大衆に寄り添う宗教建築

連載:連帯する個人:労働者・大衆の時代とその建築(その5)

Sumiko Ebara
建築討論
23 min readOct 24, 2023

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近代における宗教
宗教建築が建築界の華であることは疑い得ない。イギリスの登録建造物でも最高位にあたるグレードIの建物のうち約半分が宗教建築である★1。しかし 、それらのほとんどは、近代ではなく中世に建てられたものだ。

近代において大いにその存在意義を問われたのが宗教である。科学の進展や啓蒙思想の普及によって宗教の地位は大きく揺らいだ。だが、大衆にとって宗教は依然として生活の一部であり続けた。トマス・ペイン(1737–1809)でさえもが、理神論を述べながら、神の存在を信じ、晩年、あくまでキリスト教の墓地に埋葬されることを望んだ。今回は、18世紀末から20世紀の近現代社会において、宗教がいかに大衆に寄り添って来たかを建築に辿ってみたい。

Ely Cathedral , Cambridgeshire, 1083–1375年建設

英国国教会の樹立と非国教徒の出現
イギリスでは16世紀に、ヘンリー8世によって英国国教会が樹立され、国王を首長とした体制が確立された。その体制は現在まで続き、隣国フランスに比べると、安定的な道を辿ったかに見える。しかし、英国国教会も盤石であったわけではなかった。

1661年から65年にかけて制定された4つの法律は、いわゆるクラレンドン法典と呼ばれ、非国教徒を抑圧し、国教会の優位性を確保するための法律であった。

このような状況下においては、新天地を求めてアメリカに渡った者も多かった。一方、国内に残った非国教徒は、迫害を逃れるため、個人の住宅やパブなどで秘密裏に礼拝を行うようになった。彼らは、神は教会にのみあるのではなく、信仰を持つものが集まる場所にはどこでも神は宿ると考えた。

1688年の名誉革命の翌年1689年の寛容法は、国王に忠誠を誓いさえすれば、懲罰の適用はなされず、カトリックとユニテリアン以外は信教の自由を認めるものだった。ただし、審査法は残ったため、国教徒以外は公職に就くことができなかった。非国教徒への差別は依然、重いものとして受け止められていた。

ジョン・ウェスレーとメソジスト
メソジストの開祖であるジョン・ウェスレー(John Wesley 1703–1791)は、オックスフォード大学在学中に、弟チャールズとともに生活を自ら律することを目指す学生グループを作って活動を始めたのだが、卒業後は英国国教会の司祭となってアメリカに渡った。そこでウェスレーはモラヴィア兄弟会の活動に触れた。そして、帰国後の1738年、ロンドンのオルダースゲートで信仰覚醒を体験し、以後、生活に困窮する人々に対して市場などで青空礼拝を行うとともに、数多くの社会奉仕事業を行なった。

救貧院や老人施設などは、修道院解体に伴って担い手を失い、その後、チャリティ(charity 慈善事業)に代替されるところもあったが★2、18世紀は商業革命・農業革命、そして産業革命が進行する中、爆発的な人口増加が始まっており、貧民の救済は容易ではなかった。

ウェスレーの説教は多くの信者を集めた。だが、ウェスレーはこの期に及んでも国教会から離れることには慎重だった。彼は国教会の礼拝が行われる日曜ではなく、木曜の夕方に礼拝を行い、礼拝が重複するのを回避した。また、ロンドンにおける当初の活動拠点は、教会堂ではなく、元大砲製造工場を改装した建物で、その名も「ファウンドリー(Foundery工場)」と呼ばれるものであった。このファウンドリーには礼拝堂のほか、ウェスレーや宣教者の住居、集会所や薬局・手術室を備えた無料の施療所、学校などが入っていた。メソジスト派の活動の場はミーティング・ハウス(Meeting House)と呼ばれ、“メソジスト — 規律に沿った生活をする人”と呼ばれる人たちが安全に集まれる場所として認識された。

Foundery★3

ウェスレーらは多くの讃美歌を生み出し、賑やかな礼拝も行なった。その様子は、銅版画家として名高いウィリアム・ホガースによっても描かれているが、メソジストの礼拝は、庶民を熱狂でもってたぶらかす迷信的なもの、胡散臭いものにも映ったようだ。

ウィリアム・ホガース画 「軽信・盲信・狂信」★4
メソジストの礼拝の様子。ウェスレーは霊的体験から影響を受けており、メソジストは超常現象を擁護することもあった。コック・レーンの幽霊事件はその一例。左下の女性はウサギを産んだと主張したメアリー・トフト。その他、魔女や悪魔、幽霊などが描かれている。

