリスで最初の都市計画学科です。そして、シビックソサイエティ(都市協会)という発想も、明らかにアメリカから来ているんですね。もちろん、イギリス的なものと合体はしていますけど。

図9:Patrick Geddes, “Civics: As Applied Sociology”(パトリック・ゲデス『応用社会学としての市政学』)

松田:ロンドンだと、ブランフォードらがロンドン社会学会を設立するのが1903年で、ゲデスは1904年と1905年に「応用社会学としての都市学」(図9)という報告を行って、それを本にしていますよね。ゲデスは1900年代後半にこのあたりで影響力を強め、1909年の住宅・都市計画法の制定にもつながっていく。こういう背景があって、また1910年のロンドン都市計画会議もあって、さっきの都市協会がロンドンに出来るのが1912年ですか。だからリヴァプールとは多少並行しながら、同時期に注目した動きがあったということですね。

中島:リヴァプールでは1906年にシティビューティフル協会が出来るんですけど、それが1909年に他の協会と合併してリヴァプール都市組合となる。1909年にはリヴァプール大学でシビックデザイン学科が出来る。ロンドンの方は、アンウィンとかももちろん関わっているんですけど、そこからタウンプランニングと、そしてもっと広い意味での都市論、まさにユルバニスムのようなものにつながっていく。ということで、少し複雑な経路で説明しにくいのですが、ユルバニスム的なものの源泉にはやはりゲデスがあるんじゃないかというのが私の見取りです。

イギリスのタウンプランニングとドイツの都市建設

松田:いままでタウンプランニングと聞いた時に、イギリスではタウンプランニング、アメリカではシティプランニングと、多少概念は違ったとしても、なんとなくどちらも「都市計画」の訳のように受け取っていましたが、タウンプランニングの場合はやはりシティよりも小さいというイメージが明確にあるんですね。

中島:タウンプランニングはやはり小さいと思います。わざわざタウンと言っているので。それが段々変化してくる。タウン・アンド・カントリーで田園も含んだり、既成市街地や戦後の戦災復興では再開発も入ってきたりして。イギリスは基本的に、郊外の新規住宅地づくりがポイントですよね。そこでドイツとの関係が出てきます。ドイツは郊外の住宅地づくりじゃなくて、ある種、都市拡張の全体像をやるじゃないですか。特別な場所だけじゃなくて。あれはやっぱり当時のイギリス人たちにとって、衝撃だったと思うんですよね。だからイギリスはドイツの影響をむちゃくちゃ受けて、いかにその住宅地づくりから、都市全体の、少なくとも郊外の全体をおさえるようなものを出来るかということで、都市計画法が何回も改正されて発展していくということですよね。

図10:Josef Stübben, “Der Städtebau, Darmstadt”, Bergstrasser, 1890(ヨーゼフ・シュテューベン『都市建設』)

松田:都市計画の概念が明確に浮上するのは、ドイツの方がイギリスより20年くらい早いですよね。ヨーゼフ・シュテューベンが『都市建設』★5(図10)を出すのが1890年ですね。

図11:Reinhard Baumeisters, “Stadterweiterungen in technischer, baupolizeilicher und wirtschaftlicher Beziehumg”, Berlin, Ernst & Korn, 1876(ラインハルト・バウマイスター『技術、建築監督、経済的関係における都市拡張』)

中島:シュテューベンよりも前に、ラインハルト・バウマイスターが『都市拡張』★6(図11)という本を出しています。ドイツではもともと衛生協会が中心となって、都市についての学問が始まっていくのですが、端的に言えば、その動きを都市計画に展開させたのがバウマイスターですよね。彼自身も上水道とか下水道の技師だったけれども、もう少し幅を広げて、都市拡張をする時にどういうことをやっていけばいいかっていう話にしてまとめたのが『都市拡張』です。バウマイスターはエンジニアですが、都市の社会、経済的な側面への関心を強くもっていた理論家でもありました。『都市拡張』を書くのは1876年ですね。

