協同組合の理想

連載:連帯する個人:労働者・大衆の時代とその建築(その4)

Sumiko Ebara
建築討論
21 min readAug 24, 2023

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この建築は何?

ヴィクトリア朝のイギリス社会は混沌としている。未曾有の繁栄を極めたかと思えば、一方で貧困も甚だしかった。この建築、何だかお分かりになるだろうか?

答えは、クロスネス(Crossness Pumping Station, 1865 年, Grade I ★1)という下水処理施設の中央明かり取りである。

1858年夏、ロンドンは“Great Stink”と呼ばれる大臭気に襲われた。テームズ河に垂れ流しとなっていた汚水から発生する臭気は、国会や裁判所の業務にも支障を来たすほどに耐え難いものとなった。当時、瘴気はコレラの原因であるとも考えられていた。そこで、下水道を整備し、テームズ河下流域に汚水処理施設を建設することになった。1865年の開所式はエドワード王子のほか、国会議員、ロンドン市長はもちろんのこと、カンタベリー大主教、ヨーク大主教も陪席し、賑々しく執り行われた。

内部に設置された下水を汲み上げる蒸気式の巨大な4基のポンプには、ヴィクトリア、アルバート王配太子、アルバート・エドワード(ヴィクトリア女王の息子、のちのエドワード7世)、アレクサンドラ(エドワードの妻)という名前がつけられている。王族の名前が下水処理場のポンプの名前になっているとは・・・!

左:クロスネスの内部、2階 ”アルバート・エドワード”(左)と”アレクサンドラ”(右)
右:修復され、稼働できるようになった“アルバート王太子”

汚辱にまみれた都市環境を、国を挙げて、華々しく、賑々しく、造り替えようとするバイタリティには仰天させられた。

さて今回は、このクロスネスが建てられたのと同時期に形成された協同組合とそれに関連した建築を見て行きたいのだが、協同組合と労働組合との関わり、小売と卸売、生産者と消費者、銀行、保険、教育などが複雑に絡み合っており、なかなか全体像を捉えるのが難しい。

労働者・大衆の権利を求める運動、相互扶助の形はありとあらゆるものが試行されたが、さまざまな思惑・利権が拮抗し、内部抗争や外圧により、混濁した流れの中で泡のように消えそうになった高邁な理想もあった。

その時、建築はどのような役割を果たして来たのだろうか?

『人間の権利』

思えば、第1回連載で言及したトマス・ペイン(1737–1809)の生涯は波乱万丈だった。イギリス、ノーフォーク州のセットフォードのコルセット職人の息子として生まれ、職を転々としたのち、ベンジャミン・フランクリンに出会い、アメリカへ渡った。

ペインの主張は、基本的に人間は誰しも生まれながらに権利を持っているということであった。しかし、その論理を構築する中で、世襲的な立憲君主や貴族を批判し、神と人間の間に介在する組織的なあらゆる宗教を否定するに至って、ほとんど周りにいるすべての人を敵に回すことになった。彼の遺骨はキリスト教の墓地への埋葬を拒まれたばかりか、墓は暴かれ、遺骨は散逸の憂き目に遭った。現在では、ほぼ当たり前、“コモン・センス”になっていることを主張することが命をも脅かす危険で不埒な思想と見做される時代だったのだ。

だが、今となっては、由緒好きのイギリス人はペインのゆかりの地をことあるごとに主張しつつ、ペインの思想の“ゆりかご”となった場所を顕彰している。

1768–1774年にT.ペインが住んだ家, 15世紀に建てられた, Grade II*

R.オーウェンの“理想”

第3回連載で取り上げたニュー・ラナークの経営者ロバート・オーウェンは、労働組合、協同組合いずれの形成にも大きな役割を果たした人物だった。1825年アメリカに渡り、ニュー・ハーモニー村の建設に取り組んだが、その試みは思うように進まず、1828年には帰国したところまでは前回述べた。帰国後、オーウェンは主にロンドンで活動を始めた。その家はロンドンのブルームズベリー地区の北辺にあった。

