京都市K地区の集会所における高齢者の「仲良し」はいかに建築的に実現可能であったか〜言語による説得でも、規律訓練でもない「ナッジのまちづくり」から考える

057|202107|特集:感情都市

谷亮治
建築討論
Jul 1, 2021

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このエッセーをご覧頂き、ありがとうございます。谷と申します。普段は、自治体のまちづくり事業を支援するアドバイザーとして働いたり、大学で学生にまちづくりやコミュニティついて教えたりして生活しています。

今回、私に依頼されたテーマは「ナッジのまちづくり」というお題です。少し回り道を繰り返しますが、このテーマについて私が今思うところを書いていこうと思います。どうぞお付き合いよろしくお願いいたします。

私が関わっていた、京都のK地区という地域の、小さな集会所には、もう何十年も前に貼られたであろう、一枚の古びた張り紙があります。そこにはこう書かれていました。

「仲良くしましょう」。

おそらくかつて、この小さな集会所を利用するために集まる高齢者グループの中で、仲たがいがあったのでしょう。その事態を受けて、施設の管理責任者が、利用者の理性に向けた訴えかけのメッセージを、張り紙に託したのだろうと思います。
この張り紙のメッセージが、利用者同士の感情的対立を解消し、「仲良し」を実現しえたか、というと、残念ながら効果はあまりなかったようですが。

私が生業とするのは「住民参加のまちづくり」や「コミュニティ形成」といった、「ソフトなまちづくりの支援」です。ソフトなまちづくりを支援するには、大雑把に言えば「人々の協力行動をいかに促すか」が要点になります。そのためには人々の関係性や心情に注目する視点が欠かせません。それゆえ、この施設の中にあった、関係性や心情の輪郭を浮き彫りにするかのような、この素朴な張り紙について、私の記憶に残っていたのだろうと思います。

さて、この「仲良くしましょう」の張り紙とは、当たり前ですが、言語で人々の理性に訴えかけて行動を変容させることを目指すツールです。この張り紙が、人々の「仲良くする」という協力行動を促せなかったということは、言語で理性に訴えかける力よりも、それ以上に「仲良くしない」という行動を選ばせる強い力があったことを示しています。理性よりも強い力。そう、本特集のテーマでもある「感情」の持つ力の方が優先的に作用したものと考えられます。

それにしても、強い力を持つこの感情とは一体どういう代物なのでしょうか?ここで、戸田正直の提唱した「アージ理論」(★1)を紹介しようと思います。これは、生物の意思決定の仕組みにおける感情の位置づけを進化論的に説明しようとしたものです。アージ理論によれば、感情は「生存のための自動プログラム」と理解されます。例えば敵に自分の安全や領分が侵された時に、理性的にじっくりと判断していると、縄張りを奪われたり、最悪殺されたりしてしまいます。それに対して感情とは、理性よりも早く、かつ、意識することなく自動的に立ち上がるプログラムです。この感情という自動プログラムがあるおかげで、侵入者に対してとっさに攻撃や逃避などの行動をとることができ、生存の確率を高められる、というわけです。私達はそういう性質を備えた個体の子孫であり、そうであるがゆえに我々にも感情というパワフルな生存能力が備わっている、というわけです。

このように考えると、本特集のテーマである「社会が感情化する」という事態も、さほど特殊な事態であるように思えません。アージ理論を参照するならば、人間も生物の一種であり、理性よりも優先する感情という自動プログラムが備わっています。友達を作りたいと思うのも、就職したいと思うのも、結婚したいと思うのも、子供を育てたいと思うのも、あいつが嫌いだから排除したいと思うのも、もちろん理性的な計算が伴うこともあるでしょうが、根本には感情の働きがあります。そういった感情のパワフルでスピーディな働きに比べれば、理性はさほど大きな力を持つわけではありません。いわゆる「理屈ではわかるけど体が動かない」なんて言うことも日常的に起こっていることです。

感情は理性に優先する。とすると、まちづくりのように、人々の協力行動を首尾よく調達していくためには、「理性的な言葉で説得して相手の行動を変えさせることができる」というよりも、「人々の感情を特定の方向に誘導する事で自主的な行動を促すことができる」というのが、まちづくりリーダーに主に期待されがちな資質であるということになります。