松田:シュテューベンには相当影響を与えているわけですね。

中島: 与えています。シュテューベンはバウマイスターの「都市拡張」を受けて、実際に様々な都市のプランやデザインを手がけた実務家なんですね。シュテューベンはカミロ・ジッテにも影響を受けていると思いますが、具体的にいろんな絵を描いた当時の代表的な人物で、言ってみれば日本の石川栄耀みたいな感じですね。バウマイスターとシュテューベン、そしてカミロ・ジッテの相互関係については、ドイツの都市計画の専門家である大村謙二郎先生の博士論文で、詳しい分析があったと記憶しています。ジッテの主著、日本では『広場の造形』として知られている『芸術的原則に基づく都市計画』で、技術主義、効率主義的な当時の都市計画に対して、芸術主義の観点から挑戦したわけですが、仮想敵というか、批判のやり玉にあげられているのはバウマイスターの都市計画論ですよね。シュテューベンは基本的にはバウマイスターの都市計画論を継承していますが、ジッテからの批判もある程度、織り込んでいて、やや中庸的な態度であったという感じではないでしょうか。

松田:なるほど。私の認識だとシュテューベンとジッテはほとんど同じ1889年と1890年に、ほぼ同じ題名の「シュテッテバウ(都市建設)」と題した本を書いているので★7、オーストリアとドイツでそれなりに離れているのにこの言葉が同時に本のタイトルに現れてくることに、何らかの歴史的符合のようなものを感じていました。つまり「Städtebau」という言葉が現れる歴史的、文化的土壌がこのころのドイツ語圏の地理空間のなかで醸成されていた理由がなにかあるのだろうと思っていました。しかしその理由のひとつがもしかしたら先行世代のバウマイスターの存在だったのかもしれませんね。ただ、実をいうと、ドイツの都市計画におけるバウマイスターの位置づけがまだよく分かってないんですよね。結構重要な役割だったと思うんですが。

中島:バウマイスターは、まず名前が格好いいですよね(笑)

松田:建設のマイスターですからね。

中島:まさに、一般名詞じゃないかって感じですよね。バウマイスターは1833年生まれ、カールスルーエ工科学校で教えていました。ジッテが1843年、シュテューベンが1845年生まれなので、彼らより10歳くらい離れていますね。

松田:それくらいの違いなんですね。

中島:当時は、ドイツというよりプロイセンとかいろんな小国がたくさんあったなかで、郊外の土地の扱いがイギリスと異なっています。イギリスのように貴族が土地を持つとかじゃなくて、自治体が持つというような状況がありました。この中で、Bプランのような事前確定的な都市拡張の制度をつくっていく。ドイツの都市計画はもともとは衛生的な観念からはじまるんですね。公衆衛生協会の創始者の一人がバウマイスターだったと思うんですけど、そこから、つまり基本的には上水道、下水道の話からはじまります。それが都市形成のようなものにつながる。ここにアディケスとかも入ってきて・・・

松田:アディケス法の。

中島:ええ、そのアディケスらも含めて、その人たちがやってきたいろんなものを、都市拡張のひとつの技術体系、理論体系としてまとめたのがバウマイスターということだと思います。

松田:もうひとつ1870年にドイツが普仏戦争で勝って、翌年ドイツが国家として統一され、急速にヨーロッパの強国としての地位を高めていく時期と重なっている、ということもあるわけですよね。

中島:あると思いますね。

イルデフォンソ・セルダと都市計画の起源

中島:で、バウマイスターの『都市拡張』を、セルダの『都市計画の一般理論』★8(図12)と比べてみたい感じもしますよね。まあ似てるんですよね、都市拡張の部分の話がメインなので。20年くらい違うんですかね、あれは50年代でしたっけ?

図12:Ildefonso Cerda, “Teoría general de la urbanización, y aplicación de sus principios y doctrinas a la reforma y ensanche de Barcelona”, Imprenta Española, 1867(イルデフォンソ・セルダ『都市計画の一般理論、及びその原則と教義のバルセロナの改革と拡大への適用』)

松田:1867年ですね。

中島:じゃあ、そんなに変わらないんですね、実は。

松田:そう考えると、これまでセルダだけが突出して早く「都市計画」の概念を提示していたように思っていましたが、セルダからバウマイスターまで9年しかかかっていないんですね。ちなみにセルダは『都市計画の一般理論』の他にもいくつかの本を出していますけど、その影響は他の国にはほとんどないんですよね。