R. オーウェンのロンドンの家, Grade II。銘板はEnglish HeritageではなくMarchmont Associationによって設置されたもの

当時、イギリスではフランス革命の余波を恐れて1799年に制定された団結禁止法が1824年に廃止され、労働組合を結成することが可能となっていた。その結果、労働組合運動が盛んとなる一方で、生産者が協同して、協同組合生産を開始する動きも活発化した。1828年には月刊誌『協同組合人』が発行され、初期には4つの協同組合が記録されただけだったが、29年末には130の組合、1830年8月の最終号では300の組合へと激増した。マンチェスター近郊のロッチデールにおいて、のちの公正先駆者協同組合の前身となる友愛共同組合が結成されたのも1830年であった。この組合は、1829年のストライキのなかから発生したフランネル職工たちの組合で、何人かの熱狂的なオーウェン主義者の支援を受けて設立され、手織工の製品を大衆に売り出したものだった★2。『協同組合運動の一世紀』を著したG. D. H.コールによれば、当時は、「労働組合主義と協同運動の歴史は、両者を別々にほぐして数えなおすことができないくらいからみ合って」いた★3。

1832年、オーウェンはロンドンのグレーズ・イン・ロードに労働者たちが貨幣を使用せずにその生産物をお互いに交換しうる全国衡平労働交換所(National Equitable Labour Exchange)を設立し、1834年には全国的な労働組合組織である全国労働組合大連合(Grand National Consolidated Trades Union)も結成された。これらの組織はいずれも短命であったが、こうした活動を通して、労働者一人一人の権利が認識されるようになった。

だが、逆説的なようだが、オーウェンはこの頃、労働組合にも協同組合にも興味を失いつつあったようだ。オーウェンにとっては、「共同土地所有と共同生産による共同体の建設」こそが目標であり、労働組合や協同組合は、あくまでもその手段であった。そんなオーウェンの考えには、次第について行けなくなる人たちも出てきた。ハンプシャーのクイーンウッドはオーウェンによる共同体建設の最後の試みだったが、労働者の共同体とは名ばかり、入植者たちは農業の経験がなく、労働者は雇い入れであり、浪費的な運営は批判を浴びた。

ロッチデール公正先駆者協同組合

そんな中、1844年にオーウェンの理想主義とは一定の距離を置き、現実的な原則を掲げたロッチデール公正先駆者協同組合(The Rochdale Society of Equitable Pioneers)が結成された。

ロッチデール公正先駆者協同組合の最初の店舗, Grade II。左側は増築部

イギリス北部マンチェスターから鉄道で10数分のところにあるロッチデールは繊維産業で栄えた町だった。元々は毛織物が盛んだったが、ヨークシャーのソワービーからペナイン山脈を越え、マンチェスターに至るロッチデール運河が1804年に開通し、綿織物や絹織物の材料供給および製品輸送の手段も確保できた。紡績機を動かす動力も当初はロッホ河の水力が使われていたが、石炭が近場から取れたため、蒸気式への移行もスムーズであったと思われる。人口は1821年には23,000人だったものが1841年には68,000人と約3倍にも増えたそうだ★4。

当時、工業村では、「トラック制度」という給与の一部または全部を通貨以外の物品で支給する制度、あるいは「トミー・ショップ」と呼ばれる雇い主が経営する売店が幅をきかせ、粗悪品を売りつけることが横行していた。このような悪徳な商売は、大都市では次第に駆逐されて行ったが、他に選択肢のない僻地の工業村では購買者は弱い立場にあった。秤のごまかしや、牛乳に水、小麦粉に石灰、オートミールに小石が混ぜられることが日常茶飯事であったという。消費者が怒らないわけはない。そこで、ロッチデール公正先駆者協同組合では、「純粋で混ざりもののない商品だけを売る」ことを大原則の一つとした。

左:当初は樽に板を渡したテーブルで販売が行われた。
右:7つの原則
(@Rochdale Pioneers Museum)

また、自由加入制、出資持ち分や購買高によらず組合員1人が1票を有する民主的な運営、出資と購買高に応じた配当、出資に対する利子の制限といったものがあった。そのほか、政治・宗教上の中立という項目は、ロッチデールのような北部工業村ではユニテリアンやメソジスト、バプティスト、フレンド、パティキュラー・バプティストの方が国教会やカトリックに先んじて布教を行っており、ありとあらゆる宗派が併存していた。政界も政治家たちが政策をめぐって離合集散を繰り返しており、むしろ、政治・宗教に関しては「中立」の立場以外は取りにくかったかもしれない。