ウェスレーの晩年、ファウンドリーの賃貸契約が切れる間近となって、ようやくメソジスト独自の礼拝堂が建てられることとなった(1778年竣工)。そして、ウェスレーの没後1795年、メソジスト教会は英国国教会から分離独立した★5。

左上:Wesley’s Chapel 外観、右上:同内観
左右下:メソジスト博物館に展示されている各種記念品・お土産品

非国教徒の増加
非国教諸派は、英国国教会の布教がいまだ及んでいない北部工業地域などで多くの信者を集めた。

第3回連載で述べたとおり、18世紀末から19世紀を通して、労働者の福利厚生に尽力した工場主の多くは非国教徒であった。彼らは産業革命を推し進めながら、数々の自由主義改革を求めた。その結果、選挙制度の改正や、第4回連載で述べた労働組合や協同組合などの団結を禁じた団結禁止法の廃止なども実現された。

そして、宗教面においても自由と平等を求める動きが高まった。1828年には審査律が廃止され、非国教徒が公職に就くことが可能になるとともに、1829年のカトリック解放法制定により、カトリックも信教の自由を認められ、公職に就くことができるようになった。

非国教徒の人口は1773年から1851年の間に約10倍にも飛躍的に増加した★6。それに伴い礼拝堂も巨大化の傾向が見られた。ウィリアム・W・ポコック(William Willmer Pocock 1813–1899)は、数多くのメソジスト派の礼拝堂の設計を行い、1891年から行われたウェスレーのチャペルの改修にも携わった。ポコックが手がけたメトロポリタン・タバナックル(Metropolitan Tabernacle, 1861)は、バプテスト派説教師チャールズ・H・スポルジョン(Charles Haddon Spurgeon, 1834–1892)のために建てられたものだった。

メトロポリタン・タバナックルができる以前、スポルジョンはロンドンのオーヴァルにあった、当時、最大規模のミュージック・ホールであるサリー・ミュージック・ホール(Surrey Music Hall, 1856)で説教をしていた。しかし、1861年にサリー・ミュージック・ホールは焼失し、新たな礼拝の場が作られることになった。

同年、エレファント・キャッスルに完成したメトロポリタン・タバナックルは、当時の建設雑誌『ビルディング・ニュース』誌★7によれば、サリー・ミュージック・ホールよりもさらに3割増の規模であった。建物の1階西端には男女別の洗礼者用の部屋のほか図書室があり、さらに地下には大きなスクール・ルーム、4つの教室、レクチャー・ホールがあった。

バプテストは新生児や乳幼児の洗礼を否定し、物心がついてから自らの信仰告白に基づき洗礼を行う。牧師が全てを取り仕切るのではなく、信者が交代で説教を担当することもある。個々人に、自覚的な関与を求めるなかで、民主的な姿勢が育まれ、個人の自由と自主・自律を尊重する“近代人”の育成がなされたとも考えられよう。

左:サリー・ミュージック・ホールでのスポルジョンの説教の様子★8
右:メトロポリタン・タバナックル内観★9

英国国教会の復興
非国教諸派が近代的な“個”の自覚を促しつつ、中下層階級の人々に寄り添った慈善事業によって多くの信者を集めたのに対して、英国国教会も危機感がないわけではなかった。しかし、国家の庇護があったことから、慢心が生まれていたようにも見える。

英国国教会では、非国教徒の増加は、単純に、国教会の教会堂不足(教会堂の席数不足)によって引き起こされていると考えた。そして、隣国フランスでの革命の余波を押しとどめるためにも宗教心の向上が望ましいとの認識から、1818年および1824年の教会堂建設法(Church Building Act)によって、新たな教会堂建設資金が政府から拠出されることになった。

この教会堂建設の補助金の分配および指導を行うために1818年に設立されたのが教会堂建設委員会(The Church Building Commission: CBC)であった。教会堂建設委員会はおよそ600の教会堂を建設した★10。

これらの教会堂は、初期にはジョン・ソーン(John Soane, 1753–1837)やジョン・ナッシュ(John Nash, 1752–1835)ら有名建築家を起用し、建設には最大20,000ポンドもの資金を拠出したが、一席あたりの建設費用からして大きな批判を受けることにもなった。しかも、これだけの費用をかけても、建てられた教会堂は中世に建てられた教会堂と比べると、規模が大きいせいもあって、装飾の密度が低く、のっぺりとしていた。歳月のかもしだす風格もなく、見劣りがするのは避け難かった。教会堂建設委員会による補助事業は次第に規模が縮小されて行った。教会堂建設委員会は1856年末までで活動を終え、1857年1月1日をもって宗教委員会(Ecclesiastical Commission) に吸収された。