中島:ないはずですよね。少なくともフランスにフランス語訳がなかったと聞いていますし。

松田:なかったですね。ほぼ100年なかったんです。

中島:多分その問題って、意外と当時の言語の壁の問題があるのと、あとスペインという国の当時のヨーロッパの中での位置づけですね。

松田:辺境的な。

中島:そうですよね。経済的にも非常に貧しいなかで、あまり注目されていなかったということですよね。

松田:おそらく久しぶりに国際的に注目が集まった事例のひとつは、1903年のバルセロナの都市計画コンペで、そこではフランスのレオン・ジョスリーが勝ったりしますね。そのころのスペインの建築家は、ガウディ以外あまり世界的に知られていない。

中島:むしろ外部の建築家が勝って印象に残るくらいなので、その中での理論にまでヨーロッパの人たちは注目しなかったのかもしれないですね。それで、スペインとフランスの都市計画の状況については、むしろ松田さんに聞きたいんですけど。スペインも、フランスのユルバニスムと同じところから来ているんですよね?

松田:セルダが使ったウルバニザシオンですよね。語源学的にはフランス語のurbanismeとスペイン語のurbanizaciónは、どちらもラテン語のウルブス(urbs)から来ていて、urbsをさらにたどると古代の都市が円かったために円形(orbis)とか、都市の境界の轍をつくる犂の曲がった部分(urvum)とかから来ているようです。いずれにせよ、都市の物理的な境界から来ている言葉で、もうひとつのキウィタス(civitas)とは対照的ですね。こちらは市民の共同体や市民権を意味する言葉で、法律によって権利が付与され統合される共同体のまとまりを示した言葉で、英語のcityやスペイン語で都市を示すciudadの語源となっていますね。

フランス語でurbanismeが最初に現れるのは1910年のヌシャテル地理学会の会報でリヨンの地理学者ピエール・クレルジェがつかったのが最初だとされていますが、これは言葉の説明もなく、結構突然現れるんです。もちろんセルダへの言及もないし、たまたまこの言葉が後に使われた意味と、セルダが定義して使った意味が似ていたんで、後々フランス語のユルバニスムの概念的な起源として、セルダが設定されたのだと言えると思います。

中島:なるほど。面白いですね。そのセルダが起源だって話も、ショエが初出かもしれないですよね。どうですか?それより前ってそういうことは言われていたんですかね?

図13:Ildefonso Cerda, Antonio Lopez de Aberasturi (trans.), “La Théorie générale de l’urbanisation”, Éditions du Seuil, 1979(イルデフォンソ・セルダ著, アントニオ・ロペス・デ・アベラストゥリ訳『都市計画の一般理論』)

松田:これに関しては、非常に複雑なんです。まず、ショエの視点からなのですが、フランス語でセルダの『都市計画の一般理論』が訳されて出版(図13)されるのは、1979年のことです。 翻訳したのはアントニオ・ロペス・デ・アベラストゥリで、パリ第8大学で教鞭を執っていたショエのもとでセルダをテーマとして取り上げ、1976年にフランス語ではじめてのセルダについての論文を書いた若い建築家でした。1979年の本に、ショエが序文を書いているのですが、ショエは、セルダの『都市計画の一般理論』の100周年だった1967年にスペイン語でも再発見されたこと、またこれまでどんな外国語にも一度も翻訳されたことがなかったことをはっきりと書いています。だから、やはり歴史上100年埋もれていたといえますね。ただ、ショエも自分がセルダの本のことを知らなかったとは言っていなくて、アメリカの図書館で見たことがあって重要だと思っていたというような話を、確かどこかでしていたと思うんです。

中島:そこで再発見をするわけですね。

図14:Françoise Choay, “La règle et le modèle — Sur la théorie de l’architecture et de l’urbanisme”, Seuil, 1980, 1996(フランソワーズ・ショエ『規範とモデル―建築と都市計画の理論について』)

松田:再発見ですね。ショエが先ほどの『ユルバニスム、ユートピアと現実』を書くのが1965年で、十分決定的な内容なのですが、ここではセルダについては一言も触れられていません。最初に見たときには驚いたのですが、後で年代を見て意味がわかってきました。先ほどの彦坂さんが訳された『近代都市』の底本は英語版なのですが、その英語版が出版されたのが1969年で、ここではもうセルダの話が『都市計画の一般理論』とともにかなりしっかり出てきています。だから、スペインで再発見された1967年から1969年のあいだにショエがセルダを知ったということがいえますね。セルダを知っていて、1965年の本に触れないということはないと思うので。