そして、「現金取引」を原則としたのは、当時、貧しい労働者には「掛け売り」は不可欠と考えられていたが、失業や傷病に対する備えを持つこと、節約を促すという倫理的側面もあった。

ロッチデール公正先駆者協同組合の名称にある「先駆者 Pioneers」には、旧弊を糾し、「公正 Equitable」な社会を作る先駆者たろうとする理想が込められていた。そこで、重要な役割を果たしたのが、教育だった。

実務教育から教養の教育へ

トード・レーンの建物は、元は羊毛用の倉庫で、ロッチデール公正先駆者協同組合はその1階を借り受け、倉庫の入口の大きな扉を店舗用のドアと窓に入れかえる改修をした上で、仕事が終わった後、週2晩だけ店舗を開いた。1848年、その一角に最新の新聞雑誌が読めるコーナーが設置された。1850年には上階を使用していたメソジストが礼拝堂を別の場所に移したため、組合で建物全体を借り、新聞・図書閲覧室を開設した。

ロッチデール公正先駆者協同組合は、1877年には組合は14の図書館と、定期刊行物を別にして総計13,389冊の蔵書を有していた。蔵書は文学を含め幅広い分野を網羅していたが、技術よりは科学に関する本を数多く取り揃えていた。

また、実験室も備え、顕微鏡の貸し出しも行っていた。この図書館は、純粋に組合員に「混ざりもののない」知識を与えることに主眼が置かれていたとG. D. H.コールは述べており★5、単に協同組合に関する教育といった狭い視野ではなく、労働者の知識および一般教養を授けることに目を向けたものだったようだ。

19世紀前半には各地に職工講習所(Mechanics’ Institute)が設立されたが、それらは製造に直接結びつく技術を提供するものであった。それに対して、1854年にロンドンで設立された労働者カレッジ(Working Men’s College)はキリスト教社会主義者のフレデリック・デニスン・モーリスによって設立され、のちにジョン・ラスキンも講師として加わり、画家D. G. ロセッティらによる美術教育が行われたことで知られる。19世紀半ばには「労働者の教育」は単なる技術の習得ではなく、一般教養や芸術を通した教育へと潮流が変わりつつあり、ロッチデールの図書館もその流れに同調するものだったと言えよう。後にロッチデールにはオックスフォード大学の出張講義も招致された。

左:労働者カレッジの1905年にカムデンに建てられた校舎, Grade II
右:Auspicium Melloris Aevi「より良い時代への希望」と書かれている

ホリヨーク・ハウスとその周辺

教育を重視する組織にとって、アーカイブズは図書館と並んで両輪の役割を果たす。マンチェスターの中心市街地の北部、マンチェスター・ヴィクトリア駅の近くには、ナショナル・コーペラティブ・アーカイブズ(National Co-operative Archives)がある。1903年にロバート・オーウェンの書簡を主な資料として誕生し、1911年からは、協同組合運動の功労者であるジョージ・ジェイコブ・ホリヨーク(1817–1906)を顕彰して建てられたホリヨーク・ハウスに拠点を持っている。

これ幸いと、私も協同組合の建築に興味がある旨、メールで伝えた上で11月末にこのアーカイブズを訪れると、ホリヨーク・ハウスに関する図面や雑誌記事、協同組合に関する書籍などが準備されていた。第2回連載で紹介したジョン・ルイスのヘリテージ・センターと同じく、目録は公開していないものの、アーキビストが利用者の希望を聞き、資料を出してくれる方式である。この日も、とてもすべては見られないくらいの資料がどっさり準備されていたのだが、建築に興味があるのなら、ホリヨーク・ハウスの周辺の協同組合関連の建築を見ないかと提案されたので、急遽、街歩きとなった。

卸売協同組合(Co-operative Wholesale Society:CWS)は、1896年にF. E. L. ハリス(Francis Eldred Lodge Harris 1864–1924)を組合の建築家として雇用し、翌1897年には建築部門を創設した。