例えばソフトなまちづくりの分野では、「人たらし」という言葉が、時に肯定的な意味で使われます。人たらしとは「人の心をつかむのが上手な人」というような意味で使われる言葉です。理性的な言語ではうまく説明がつかないが、不思議と惹きつけられる雰囲気を持っていて、その人の頼みはなんだか感情的に無視できない。そんな資質を持つ人ですね。格好良く言えば、「カリスマ」とでもいうか。そんな人は、何も特別な存在ではなく、皆さんの身近にも何人かいらっしゃるのではないでしょうか。その人がいるとなんだかうまく集団が回る、というような。

例えば、宮藤官九郎脚本、本広克行監督の「ドラッグストア・ガール」という映画があります。さびれた郊外の町の商店街で働く、くたびれたおじさんたちが、田中麗奈演じる、ドラッグストアに勤める可愛い店員さんに好かれたいがために、ラクロスチームを組んで奮発してしまうんですね。このおじさんラクロスチームは、まちに自生する竹を加工してラクロスの道具を作って、メディアに取り上げられたことがきっかけとなり、スポーツを通じた町おこしに一役買うチーム活動になっていくのですが、その意味では、まちづくりコメディ映画として見ることもできる一作です。この場合、田中麗奈が、あれをしろこれをしろと、言語を用いておじさんたちの理性に訴えかけて行動を変容させたわけではないんですね。あくまでも、おじさんたちが下心から自ら行動を変容させている、ということがポイントです。ここにおいて田中麗奈は、おじさんたちにとって「人たらし」の役割を果たしているわけです。

この映画が戯画的に表しているように、これまでもまちづくりは十分に感情的な営みであり、優れたまちづくりリーダーは、人々の感情を協力行動に向けて誘導する資質を発揮してきた、ということが経験的に知られていました。

だとすると、現代の「都市の感情化」と呼ばれる状況は、何が新しいのか。

それはごく大雑把に言えば、その感情誘導プロセスに、高度な情報技術が伴うようになってきたことにあると言えそうです。これまでであれば多分にカリスマに属人的で経験則的に依存する、いわば「秘儀」でしかありえなかった他人の感情を誘導する「人たらし」という営みが、情報技術の発展により、メカニズムが解き明かされ、カリスマではない人々にまで普及させる事が理論上可能になってきたわけです。私はこれを「感情誘導のテック化」と呼んでいます。

例えば、アレックス・ペントランド『ソーシャル物理学』(★2)や矢野和夫『データの見えざる手』(★3)などを読んでいると、ウェアラブルデバイスの発展と普及が、ビッグデータを使った人間感情の分析と誘導を可能にしつつあることがわかります。身近なところでは、短い頻度のあいづちや、動きのスピードを相手に合わせるなどの行動をとるウェイターは、そうでないウェイターよりも多くのチップをもらえるということが明らかにされたそうです。あるいは、なぜだかトラブルをうまく解決できる上司が部下のチームづくりにおいて行っている特徴的な行動、というものも、明らかにされているそうです。もちろん、そういった行動をするウェイターが何となく顧客に好まれる、なんとなく有能な上司とされる、ということは、これまでも経験的にはわかっていたことです。重要なのは、その「なんとなく」な経験則が、ビッグデータで実証的に明らかにされ、そこで明らかになった法則性を元にして人々の感情や行動に的確に介入可能になってきた、ということです。

先端的な研究では、そんなレベルで我々の感情と行動は分析され、介入の対象となってきている。身体や脳や思考といったレベルで、人のなかで起きていることを把握し、何をするか予測できるようになってきている。人の感情と行動の法則性が明らかになれば、その先が予想できることになる。とすると、人の気持ちを改ざんしたり、操作したり、代替することだってできてしまう。歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ(★4)は、こういう現状を「わたしたちはいまやハック可能な動物だ」と表現しています

このように言うと、ある種のディストピア的な想像をする方もおられるでしょう。「感情を技術的にコントロールされてしまうだなんて、人間の心の植民地化じゃないか!」と訴えたい人も居るかも知れません。しかし、その見方もそれはそれで楽観的にすぎるかもしれません。というのも、我々は自分たちが感情のままに生きれば幸せになれる、とは言い切れない状況に生きているからです。

再度、話をアージ理論に戻しましょう。感情とは、理性を超えた反応で生存を助けるプログラムであるということでした。しかし、では満員電車の中が不快だからといって、電車の中で周囲の人間に殴りかかればどうなるかというと、それは明らかな違法行為として扱われます。つまり、現代生活を営む上で不適合をきたすわけです。どう見ても生存を有利にする結果につながっていませんね。感情は生存を助けるプログラムのはずだったのに、なぜこんな事が起こるのでしょうか。