ショエは後に1980年に『規範とモデル』★9(図14)という本を書いていて、このなかでピエール・ラブダンが1952年の『ユルバニスムの歴史』のなかで、バルセロナの拡張計画についてはしっかり議論しているのに、セルダが出版した2巻組の本については注釈のなかで非常に短くしか触れていないことを紹介しているので★10、バルセロナの拡張計画は知られていても、『都市計画の一般理論』とその重要性はほぼ知られていなかった、しかし、書籍についてまったく知られていなかったわけではなかった、ということが言えますね。ただ、詳細にはおそらく誰も知らなかった。実際、あわせて1000数百ページもある本ですから、スペイン語圏以外の人で内容を把握するのは難しかったと思うんですよね。

中島:かもしれないですね。

レオン・ジョスリーとソリア・イ・マータの役割

松田:ただセルダとフランスの関係をショエと別の文脈でもう少し考えていくと、1903年のバルセロナのコンペに勝ったレオン・ジョスリーが、セルダの計画を上塗りする計画案をつくっていたわけで、よくよく知っていたはずなんです。ショエによれば、アンリ・プロストという建築家が1958年に、urbanismeという言葉は自分を含めた4人の建築家と一人のエンジニアが1912年につくった、と書いているというんですね★11。そして、その4人の建築家の一人がurbanizaciónというネオロジスム(新造語)を知っていたレオン・ジョスリーだということなんです。プロストらがクレルジェのことを知っていたのかどうか分かりませんが、この書き方だと、クレルジェとは別に、実際にセルダのurbanizaciónをジョスリーらが、フランス語でurbanismeと置き換えた可能性もあるということになります。スイスのヌシャテルの、しかも地理学会会報でのクレルジェの言葉が2年後に突然パリに入ってきて、一気に普及するほうがおかしいとも言えるので、だとしたらセルダからジョスリーらへと概念が伝わっていると考えるほうが自然かもしれません。プロストがクレルジェを知らないふりをしたという可能性は残るとしても、1910年代のパリでurbanismeという言葉が爆発的に普及したということだけは間違いないので。ただ、だとすると多分プロストやジョスリーは、セルダの言葉が起源だったということを意図的に隠した可能性もあるのではないかと思っています。urbanismeがスペイン起源ではなくて、プロストがいうように、彼ら「フランス人たち」が共同で発明した、というストーリーを残すためですね。だから、結局フランスでは、セルダの名前程度は知られても『都市計画の一般理論』については積極的に紹介されたりはせず、歴史に埋もれてしまったのかもしれません。1912年にフランスにおける都市計画の起源が「捏造」されたかもしれないわけですが、実際にはおそらくセルダの言葉から来ているのかもしれませんし、あるいはクレルジェが使ったurbanismeという用語を知っていたのかもしれないと。いろいろ推測なのですが、考えられるストーリーのひとつかなと思っています。

あとは、ソリア・イ・マータという人がいて、こちらはニコライ・ミリューチンが1930年に書いた『ソツゴロド』によってロシアに紹介されたりしているので、もしかしたら当時のスペインの事情がロシアには知られていた可能性があるかもしれません。

中島:もちろん。でもソリア・イ・マータとセルダってなんか関連付けられるんですかね?同じスペイン人ということ以外に・・・

図15:George R. Collins, Carlos Flores (dir.), Arturo Soria y Puig, Arturo Soria y Mata, “Arturo Soria y la ciudad lineal”, Ed. Revista de Occidente, 1967(ジョージ・R・コリンズ, カルロス・フロレス監修, アルトゥロ・ソリア・イ・プイグ, アルトゥロ・ソリア・イ・マータ著『アルトゥロ・ソリア・イ・マータと線状都市』)

松田:ソリア・イ・マータは、わりと近い時期にマドリッドで線状都市の提案とかをしていて・・・(図15)

中島:ちょっと後じゃないですか、それ?