彼らの設計したハノーヴァー・ビルディング(Hanover Building, 1907年, Grade II)は、6階建の煉瓦造で大オーダーの柱もついたバロック的なもの、協同組合銀行は古典主義風(Co-operative Bank , 1930年, Grade II)のどっしりとした建築であった。

左:ハノーヴァー・ビルディング
右:協同組合銀行

しかし、1930年にL. G. エキンス(Leonard Gray Ekins 1877–1948)、W. A. ジョンソン(William Albert Johnson 1885–1952)、W. G. タウンゼント・グレイ(William G. Townsend Gray 1886–1946)がオランダおよびドイツに近代建築を学びに行き、その結果、新オフィスで会計および健康保険部門の入ったレッドーファーン・ビルディング(Redfern Building, 1936年, Grade II)や、紳士服卸売店舗のダンチック・ビルディング (Dantzic Building, 1942年, Grade II) は、開口部が各階からやや迫り出し、水平に連なる窓が印象的なモダンな建築となった。

左:レッドファーン・ビルディング
右:ダンチック・ビルディング

戦後に建てられた協同組合保険(Co-operative Insurance Society:CIS)の本部 (CIS Tower, 1962年, Grade II)や、同じくCISのオフィスであるニュー・センチュリー・ハウス(New Century House, 1963年, Grade II)は高層建築で、隣接するホール(New Century Hall, 1963年, Grade II)はミース・ファン・デル・ローエ風である。

左:CISタワー
右:ニュー・センチュリー・ビルディングとホール

そして、最新の建築は、2013年に竣工したCo-op Group の新オフィスで、協同組合の2つのシンボルである束ねた麦の穂と蜂の巣を合わせたような外観となっている。

Co-op Groupの新しい本部

こうしてみると、協同組合に関する建築は様式的には実に多種多様である★6。その時々で、時代の潮流にあわせて、人々の心を掴む建築が作られて来た様子からは、協同組合運動が、現実的な路線を堅持することで、大衆の支持を受け、着実に成長して来たことが窺われる。

後回しにされた課題

しかし、順調に発展を遂げたように見える協同組合運動の中で、やや後回しにされた課題もあった。

例えば、ロッチデール公正先駆者協同組合の原則には「現金取引」があったが、これは、節約をすることが困難な低所得者層を置き去りにすることになった。協同運動は、よりよい賃金を支払われる労働者たちの運動として発展した側面があったのである。かわいらしい缶に入ったお茶やお菓子、バターは最下層の労働者の家庭には届かなかったのだ。この問題はCWSによる輸送システムの拡充、そして1934年には小売部門(CWS Retail Society のちのCo-operative Retail Services, CRS)を設立し、資本主義社会で競争力を鍛えられることで、徐々に解決されていったようだ。今では、Co-opのスーパーマーケットはかなり安価な商品を取り揃えている印象である。

左:CWSブランドのトフィーの缶
右:バターの刻印

また、協同組合運動は、ある意味で、「生産者」よりも「消費者」への利益還元を重視し、結果として、「労働」および「労働者」の尊重が後回しになっていることも指摘されている★7。これは、卸売部門が集結した卸売協同組合(Co-operative Wholesale Society:CWS)は発展したが、生産者を中心とした協同組合生産連盟(Co-operative Productive Federation: CPF)は、論争の果てに19世紀末には四分五裂してしまったことに象徴的であろう★8。

だが、「生産者」の利潤を求める理想は、のちに、第2回連載で紹介したジョン・ルイス百貨店における労働者協同組合のような取り組みに形を変えて推進されて来たとも言える。イギリスにおいても、生産者組合と消費者組合の融合には関しては、いまだ、発展途上のようである★9。

ホリヨーク・ハウスの碑文

実は、前述のG. J. ホリヨークは「消費者」と「生産者」の利益をめぐる論争の中では、非主流の「生産者」派の人物だった。ホリヨーク・ハウスの角には例によって、碑文が掲げられている。注目したいのは、これが単にホリヨークの業績を讃えるのではなく、協同組合中央会(Co-operative Union)の理念目標を書いている点だ。