St John’s, Bethnal Green, London designed by John Soane

教会堂建設協会(Incorporated Church Building Society: ICBS)
一方、教会堂建設委員会と混同されやすいが、別の団体として教会堂建設協会(Incorporated Church Building Society: ICBS)という法人があった★11。この協会も1818年に設立されたが、補助事業の規模は1件あたり50ポンドから100ポンド程度が多く、教会堂建設委員会の補助額に比べると微々たるものであった。しかし、教会堂建設協会の活動期間は教会堂建設委員会よりもずっと長く、20世紀後半の1982年まで存続した★12。

教会堂建設協会は、当初は聖別された教会堂の建設補助事業のみを行なっていたが、1858年、布教施設建設のための特別基金を創設した。この特別基金は仮設の教会堂、学校併設教会堂、そして世俗用途施設の建設に対する補助を行うための基金であった。この背景には、人口密集地域、地方の辺境地においては聖別された正式の教会堂よりも、より簡易で安価な、地域に必要とされるさまざまな用途に使えるものが求められたということがあった。しかし、同協会の規約においては、そのような施設へ資金を供出することはできない決まりとなっていた。そこで、一般基金とは別に、特別基金を設けることが呼びかけられたのだった。この基金はほどなく「布教施設基金 Mission Buildings Fund」として定着した。

教会堂建設協会が建設を補助した布教施設には、正式な聖別をいまだ受けていない布教教会堂のほか、地方で需要の高かった学校施設を併設したものが多かった。これは、メソジストやバプテストがさまざまな教育機会を提供していたことに対抗するものであった。さらに、メソジストやバプテストは救貧事業も数多く手がけており、それにあたる活動を展開するために、読書室や保育所などのような、学校施設以外の機能も付加されて行った。

オールド・ニコル通りのホーリー・トリニティ
この種の建物として名高いのがロンドン東部のショーディッチ地区のオールド・ニコル通りに建てられた英国国教会のホーリー・トリニティ教会であった。この地区に1886年末に着任したアーサー・オズボーン・ジェイ(Arthur Osborn Jay, 1858–1945)牧師は、友人の小説家アーサー・モリソン(Arthur Morrison, 1863–1945)にこの地区を訪れることを促し、その結果、モリソンはこの地区をモデルとした小説『ジェイゴーの子 A Child of Jago』(1896年)を執筆した。極貧地区で窃盗を繰り返す少年とその家族の救い難い生活を描いたこの小説の中で、新たな教会堂を建設して、住民によりそった活動をしたスタート牧師のモデルとなったのがジェイであった。

貧民地区では日常的に喧嘩も絶えなかったが、それに勝利することは大きな栄誉であった。ボクシングはそのようなストリート・ファイティングに一定のルールを与えたもので、人気のスポーツであった。そこで、なんと、ジェイは教会堂の下にボクシング・ジムを設置した。 “メンズ・クラブ”という名目で、飲酒は禁止されていたが、カードやドミノ、体操をするスペースがあった。一日の労働が終わった男たちが、飲んだくれて騒ぎを起こすより、“健全”な夕べを過ごす場を提供したのである。その一角には、失業者のための簡易宿泊ベッドもあった。

左:1階 舞台の横には簡易ベッドが作られた。
右:1階 体操器具が置かれている。螺旋階段の先にあるのは牧師またはケアテーカーの部屋★13

ホーリー・トリニティは、のちに数々の名ボクサーを輩出した。庶民の暮らし、“文化”に寄り添うことを主眼とした活動は、多くの共感をよび、支援者を得ることにも繋がった。

Holy Trinity, Old Nichol で行われたボクシングの試合の様子★14

このような聖俗二重の用途を持った施設においては、20世紀半ばにかけて、聖俗の“棲み分け”をいかにするかがさまざまに検討された。祭室と反対側に別途、世俗行事用のステージを設けるものも出て来た。だが、この場合、聖俗の転換の際、椅子の向きをすべて変える必要があるなど、不具合もあった。そのため、床面積の少なくとも1/3は礼拝専用とすることが推奨されるようになった。英国国教会の二重用途施設は、大勢として、聖俗の区切りを明快にした上で、あくまでも聖なる空間に重きを置く方向で平面計画を進化させて行った。