松田:ちょっと後だと思います。そうですね1882年ですかね。

中島:そうですね。ソリア・イ・マータは、だからさっきのショエの位置づけだと、急進派のユルバニストなんですよね。

松田:ええ。ショエは、ソリア・イ・マータをトニー・ガルニエとともに、第1世代の急進派ユルバニストと位置づけていたと思います。で、ショエは、後にセルダに直接影響を受けた理論家は誰もいないけど、ソリア・イ・マータだけは例外だといってるんですよね★12。やはりスペイン語が母国語だというのが大きかったんだと思います。ソリア・イ・マータはセルダと対照的に、国際的に知られていくんですよね。ミリューチンの紹介もそうですし、フランスではコルビュジエとも知り合いだったジョルジュ・ブノワ=レヴィが、1926年にソリア・イ・マータの『線状都市』を翻訳しています。コルビュジエはその線状都市をいつのまにか自分のプロジェクトに取り入れたりしていますし。こういうなかで、セルダが少なくとも注目されはしなかったということも、やはり不思議なものなんですよね。

中島:なるほど、なるほど。

松田:阿部大輔さんにも、そのあたりの事情は聞いてみたいんですよね。でも、阿部さんもそのことに関して、はっきりは言っていないと思うので。

中島:そうですね。セルダの理論がどうできたかっていうことはやっているけど、その後っていうのはなかなか簡単ではないですよね。

松田:セルダは1867年に『都市化の一般理論』を出版していますが、その前の50年代半ばぐらいからいくつか本を書いていて、マドリッドについての本も書いています。だからマドリッドで活躍していたソリア・イ・マータがセルダを意識していないはずはなかったと思うんです。

中島:セルダのその後への影響や、「都市計画」という語の起源がどうなっていたかというのは、なるほど、面白いですね。

(中島直人インタビュー「 20世紀前半の都市論―1910年代の断面図 (1/3):イギリス、ドイツ、スペイン、フランス」 了)

[2018年1月12日、東京大学都市工学科中島直人研究室にて]

中島直人(なかじま・なおと)
1976年東京都生まれ。東京大学工学部都市工学科准教授。主な著作に 『都市美運動―シヴィックアートの都市計画史』(東京大学出版会)、『都市計画家石川栄耀―都市探求の軌跡』(共著、鹿島出版会)など。

★1 Jon A. Peterson, The Birth of City Planning in the United States, 1840–1917, Johns Hopkins University Press, 2003(邦訳:ジョン・A. ピーターソン著, 兼田敏之訳『アメリカ都市計画の誕生』鹿島出版会, 2011)

★2 二宮宏之他編『都市空間の解剖 (叢書・歴史を拓く―「アナール」論文選 4)』(新評論、1985)所収

★3 Françoise Choay, L’urbanisme, utopies et réalités, Éditions du Seuil, 1965

★4 Anthony Sutcliffe, Towards the Planned City — Germany, Britain, the United States and France, 1780–1914, Blackwell, 1981

★5 Josef Stübben, Der Städtebau, Darmstadt, Bergstrasser, 1890(ヨーゼフ・シュテューベン『都市建設』)

★6 Reinhard Baumeisters, Stadterweiterungen in technischer, baupolizeilicher und wirtschaftlicher Beziehumg, Berlin, Ernst & Korn, 1876(ラインハルト・バウマイスター『技術、建築監督、経済的関係における都市拡張』)

★7 カミロ・ジッテの『芸術的原則に基づく都市計画』(1889)の原題は、Der Städtebau nach seinen künstlerischen Grundsätzen。

★8 Ildefonso Cerda, Teoría general de la urbanización, y aplicación de sus principios y doctrinas a la reforma y ensanche de Barcelona, Imprenta Española, 1867(イルデフォンソ・セルダ『都市計画の一般理論、及びその原則と教義のバルセロナの改革と拡大への適用』)

★9 Françoise Choay, La règle et le modèle — Sur la théorie de l’architecture et de l’urbanisme, Seuil, 1980, 1996(フランソワーズ・ショエ『規範とモデル―建築と都市計画の理論について』)

★10 Choay, ibid., p.292 n.

★11 Choay, “Pensees sur la ville, arts de la ville”, in Maurice Agulhon (dir), La ville de l’age industriel. Le cycle haussmannien, Paris, Seuil, 1983, 1998, p.266 n.

★12 Choay, La règle et le modèle, p.292

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松田達 / Tatsu Matsuda
建築討論

まつだ・たつ/1975年石川県生まれ。建築学・都市学。建築家。静岡文化芸術大学デザイン学部准教授/1999年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修了。隈研吾建築都市設計事務所を経て、パリ第12大学パリ・ユルバニスム研究所にてDEA課程修了。東京大学先端科学技術研究センター助教等を経て現職。