アージ理論はこの疑問にこう答えます。「人類が環境の方を変えてしまったからだ」と。人類はその発生から数十万年の長きに渡って小集団で移動しながら狩猟採集生活を営んでいたと考えられています。私達の感情はその環境に最適化されているのですね。それに対し、定住農耕生活を始めたのはここ1万年程度のことと言われています。さらに高度に密集し、文明に囲まれた都市生活となると、ほんの数百年しか体験していません。つまり、我々の原始的な本能と、人工的な環境との間で齟齬が起きている、というわけです。心理学者の岸田秀が「人間は本能の壊れた生き物だ」と評したのは有名ですが、アージ理論に従うなら、壊れたのは本能ではなく、本能と環境との整合性だったのだろうと言えそうです。

言い換えるなら、都市環境というハードウェアが変わったのに、我々の頭の中のソフトウェアが古いままだから、バグが生じている、と言えるかもしれません。

このように考えると、我々は自分たちが作り変えてしまった環境に適応するために、自分たちの感情に対して、大なり小なり、何がしかの「パッチを当てる」必要があるということです。そのパッチ処理を、私達は「宗教」とか「文化」とか「法律」とか「慣習」とか「しつけ」とかいうように、様々に呼んで扱ってきました。これらも、私達の心の有り様に介入し、飼いならすことを目的とするという意味では、心の「植民地化」の一種だったと言えるはずです。我々がもはやそれなしに現代都市に適応できないとするなら、感情コントロールを安易に非難するのも楽観的にすぎるだろうと思うわけです。

このように、「感情誘導のテック化」も、従来の「感情へのパッチ処理」も、環境と感情の齟齬を埋める役割を期待されているという点では、基本的には等価のものです。ただ、その機能の果たし方については、大きく違う点があります。それは「感情へのパッチ処理」が人間の原始的な感情に対する「規律訓練」を行うことで「文明人化」させるものとして機能するものであったのに対し、「感情誘導のテック化」は規律訓練による文明人化を必ずしも志向しない、という点です。

むしろ、高度に感情誘導がテック化した都市では、我々は「狩猟採集民族に回帰できるようになる」かもしれないのです。それは一体どういうことでしょうか。この点を説明するために、また少し回り道をします。

社会学者の宮台真司が、こんな説明をしています。まず宮台は、人々が言語的にコントロールできる領域のことを「社会」と呼ぶといいます。例えば、明示された条文で人々の動きをコントロールしようと試みる法律や条令も社会的な営みだし、身近なところでは、職場の同僚に「この仕事をしてください」と依頼することも社会的な営みですね。その意味では、先の集会所の「仲良くしましょう」という言語を紙に印字して掲示する、という行為は、きわめて「社会的」な営みです。

それに対して、言語でコントロールできない領域のことを「世界」と呼ぶといいます。例えば、台風や地震は言語でコントロールできません。「台風よ、来るな」といくら命じても、台風は来るんです。

ところで、隠岐に配流された後鳥羽上皇は、荒れ狂う海風に対し「心して吹け」と一句詠んだといわれています。上皇と同じ船に乗っていた乗組員は、「やっぱ上皇すげえな」と思ったことでしょう。本来であれば言語でコントロールできるはずのない海と風を言葉でコントロールしようとしたわけですから。

では、「人の感情」とは、「社会」と「世界」のどちらに属するものでしょうか。

私たちは素朴に、言語で書かれた法や条文に従って生きていますし、職場や家庭では言葉を使って仲間や家族と相談しながら問題を日々解決しています。その意味で、私達は社会的な存在ですし、また、そうであることが望ましいとされています。
一方で私たちは、自分の中に湧き上がる衝動的な怒りや悲しみ、喜びにしばしば逆らえないことがあります。ついかっとなって余計なことを言ってしまったとか、うつうつと悩んでやんでしまったとか、つい食べ過ぎて後悔した、なんていうことは日常茶飯事です。

もちろん、これらの感情をコントロールするための言語も私たちの社会には多数用意されています。例えば書店に行けば、あふれるほどの言葉と出会うことができるでしょう。アンガーマネジメント、うつからの回復日誌、ダイエットマニュアルなどがそうです。まさに「規律訓練による文明人化」のツールです。しかし、前述したように、私達の感情が理性に優越する以上、どんなに言葉を重ねても、私達はどうも感情を完全に言語でコントロールできるわけではなさそうです。とすると、私達の感情には「世界」に属するものとしての面もまたあるのです。