Bricket Wood Mission Church and Hall, 1936★15

独立祭壇方式の教会堂
しかし、聖俗の区切りというものは、どのようにあるべきなのだろうか。前述のように、バプテストの礼拝においては、一般信者が説教することもあり、聖職者と一般信徒の別をつけないという考えもある。また、クエーカーの礼拝では、説教すらなく、円陣に椅子を並べて各自で沈思黙考する形式もある。

Friends Meeting House, Hampstead, London
瞑想の際に周りの景色に気を取られないよう、腰高まで壁がある。

20世紀初頭には、聖職者と一般信者の関係について、むしろ礼拝に信者の積極的な関与を求めるべきではないかとの議論が提起されるようになった。

そこで、教会堂建築の平面計画において、大きな変化として現れたのが「独立祭壇方式」であった。以前の祭壇は、東壁に設置されており、聖職者は信者に背中を見せていたが、祭壇を壁から離し、聖職者と信者が向かい合って礼拝を行う形式が出て来た。

この独立祭壇方式は、ピーター・ハモンド(Peter Hammond, 1921–1999)が率いる新教会堂研究グループ(New Churches Research Group)においても検討され、推奨されるものとなった。ロンドンの東側、ボウ地区のセント・ポール教会堂は、中央祭壇式で、まだ実作のなかった若手ロバート・マグワイヤ(Robert Maguire, 1931–2019)を起用して、建設された。

St Paul’s, Bow Common, London, 1958–60
中央に祭壇があり、信者は三方向から祭壇を囲む。

多用途教会堂 Multi-purpose church
そして、同じく新教会堂研究グループのメンバーで、バーミンガム大学の礼拝および宗教建築研究所(Institute for the Study of Worship and Religious Architecture)の所長であったJ. G. デイヴィス(John Gordon Davies, 1919–1999)は、バーミンガム近郊のホッジヒルのセント・フィリップおよびセント・ジェームズ教会において、「多用途教会堂 multi-purpose church」という新たな教会堂の形を模索した。

この教会堂のコンセプトは、あらゆる聖俗の区別をなくすというものであった。デイヴィスは『教会建築における世俗用途 The Secular Use of Church Buildings』(1968年)を著し、教会堂において、歴史上さまざまな世俗行事が行われて来たことを述べ、最終的に、礼拝堂では、キリスト教者が行う可能性のあるすべてのことが行えるはずで、祭壇の前で行うのが不適切なら、その行為は、他の場所でやっても不適切だという考えに至った。

ホッジヒルのセント・フィリップおよびセント・ジェームズ教会では、祭壇のすぐ目の前でバトミントンやダンスが行われている光景が展開された。

St Philip and St James, Hodge Hill, Birmingham★16

この建築は、アーキテクチュラル・レヴュー誌の伝説的な特集“マンプラン Manplan”でも取り上げられた★17。宗教を日常生活から切り離すのではなく、 日常生活の中に宗教を位置付けたこの教会堂は、宗教実践の場の新たな形として注目を浴びたのだった。

だが、この教会堂は維持修繕の費用を捻出することができず、2008年に閉鎖された。20世紀における宗教離れは如何ともしがたいものがあったのだろう。

多宗派教会堂 Multi-denominational church
ホッジヒルのセント・フィリップおよびセント・ジェームズ教会の信者は、教会堂が閉鎖された後は、近隣の合同改革教会派と教会堂を共用することとなった。このように、他の宗派と礼拝の場を共用する動きは、キリスト教界の全統一を目指すエキュメニズム(Ecumenism)運動の一つと位置付けられる。

オックスフォード郊外のブラックバード・リーズ(Blackbird Leys)は、このエキュメニズム運動のイギリスにおける最初の実践の場となった地域である。HPシェルの屋根を持つ独創的な教会堂は、1965年4月10日ホーリー・ファミリー教会堂として献堂された。

ホーリー・ファミリー教会では、国教会、バプテスト派、メソジスト派、長老派、フレンド派、会衆派による話し合いが持たれた。そして1966年には試験的に日曜午前に国教会、夕方にフリー・チャーチが礼拝を行うこととなった。1969年には教会建築共用法が制定され、多宗派による教会堂の共用が合法化された。さらに、1970年には国教会とフリー・チャーチによる合同礼拝が行われることとなった。1973年にホーリー・ファミリーはエキュメニズムの実験の場として認定されることとなった。その後、ホーリー・ファミリーには英国国教会とフリー・チャーチの2人体制で、礼拝や洗礼などの行事を執り行う体制が確立された。

当初は、礼拝の進行などにつき、意見の相違もあったが、徐々に擦り合わせが行われたそうだ。そして、現司祭のヘザー・カーター師は、元は国教会の司祭であるが、その後、メソジスト派、バプテスト派、合同改革派、モラヴィア教会派の聖職者としての資格を得て、多宗派合同による礼拝を行う体制を作っている。