1. 協同組合の設立と連携を行うこと。

2. 著作や法律、商業を通じた助言と指導を通じて、協同の原則についての知識を広めること。

そして、建設の経緯として、

ホリヨーク・ハウスは794の協同組合のメンバーにより、自由と変革のために70年近く精力的に働いたホリヨーク氏を永久に忘れないために建設された。

と述べられている。

よく見ると、ホリヨーク・ハウスの壁材は石ではなく、テラコッタである。確かにこんな水色の石材は自然界には少ないだろう。新建材を使い、倹約もしながら、それでも愛着を持てる建物を作ろうと精一杯、知恵を絞ったのだろう。

左:ホリヨーク・ハウスの碑文
中:ホリヨーク・ハウス正面
右:ホリヨーク・ハウス隅部

射程の長い目標

協同組合の理想は、一代程度では到底、実現されない。だからこそ、世代を超えて理念を伝える教育やアーカイブズ、そして、時代ごとの人々の刻苦精励の過程を伝える碑文や建築が重要な役割を果たしている。

今回見て来たように、大衆の生活環境の改善のために建てられた建物は、華麗なクロスネス(Grade I)のようなものばかりでなく、むしろ有名建築家によらず、それほど特徴のある建物ではないことも多い。しかし、「建築的価値」と「建築の価値」は異なる。イギリスには全国で約50万件もの登録建造物があるが★10、その中でかなり多くの建物が、「建築的価値」よりも、「建築にまつわる価値」と併せて登録がなされているように思われる。

人々の事績を伝えるのには、碑文や説明板も有用だ。だが、建築は、訪れる人に共有の場所・空間体験を与えてくれる。それこそが、建築が持つ大きな力である。

協同組合関連の建物の多くは、登録建造物の約92%を占めるGrade IIの建物であるが、街角のあちこちで、その理念を伝えるべく、現在、未来に生きる人々にエールを送っているように感じられる★11。

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★1 Grade はイングランドとウェールズの登録建造物に与えられる等級。およそ374,000件のうち、Grade Iは2.5%、Grade II*は5.5%、Grade IIは92%。スコットランドはGrade A, B, C、北アイルランドはGrade A, B+, B1, B2となっている。
★2 G. D. H. コール著、森晋監修、中央協同組合学園コール研究会訳『協同組合運動の一世紀』家の光協会, 1975, p. 36.
★3 前掲G. D. H. コール『協同組合運動の一世紀』p. 39.
★4 the Wood Family History Websiteによる
★5 前掲G. D. H. コール『協同組合運動の一世紀』p. 342, 343.
★6 Lynn Pearson, England’s Co-operative Movement. An Architectural History, Historic England, 2020. には多種多様な協同組合運動に関する建築が取り上げられている。
★7 杉本貴志「「労働」をめぐる協同組合のビジネス・エシックス」,『ビジネスエシックスの新展開』(研究双書第147冊、関西大学経済・政治研究所)pp. 123–137.
★8 前掲G. D. H. コールは『協同組合運動の一世紀』p. 309において、長靴・短靴、衣料、印刷、その他の小規模な手工業については、生産者共同運動が発展したと述べ、生産者の協同運動が可能なのは以下の3つの要件が満たされる場合だとした。(a)熟練労働者を高い比率で用い、(b)あまり高価な資本装備を要せずかつかなり小さな規模でも経済的に運営でき、(c)消費者組合を通じてその生産物の大半を販売できる事業
★9 前掲杉本貴志「「労働」をめぐる協同組合のビジネス・エシックス」ほか、松本典子「イギリスにおける労働者協同組合の現状と課題」『労務理論学会誌』2016年25巻, p. 105–119 など参照。
★10 日本は国指定の国宝・重要文化財が2,557件、登録文化財が13,637件。都道府県・市町村の選定文化財が12,402件、登録文化財が591件、それ以外が908件。合計3万95件(2023年8月1日現在 文化庁HP, 文化財指定等の件数, 2023年8月20日閲覧)
★11 前掲Lynn Pearsonの著作は数多くの協同組合関係の建築を紹介している。また、Nick Mansfield, Buildings of the Labour Movement, English Heritage, 2013は数多くの労働運動に関する建築を紹介している。

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Sumiko Ebara
建築討論

えばら・すみこ/建築史・建築保存論。千葉大学大学院工学研究院准教授。著書『身近なところからはじめる建築保存』、『原爆ドームー物産陳列館から広島平和記念碑へ』