ところで、「社会」をコントロールする手段が言語であるとして、「世界」を制御する手段は何でしょうか。後鳥羽上皇のように、言葉に込めた霊力でそれをなすことができるわけではない我々は、どのようにして「世界」を制御してきたのか。「建築討論」というタイトルにつなげるならば、その一つに「建築」があったはずです。

津波に対して防波堤を作る。地震に際しても崩れないような鉄筋コンクリートの建物を作る。そのような形で「世界」を制御下に置いてきたわけです。言語が通用しない「世界」から「社会」の領域を守る建築物。『進撃の巨人』における「壁」みたいなものです。

思うに、「感情」という「世界」を制御下に置くのにも、その機能を備えた建築物が必要なのでしょう。

そういえば、「電車の中で感情のままに泣き叫ぶ子供は、うるさいから睡眠薬を飲ませるべきだ」と主張したタレントが炎上したというニュースを先日見かけましたが、あれは「言葉の通じない子供」という、本来「世界」に属するものが、電車の中という「社会」が期待される場所に混入してしまったことで起きた事象だと言えます。そのタレントには、泣き叫ぶ子供は、いわば、住宅街を侵食する津波、ウォール・マリアを超えてシガンシナに流れ込んでくる、言葉の通じない巨人のような、恐るべきものに見えたのかもしれません。

ここまで回り道して、いよいよ、筆者に依頼されているお題である「ナッジ」につながってきます。

ナッジとは、経済的インセンティブや命令、罰則といった手段によらず、人が意思決定する際の環境をデザインすることで、自発的な行動変容を促す手法と一般に説明されるものです。実際、少なくないナッジの手法が実装され、一定の政策効果を発揮しています。環境省や厚労省がナッジを導入するマニュアル(★5、6)を公開したりもしています。

この、ナッジという手法が、従来の近代の手法と最も異なるのは、人の行動を変容させるのに「言語で対象者の理性に訴えかけようとしない」し、「人間に規律訓練を施して文明人化させることを志向しない」という点です。「仲良くしましょう」の張り紙の書き手は、利用者に対し言語的な説得を行ったのだと説明できます。言い換えれば、対象者が行動を変容するかどうかを、対象者の理性と言語に託していたのだということです。あるいは、仲良くすることが良いことである、という規範を示すことで、利用者に規律訓練を施すものであったということです。

しかし、ナッジは言語的な説得や規律訓練で我々を変えようとしません。理性がそれと気づくことさえなく、感情と行動を変えていくことができます。

このことは大変重要なことを示唆しています。つまり、ナッジの普及する社会においては、我々人類が、原始的に備わっている狩猟採集生活者としての感情を規律訓練で変えることなく、人類がありのままに生きていけるよう、都市環境の方がさらにアップデートする可能性が出てきた、ということを示唆しているのです。

例えば、私は、まだ言葉も通じない小さな子供の頃に、親にスーパーに連れて行かれて、まだレジを通していないお菓子を開けて食べて怒られたことがあるそうです。これを大人がやれば、いわゆる万引ですね。もちろん万引はよくないこととされています。しかし、原始的な感情を持つ子供からすれば、目の前に美味しそうなものがあるから食べる、ということのほうが自然です。その自然な感情を、都市生活に合わせるために規律訓練で矯正してきたおかげで、今や私も立派に文明人をしているわけですが。

それに対して、ナッジが普及すれば、都市環境のほうが人間の素朴な感情に合わせる事ができるようになるかもしれません。例えば、2019年頃にアメリカで話題になった「アマゾン・ゴー」では、レジレス店舗の実験を行っています。入出店時に、スマートフォンで自動決済することで、レジが必要なくなるのです。そこにおいて我々は「森の中で果樹をもぎ取って食べる狩猟採集生活者」と同じ状況に置かれます。もはや万引を悪であると規律訓練する必要もなくなります。いや、そもそも、万引という概念すらなくなるかもしれません。

こういった取り組みはいわば、人の感情を「社会」の領域に置くのではなく、「世界」に属するものとみなして、「建築物」で操作しようとする考えだと説明できます。実際、ナッジにおける「人々の行動を予測し、可能な形で変える枠組み」のことを「選択アーキテクチャ」と呼んだりします。「アーキテクチャ」、つまり、人の行動に影響を与え、操作する「建築物」として構想されているんですね。