カーター師にお話を伺ったところ、教会は託児事業やコミュニティ・カフェの運営のほか、アルコールや麻薬依存者の支援事業、互助金融(Credit Union: 銀行口座を持つことができない人たちのための金融機関)など、社会の底辺にいる人たちを支える活動を行うことを使命と考えているとのことであった。

また、前任のジェームズ・ラムゼイ師も、教会とはすべてが集まる“中心”ではなく、そこから何かが始まり、広がって行く場所だと述べた。ラムゼイ師の妻のセリア・ワード氏は画家であるが、着任した時、この地区には工場と住宅、パブ、学校といった生活に必要なもの以上のものがなかったが、人生には何かそれ以上のものがあることが伝えたいと考え、地域の子供たちに絵を教え、壁画やモザイク画の制作を行ったそうだ。現状の写真を見ながら、彼女は、20年近く前に描かれた絵だけれど今でも生気が感じられるのは驚きだと述べた。そして、稚拙ではあるけれど、なかなか良い。何よりも、何もないよりずっといい、と感慨深げに語った。

Holy Family, Blackbird Leys, Oxford

大衆に寄り添う宗教建築の試み
ラムゼイ師夫妻を訪れたのはノーフォークの小さな村であったが、帰りの列車に乗る前に、いくつかの古い教会を案内してくれた。それらの教会堂は、いずれも出入りは自由であった。ラムゼイ師は、教会堂のもっとも基本的な機能は、誰にでも、日常生活のストレスから離れ、静かに、より深淵な真実に向き合う場を与えることではないか、と語った。

St Margaret’s, Cley, Norfolk, 14c
ユーモラスな会衆席の彫刻は、親しみやすさを狙ったものかもしれない。

大衆に寄り添う宗教建築とはどのようなものか。18世紀末から20世紀にかけてのさまざまな試みは、まさにそれを模索したものであったと言えよう。残念ながら、二重用途教会堂や多用途教会堂は、有名建築家の手によらず、純粋な宗教施設でもないことから、イギリスの歴史的建造物保護の網から漏れ、取り壊される事例も多い★18。だが、これらの建築は、聖俗の“協同”について、さまざまな試みがなされたことを伝える貴重な史料である。

★1 Historic England, “Caring for Places of Worship 2010”, p. 2. (2023年10月12日閲覧)
★2 金澤周作『チャリティの帝国』岩波新書, 2021によれば、各時代におけるチャリティは選別的でもあった。
★3 The Museum of Methodism のHP掲載に筆者加筆https://www.wesleysheritage.org.uk/object/john-wesleys-foundery/
★4 Credulity, Superstition, and Fanaticism
★5 Methodists Separate from Church of England 1795
(2023年10月3日閲覧)
★6 尾上正人, 社会主義の世俗化と第一次世界大戦 ――「クローズIV社会主義」前史, 大原社会問題研究所雑誌 №526・527/2002.9・10, p. 59, 60.
★7 The Building News, 21st Dec. 1860, p. 975.
★8 W. ホガース Credulity, Superstition, and Fanaticism
★9 Vernon John Charlesworth, The Metropolitan Tabernacle and its Institutions: London: Passmore & Alabaster; Brine Bros. & Co, 1882.
★10 M. Port: 600 New Churches: The Church Building Commission 1818–1856, 2006.
★11 拙稿「教会堂建設協会による二重用途施設の建設について(その1)19世紀半ばから20世紀初頭の状況)『日本建築学会計画系論文集』2023年11月号掲載予定参照。
★12 Gill Hedley: Free Seats for All: The boom in church building after Waterloo, Umbria Press, London.
★13 Boundary Estate 2 — The Vicar, the Author & the Jago
(2023年10月3日閲覧)
★14 The Graphic, 19th Oct. 1889, p. 473.
★15 ISBS: Fifty Modern Churches, 1947, p. 132に筆者着彩加筆。
★16 Architectural Review, 4th Mar. 1970, p. 216.
★17 奇しくもこの特集は、2023年9月12日から王立英国建築家協会で回顧展が行われている。
また、Architectural Reviewのウェブサイトにこの特集が再掲されている。★18 ブラックバード・リーズのホーリー・ファミリー教会も現在改築計画がある。

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Sumiko Ebara
建築討論

えばら・すみこ/建築史・建築保存論。千葉大学大学院工学研究院准教授。著書『身近なところからはじめる建築保存』、『原爆ドームー物産陳列館から広島平和記念碑へ』