このナッジという政策手法は実際に効果があるようです。しかし、効果がありすぎて、むしろ問題になってもいるようです。どう問題になっているかというと、近代的な自由意志の信念に反するからです。本人がそれと気づくことなく感情や行動を変えられてしまう、というのは、見方によれば本人の選択の自由を侵害しているといえるからです。いわゆるパターナリズムと呼ばれる考え方の中でも特に強く個人の行動に介入するものです。だから、ナッジの研究者の間では、ナッジを、理性や自由意志といった近代的な信念とどう折り合いをつけるのか、ということが議論になってさえいます。つまり、理性で、それとわかる言語的説得や規律訓練のほうが、知らないうちに操作されてしまうよりも、自由意志的にはマシだ、というわけです。

実際的な費用対効果の高さと、自由意志との不和とのバランスをめぐる議論が、これからどうなされるのか、というのは、注目に値するだろうと思っています。

少しだけ未来に目を向けましょう。私はSF小説が好きなので、ちょっとSFめいた話をします。

人類の文明は、感情誘導のテック化と、それに基づくナッジの発達、普及によって、私達の「感情」という「言葉の通じない世界」を制御、誘導し、「社会」と同居可能にする「建築物」を作る段階に、これから入っていく可能性が示されたように思います。私はそれを楽観的に「可能性」とここでは呼んでみたいと思います。

古来から、大きな都市を作る際にはまず治水工事が行われました。川を制御、誘導する建築物を作ることによって川という世界と私達の生活を同居可能にしてきたわけです。
一方で、治水のための建築技術が未発達だったころの人類は、祈りの言葉を捧げるしかありませんでした。「川が静まりますように」と。それはまさに、先程の集会所の「仲良くしましょう」という張り紙ですね。そのような祈りの言葉を記した「呪符」を貼ることで、その施設の利用者の感情の大河が荒ぶらないよう、祈願したわけです。まあ、それは迷信でしかなく、実際的な効果はなかったでしょうけど。
しかし、現代に至って、感情という川を治める技術のイノベーションが起こりつつあるわけです。「感情誘導のテック化」と「ナッジ」という「建築物」が普及し、実装された未来都市において、我々は「仲良くしましょう」などという呪符に頼る必要はありません。仲良くするように感情を規律訓練する必要もありません。ただ、そこにいて、思うままに振る舞うだけで、仲良くできてしまう。そういう状況が出現する。それは果たして単純にディストピアと呼ぶべき状況でしょうか。ユートピアと言い切れないにしても、悪くない世界なのではないかと私は思います。

もちろん、このような未来の風景はアメリカや中国のような先進国の都市部ではまだしも、私が関わっているような、日本の地方の都市の、更にその郊外の、ソフトなまちづくりの現場のような位置には、まだ当面やって来ることはないでしょう。なんといってもここには、そんな最先端技術を導入する予算も知識も動機もないですからね。町内会ではZOOMひとつまともに使えない、みたいな段階です。私がこの未来を楽観的に、というか、のんきに捉えることができているのは、その距離感のせいかもしれませんね。果たして私が現役でまちづくりに関われている間に来てくれるものかしら。

しかし、仮にずっとずっと先の話だとしても、私はその未来がやってくることを結構楽しみにしているのです。私はまじめに、「地域で仲良く」が実現するなら、それに越したことはないと思っています。では、あの集会所で、一体何をどうすれば、K地区のお年寄りたちの「仲良く」は実現可能だったのでしょうか。利用者の我慢や、規律訓練に頼るのではなく、利用者が好きなように過ごしながらも、それが可能になるとするならば、その集会所は一体どんな建築物としてデザインされているのでしょうか。

建築を批評的に討論することができる皆さんにぜひご教示いただきたいと思い、その取っ掛かりとして、問題提起した次第です。

★1:戸田正直『感情―人を動かしている適応プログラム』東京大学出版会、1992

★2:アレックス・ペントランド (著), 小林 啓倫 (訳)『ソーシャル物理学:「良いアイデアはいかに広がるか」の新しい科学』草思社、2015

★3:矢野和夫『データの見えざる手: ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則』草思社、2014

★4:WIREDウェブサイト「人間はハックされる動物である」https://wired.jp/special/2019/ai-yuval-noah-harari-tristan-harris/

★5:厚生労働省ウェブサイト「受診率向上施策ハンドブック(第2版)について」https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_04373.html

★6:環境省ウェブサイト「日本版ナッジ・ユニット(BEST)について」http://www.env.go.jp/earth/ondanka/nudge.html

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谷亮治
建築討論

たに・りょうじ/1980年大阪生まれ。博士(社会学)。京都市まちづくりアドバイザー。代表作に『モテるまちづくり−まちづくりに疲れた人へ。』『純粋でポップな限界のまちづくり−モテるまちづくり2』(いずれも、まち飯叢書)。